日曜日は横浜まで知人のハラウのホイケを観に行きました。
主宰者とそのお母様が私の友達です。
今日は私とフラの出会い、そして恩人について、お付き合いください。
私とフラの出会いは、スポーツクラブでのフラレッスンが最初です。
いつものようにバイクかなんかをこいでいたら、あら?たくさんの方がパレオを巻いてスタジオに入っていく…
え?
フラのクラスなんてやってたの?
当時、まだ私の知る限りフラがブームと言えるほどではなく、
私自身フラなんてノーマークでしたので、エアロビクスでぴょんぴょん飛んでいる毎日でした。
でもフラやってみたい!!
バイクこいでるオットに1時間待ってて!と頼み込み、スパッツ姿でレッスンに参加しました。
たぶん、クラス開講1ヶ月遅れだったみたい。
そしてその日から、人生がガラッと変わりました。
私は先生のフラに恋をしました。
先生の醸し出すエレガントさは、それまでの私の人生に皆無のものでした。
こんな素敵な女の人、テレビ以外で見たことない、と思いました。
先生の注意を一言も聞きもらさず、私も先生のようになりたいと
その日からフラに夢中になりました。
先生は、まだ沖縄がアメリカだった頃、パスポートを持って沖縄まで踊りに行くようなダンサーでした。
今いる名だたる大御所先生達とも、若かりし頃、一座?一団?を組んで出掛けていたといいます。
派手なメイクにセルスカートをはいて、ビキニトップで踊っていたそうです。
先生からすれば、藤沢のあの先生も「○子ちゃん」になっちゃいます。
その後ダンサーを引退し、普通の主婦になり、フラが遠くへ行きました。
ご主人の理解があれば、今の多くの大御所先生のようにハラウを興したのでしょうが、
それがなかった先生は、子育て中心の普通の主婦になりました。
もともと若いころからバレエをやっていた先生は、子供たちにバレエを教えたり、
絵本の読み聞かせをしたりして、過ごしていたそうです。
そして月日が流れ、先生は偶然アンティ・マイキのフラを目にします。
それはハワイのマイキ宅に住み込み修業をしていた日本人女性のフラでした。
先生はその方のフラに恋をしました。
そして、彼女の日本でのハラウに入ったのです。
月日は流れ、マイキ亡き後、マイキの長女であるカレンに師事するようになりました。
同じ頃、地道な地域貢献をしていた先生は、近くにできたスポーツクラブのフラクラスを依頼されます。
とても奥ゆかしい性格の先生は「わたしにできるかしら?」と躊躇されたそうですが、
それでもフラの楽しさを伝えられるならとお引き受けして、
そこに私が受講に行った・・・という出会いです。
私は、とても真面目にフラに取り組みました。
週2回、絶対休まずに通いました。
フラクラスには意地悪なおばさまや理不尽な陰口もありました。
でも、「フラで負けない!」と一生懸命やったと思うし、
先生からしても一番打てば響く生徒だったんじゃないかな。
フラの歌詞(オリ)を紙に書いてレッスンしたい・・・と言われれば
次のレッスンまでに模造紙に書いて持っていったし、
衣装の相談も受けるようになりました。
衣装の試作品を作って本作品を決めたり、レイの花も買いに行きました。
おそらく、私と先生はもともとウマがあったのかもしれません。
けれどそれ以上に、私は先生の右腕になりたかったし、
先生の一番近くで先生のすべてを吸収したかった。
おばさまたちのイヤミも陰口も、先生がかばってくれました。
(真実がこちらにあるのを知っているから)
私はいつも、正々堂々としたウラのない生徒だったと思います。
やがて、先生にカレンのハラウへのお誘いを受けます。
その頃にはオットもフラレッスンのメンバーでしたから、
2人で相談してスポーツクラブをやめることにしました。
だって、それは特別扱いってことだもんね。
私達がやめた後、間をあけずに、先生もフラクラスをおりました。
(その頃にはフラクラスに色々派閥やらグチャグチャがあって、先生も疲弊されていたんですね)
先生にお誘いいただいたことで、とうとう私のフラがハワイとつながりました。
アンティ・マイキとつながりました。
彼女とは、9年にわたって、同じハラウのクラスでレッスンを受けました。
(彼女も私もそこでは同じ生徒です)
2度のホイケを一緒に経験し、3年前に彼女は一足先にハラウを去ります。
彼女は新天地へと行きました。
この日曜日、知人のホイケで先生がスペシャルゲストとしてフラを披露することになり、
「私が人前で踊るのはもうこれが最後」と彼女は決めました。
私やオット、ハラウの仲間、スポーツクラブ時代の生徒、
バレエを教えていた頃のお母様たち、
たくさんの人が先生のラストフラを観に集まりました。
還暦を10年前に過ぎたのに、背筋がまっすぐで、本当に素敵なフラでした。
あらためて、一生追いつかないなーと思わされるエレガントなフラでした。
終演後、ロビーに集まった私達。
彼女を囲んで、言葉を交わす順番待ちの列です。
こんなに多くの人に慕われている人なんだなー。
人となりがフラに表れるんだなー、と痛感しました。
昨夜、彼女から電話をいただきました。
おそらく、私が一番怖い後輩なんでしょう(笑)
「あがっちゃったわ」とか「震えた~」とか言い訳を言っていました。
でも、本当に素敵だったんだよ。
あがっていたようにも見えなかったよ。
「これが最後と、後悔のないように毎日毎晩練習したんだよ。
主人にあきれられるほど毎晩練習したのに、新しく課題が見つかるんだからやんなっちゃうねー」
っておっしゃってた。
その突き詰め方、私の中にしっかり受け継がれていますよ。
結局、現状で満足と言えるようなゴールってないのかもしれないね。
やってもやっても課題が見つかる・・・それがフラなのかもしれないって思います。
私の大切な先生、恩人の話にお付き合いくださりありがとうございます。
最後に先生の写真を載せますね。
フィナーレで着た衣装は、自称一番弟子のワタクシが縫わせていただきました!
私以上に可愛がっている「息子」とのツーショット。
私のことは「まったく、ナマイキだね~」とか言うくせに、「息子」のことは溺愛です(笑)
ハラウ時代のみんなと。
みんな、あなたが大好きで、あなたが目標です。
これからも、元気でいてね。
そして、いつまでも楽しくフラを語りましょう。
また、小間使いするからなんでも命じてね!
そして、私にフラを授けてくれて本当にありがとね。
主宰者とそのお母様が私の友達です。
今日は私とフラの出会い、そして恩人について、お付き合いください。
私とフラの出会いは、スポーツクラブでのフラレッスンが最初です。
いつものようにバイクかなんかをこいでいたら、あら?たくさんの方がパレオを巻いてスタジオに入っていく…
え?
フラのクラスなんてやってたの?
当時、まだ私の知る限りフラがブームと言えるほどではなく、
私自身フラなんてノーマークでしたので、エアロビクスでぴょんぴょん飛んでいる毎日でした。
でもフラやってみたい!!
バイクこいでるオットに1時間待ってて!と頼み込み、スパッツ姿でレッスンに参加しました。
たぶん、クラス開講1ヶ月遅れだったみたい。
そしてその日から、人生がガラッと変わりました。
私は先生のフラに恋をしました。
先生の醸し出すエレガントさは、それまでの私の人生に皆無のものでした。
こんな素敵な女の人、テレビ以外で見たことない、と思いました。
先生の注意を一言も聞きもらさず、私も先生のようになりたいと
その日からフラに夢中になりました。
先生は、まだ沖縄がアメリカだった頃、パスポートを持って沖縄まで踊りに行くようなダンサーでした。
今いる名だたる大御所先生達とも、若かりし頃、一座?一団?を組んで出掛けていたといいます。
派手なメイクにセルスカートをはいて、ビキニトップで踊っていたそうです。
先生からすれば、藤沢のあの先生も「○子ちゃん」になっちゃいます。
その後ダンサーを引退し、普通の主婦になり、フラが遠くへ行きました。
ご主人の理解があれば、今の多くの大御所先生のようにハラウを興したのでしょうが、
それがなかった先生は、子育て中心の普通の主婦になりました。
もともと若いころからバレエをやっていた先生は、子供たちにバレエを教えたり、
絵本の読み聞かせをしたりして、過ごしていたそうです。
そして月日が流れ、先生は偶然アンティ・マイキのフラを目にします。
それはハワイのマイキ宅に住み込み修業をしていた日本人女性のフラでした。
先生はその方のフラに恋をしました。
そして、彼女の日本でのハラウに入ったのです。
月日は流れ、マイキ亡き後、マイキの長女であるカレンに師事するようになりました。
同じ頃、地道な地域貢献をしていた先生は、近くにできたスポーツクラブのフラクラスを依頼されます。
とても奥ゆかしい性格の先生は「わたしにできるかしら?」と躊躇されたそうですが、
それでもフラの楽しさを伝えられるならとお引き受けして、
そこに私が受講に行った・・・という出会いです。
私は、とても真面目にフラに取り組みました。
週2回、絶対休まずに通いました。
フラクラスには意地悪なおばさまや理不尽な陰口もありました。
でも、「フラで負けない!」と一生懸命やったと思うし、
先生からしても一番打てば響く生徒だったんじゃないかな。
フラの歌詞(オリ)を紙に書いてレッスンしたい・・・と言われれば
次のレッスンまでに模造紙に書いて持っていったし、
衣装の相談も受けるようになりました。
衣装の試作品を作って本作品を決めたり、レイの花も買いに行きました。
おそらく、私と先生はもともとウマがあったのかもしれません。
けれどそれ以上に、私は先生の右腕になりたかったし、
先生の一番近くで先生のすべてを吸収したかった。
おばさまたちのイヤミも陰口も、先生がかばってくれました。
(真実がこちらにあるのを知っているから)
私はいつも、正々堂々としたウラのない生徒だったと思います。
やがて、先生にカレンのハラウへのお誘いを受けます。
その頃にはオットもフラレッスンのメンバーでしたから、
2人で相談してスポーツクラブをやめることにしました。
だって、それは特別扱いってことだもんね。
私達がやめた後、間をあけずに、先生もフラクラスをおりました。
(その頃にはフラクラスに色々派閥やらグチャグチャがあって、先生も疲弊されていたんですね)
先生にお誘いいただいたことで、とうとう私のフラがハワイとつながりました。
アンティ・マイキとつながりました。
彼女とは、9年にわたって、同じハラウのクラスでレッスンを受けました。
(彼女も私もそこでは同じ生徒です)
2度のホイケを一緒に経験し、3年前に彼女は一足先にハラウを去ります。
彼女は新天地へと行きました。
この日曜日、知人のホイケで先生がスペシャルゲストとしてフラを披露することになり、
「私が人前で踊るのはもうこれが最後」と彼女は決めました。
私やオット、ハラウの仲間、スポーツクラブ時代の生徒、
バレエを教えていた頃のお母様たち、
たくさんの人が先生のラストフラを観に集まりました。
還暦を10年前に過ぎたのに、背筋がまっすぐで、本当に素敵なフラでした。
あらためて、一生追いつかないなーと思わされるエレガントなフラでした。
終演後、ロビーに集まった私達。
彼女を囲んで、言葉を交わす順番待ちの列です。
こんなに多くの人に慕われている人なんだなー。
人となりがフラに表れるんだなー、と痛感しました。
昨夜、彼女から電話をいただきました。
おそらく、私が一番怖い後輩なんでしょう(笑)
「あがっちゃったわ」とか「震えた~」とか言い訳を言っていました。
でも、本当に素敵だったんだよ。
あがっていたようにも見えなかったよ。
「これが最後と、後悔のないように毎日毎晩練習したんだよ。
主人にあきれられるほど毎晩練習したのに、新しく課題が見つかるんだからやんなっちゃうねー」
っておっしゃってた。
その突き詰め方、私の中にしっかり受け継がれていますよ。
結局、現状で満足と言えるようなゴールってないのかもしれないね。
やってもやっても課題が見つかる・・・それがフラなのかもしれないって思います。
私の大切な先生、恩人の話にお付き合いくださりありがとうございます。
最後に先生の写真を載せますね。
フィナーレで着た衣装は、自称一番弟子のワタクシが縫わせていただきました!
私以上に可愛がっている「息子」とのツーショット。
私のことは「まったく、ナマイキだね~」とか言うくせに、「息子」のことは溺愛です(笑)
ハラウ時代のみんなと。
みんな、あなたが大好きで、あなたが目標です。
これからも、元気でいてね。
そして、いつまでも楽しくフラを語りましょう。
また、小間使いするからなんでも命じてね!
そして、私にフラを授けてくれて本当にありがとね。