筑波山伝承「ガマの油売り口上」
戦後、筑波の町おこし
観光業振興の目玉として復活
筑波山ガマ口上の誕生
1737(元文2)年、常陸国筑波郡永井村(旧新治郡新治村大字永井の農家に平助という者が生まれる。
平助9歳の頃、永井村の普門院の雑役に雇われる。
16歳の頃、出火あり平助は責任をとってやめ江戸へ出ることになった。
何とか深川のとある問屋の雑役に就くことができた。実直で働き者だったので評判は良かった。
機会があり筑波山大御堂講中参拝に参加、筑波山大御堂の門前の店で弘法の霊薬辰砂と地元で古くから薬としていたガマ(蟾酥・センソ)を主材としたガマの膏薬(蟾酥膏)を見つけ感激、折からの大御堂の夕暮れの鐘の音を耳にし、江戸浅草で大道販売しようと思いついた。
大道商人の夢捨て難く店をやめ居合抜きで客を集め歯みがきを売る大道商人の仲間に入った。
大道販売のコツを体得し、特にガマの膏薬については熱心に工夫を凝らした。
長井兵助の居合抜き
菊池貴一郎『絵本風俗往来』㈲青蛙社(平成15年5月20日)
平助30歳を過ぎた頃、縁があり高松藩出身で木草学・医学・科学・文芸など多方面の学芸に通じた平賀源内の教えを受けたともいわれている。やがてガマの油売り口上については大道商人の中で第一人者となった。
その頃か大道商人の親分となり永井村の平助から永井兵助(後の第一代永井兵助)に改名したという。
その後、永井兵助の名前は益々有名になったがその後の消息ははっきりしていない。
郷里にも何の噂も残っていないが、ニセ兵助が各地に出没したという。
だが、ガマの油売り口上という大道芸は大道商人によって全国に広く伝わりガマの膏薬は江戸期売薬のベストセラーになった。ニセモノが横行するほどの名売薬であった。
明治時代~戦後の町おこしの目玉として復活
ガマ口上は油を売る商売でなく舞台芸能として人気をよんだ。しかしながら庶民文化の向上にともない薬の流通経路が大道から薬局に変わり、不良品が出回ったため評判を落とした。
更に薬事法の改正で薬の大道における販売が不可能となったことなどで大道における薬販売は衰退していったが、ガマの油売り口上は庶民の間で伝承芸能として生き続けた。
1946(昭和21)年 筑波町観光協会設立、ガマの油を観光の目玉として売り出すことになった。筑波山でガマ口上を伝承されていた2人、造園業の原政男氏、畳業の稲葉卯之助氏に協力をお願いし、観光に無縁であったが筑波山観光開発のため快諾していただいた。
2人はホテルの観光客、公私の催事に出演することになった。これとともに地元では口上愛好者が増え学ぶ者が多くなった。
中でも観光事業関係ではホテル業の吉岡久子さん(後の第19代名人)が苦労されて演技を磨き、女性口上士として人気を呼ぶようになった。
18代岡野名人 19代吉岡名人
教育関係では小学校長 岡野寛人氏(後の第18代名人)が伝承されている口上、大道商人の口上や落語の口上等を調査研究し集大成したものが注目を浴びるようになった。
〔続く〕 第十八代永井兵助の「筑波山ガマの油売り口上」