戦争は勝った側が着目されがちだ。しかし、実のところ、負けた側のほうから学ぶものが多いと思う。戦争とは違うが、野球について、負けた試合のほうから学ぶものが多い、と野村克也・日本体育大学客員教授も言っていた。
前大戦について、今の日本人は、米国をはじめとする勝った連合国の側から映画を見、ゲームを見ているかもしれない。だから、国連は勝った連合国がつくりだしたものと言われてもピンとこない。だが、負けた日本、ドイツの観点からすると、まったくといってよいほど違った局面が見えてくる。
『ノルマンディー戦車戦』はレニングラード、ウクライナ、ノルマンディー、イタリアの4地域における独軍の壊滅を記す。なぜ負けるべくして負けたか、そのへんも指摘している。例えば・・・・
1944年6月6日払暁、連合軍が上陸したノルマンディーの海岸に、最も近く位置していた戦車部隊は第21機甲師団だ、オルヌ川の東に位置していた。師団長(フォイヒティンガー少将)も第22連隊長(オッペルン大佐)も第1大隊長(フォン・フォットベルク大尉)も警報を知っていた。4時には出動準備が完了した。
戦区では、第21機甲師団は第761歩兵師団の指揮下に入ることになっていた。リヒター師団長は出撃を命じたが、フォイヒティンガーは動けなかった。彼は一方で、国防軍最高司令部の同意なくして行動しないよう命令されていたのである。かくて貴重な時間が、刻一刻失われていった。
6時30分、フォイヒティンガー少将はついに決断した。自分の責任で部隊を動かすことにしたのだ。
8時、第22戦車連隊第1大隊、出動。
9時、第2大隊も出動。
しかし、彼らがめざした敵は、見当違いの敵だった。海岸ではすでに連合軍の上陸がはじまっていたのに、いまさら敵空挺部隊を攻撃しようとしていたのだ。
部隊の迷走は続いた。
燃え上がるカーンの町の脇を通り過ぎたところで、オッペルン大佐の下に「引き返せ」という新たな命令が届いた。部隊は、オルヌ川東方のイギリス軍空挺部隊に一発の砲弾も発射しないうちにカーンに戻ることになった。かくしてオルヌ川当方には第1大隊第4中隊だけのこし、その他の部隊はしんがりを先頭にして回れ右した。
なぜか。ようやく第84軍団が第21機甲師団の指揮権を得たのだ。第84軍団のマルクス将軍は、第21機甲師団を海岸のイギリス軍撃滅のために使うことにしたのだ。
第1大隊は爆撃で崩れたカーンの町を抜けた。第2大隊はコロンベルを経由しなければならず、時間がかかった。このため、部隊はばらばらになってしまった。カーンの北の出撃準備陣地に2個大隊が集結したのは、昼過ぎになってしまった。
すでに敵の上陸後8時間が経っていた。この間にイギリス軍は、着々と海岸堡をひろげ、シャーマン戦車、17ポンド対戦車砲、M10駆逐戦車を揚陸していた。上陸直後なら踏みつぶすこともできた上陸部隊は、いまや防備をかためてドイツ軍を待ち受けていた。
第22戦車連隊は、イギリス軍の防御陣地に突き当たり、最初の2、3分でⅣ号戦車5両が破壊された。歩兵も砲兵もいない戦車だけの突破など、とても不可能だった。オッペルン大佐は、後退を命じるほかなかった。
かくして、ノルマンディー海岸の敵海岸堡を撃滅する唯一のチャンスは失われたのであった。
□斎木伸生『ノルマンディー戦車戦 --タンクバトル〈5〉』( 光人社NF文庫、2015)
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