泉神社からおよそ120キロ、高速を降りた後昼食と休憩を取り着いたのは大分日も傾きかけた午後3時だった。
さすが正月月だからか駐車場には数台の車があったが、境内に入ると誰も居らず静だった。
入母屋造りというのだろうかお社は民家のようで親しみやすい雰囲気、午後だと言うのに空気は澄んでいて気持ちよい。
拝殿の正面に立つとノワタリさんの奉納された提灯が目の前にあった。
ご挨拶をして祈っていると、前世の一つが将門公の唯一生き残った姫である如蔵尼だったノワタリさんが泣いておられた。上記の木像の写真はその姫が彫ったものだと言われている。
以前お参りした時、泣きながら彫っているのが見せられそれが前世である事を知ったと言われた。
初めて来たHも「良い所だね。来れて良かった。」と、言っていた。
お社の前で話していると、家族連れがやって来て拝殿中にあがって入った。
こちらは上がってもよいと聞いたので、私達も上がりまたご神前に近寄って祈った。
ノワタリさんは涙声でお別れをされていた。ここもしばらくは行けれないそうである。
壁に幾つかの写真があり、その中にこの神社の紋のようにかやぶき屋根の上に太陽があり、取り囲むように赤い○が幾つか写っている神秘的なものがあった。
以前お参りした時、将門公の事を書いた漫画本が置いてあった。それを読むと、この辺を開墾し、民衆に慕われた事と、一族間の争いの事が書いてあった。
余りにも力が強くなりすぎて朝廷に恐れられたのだろう、首は飛んで行き、東京に首塚があるというが、死んでも首と胴を離さないと安心できないほど恐れられたみたいである。
その後最後の目的地である将門公の胴塚がある延命院に向かったはずだった。
以前も間違えたが近くに延命寺がある。Hも間違えて其処へ行ってしまい「近いじゃない。」と言ったが、「此処ではない。もっと先よ。」と言って通り過ぎたが、ナビには出ていない。
「何処なんだよ。」
「え~と、横浜に向いて帰り道に案内が出ていて、右の細い道を走ってるとあるわ。周りに林があったな。」と、心もとない。
しばらく走るが案内板は無い。見回せば、あちこちに横道がありその先に林もあり、みんな同じような景色で目印も無く、その辺を2,3度右往左往したが、行き着けない。
こちらの町に入った時にコンビニでお水と塩、ライターを買い、ノワタリさんは生花も持参していたが、また、コンビニで飲み物を買って場所を尋ねても、誰も知らず住宅地図で調べたが、はっきりしない。
それらしい風景の横道に入り、民家に行って教えてもらったが、これもとてもアバウトでその通り走っても無い。もう一度指示通り走りなおしていった先は似たような名前の○○院で別物。
延命寺近くのお百姓さんに聞いてもご存知なく、じゃあもう一度、国王神社に戻って社務所で聞いてということになった。
管理されている建物を雨戸の隙間から覗くと、何か集会か宴会らしく10人足らずの人がいた。先程の駐車場の車が多いワケである。
ガラス越しに窓を叩いて教えてもらったが、訛りがきつく「神田山」と言われたらしいがそう聞こえずよく分からない。教えてくれた人以外に言い直す人ありでそれも「町の方」と言われ、その通り進むと、横浜とは反対方向でどうも違うのでまた、引返したが、もう日が暮れかけていた。
「もう、遅くなったから、帰りに有ったら行きましょう。」ということになり、半ばみんな諦めていた。
結局、見当たらないまま町を出てしまい大きな夕日が地平線に沈んでいくのを見ながら同じような景色の中を走ったが、見つからないのでイラチのHは疲れていただろうと思う。
後で帰宅してgoogleで調べると簡単に出た。なぜ、あの時スマホを持っていたHも私もそれが浮かばなかったのか?残念だが仕方ない。行かなくて良いと言うことか?
以前行った時ノワタリさんは「お父様」と言って、号泣された姿を思い出す。
その夜は横浜泊まりとなり、妹と姪と合流した。
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