昨年の3月17日に亡くなった父は、昭和一桁生まれですが、日常生活についての細々とした事に精通していて子供の私に教えてくれました。
子供の頃、母が病気になると御飯を作ってくれるのは父でしたが、“サア腕を奮うゾ!”って嬉しそうな感じでした。そして味噌汁なども、「自分が作るものはお母さんが作るのより美味しい」とか自慢するのでした。悔しいけど、その通りでした。
最も、父は新婚のとき19才の母に味噌汁の指南をして不味いものを美味しいものに教え直した、というのですから確かに美味しいはずでした。しかし女にとっては、はた迷惑な存在です。
父は私にもお米のとぎ方を小学校5年生の時に教えて、「今日からは、ひやしんすが毎日、お米をとぐんだ」と決めたのでした。その日からお茶碗を洗うことと一緒に、長いこと責任を持たされました。(おかげで私のといだお米は美味しいかも)
思えば、母は夕食の支度を任せるときは「あなたの御心のままに・・・。好きにやって頂戴。」という気持ちが強く、作ってくれるだけで感謝。楽だ。嬉しい。と思うのでしょうか、食べてから美味しいとかコレはちょっと塩辛いとか感想を言うだけでした。
で、自分が台所に立つ時には、「勝手(調子)が狂うから。」と、私が台所で一緒に作るのは嫌がりました。だから、二人で一緒に料理をしたことはありません。それはそれでなにかしら寂しい思い出です。思えばスキンシップなども嫌な母でした・・・。
父はそうじゃありません。私が台所に立つことになると、手ぐすねひいて待ってましたとばかり、すぐ居間から出てきて指南におよぶのでした。(とっても嫌でしたが。)
父は、とても細かいのです。味噌汁に入れるトーフの切り方等も切り方にも、色々なやりかたがあるといって、自らトーフを手に載せて包丁で切る真似をしてみせて仔細に教えるのです。
最後に、トーフを指でぐちゃぐちゃにして鍋に入れて、「こういうやり方もあるから覚えておくように。トーフひとつでも決まりごとはなく切り方は色々ある。その日の気分によって自由に変えていいんだ。ね、わかったか?」と訓示を垂れるのでした。
フンと思う気分でしたが仕方なく聞いていました。
でも、切ったトーフをいつ鍋に入れるかという論戦では私も黙っておらず、いつも揉めることになりました。(高校の時です)
味噌を入れる前にトーフを入れる派の父と、味噌を入れてからトーフを入れる派の私はお互いのやり方を譲らず攻防戦になりました。
なぜかと言うと、高校の家庭科の授業で教科書に、「実験してみよう。トーフは味噌を入れる前と後のどちらが美味しいか。」とあり、先生が、「味噌を入れる前に鍋にトーフを入れると、トーフが固くなり、水っぽくなるから。」と教えてくれたからです。
幾ら、学校の授業ではコウ習ったからと言っても、感覚派の父は譲りません。結果、味噌を溶く前にトーフは投げ込まれてお終い。仕上がりは美味しくできましたが、気持ちは納得できませんでした。私は理論派なのかも?
さて、そればかりではありません。
掃き掃除をしていると、父が外に出てきます。細かいことは忘れましたが、次のことは覚えています。
「自分の家の前だけでなく、両側の隣の家まで越えて掃いておくんだ。幅はマア、1メートル以内だね。なぜか分かるかね。そうやって両脇を自分とこの外側まで掃いておくと、両隣の家も同じようにそうするから道路で、一番キレ~イになるのは家と家の境目になるんだよ。」と父は目をキラキラさせて話すのでした。
「お父さんが小さい時は、朝起きたら近所中がみんなそうしていたから、どんだけ綺麗だったか!」と思いだすように説明してくれました。
こうも言いました。
「自分とこだけ掃くのはケチで、隣まで全部掃くのは、それは余計なお節介というものだよ。だから一寸超えた処まで掃いて置くのが良いのだよ。」
戦前の街中の気風は日本のどこでも、こういうものだったのでしょう。
今日、調べてみるとチャンとネットにありました。「江戸しぐさ」というのだそうです。
で、父の教えてくれた掃除の仕方は、「のばし箒(ほうき)」というとか。
「江戸しぐさ」については、詳しい事は、ココからどうぞ。
父は宮崎市の育ちなのに、「江戸しぐさ」とは思いますが、日向の国の大田村は江戸幕府の天領でしたからね。お正月のお雑煮も、東京風の切り餅でカシワの入ったお澄ましですし、もしかしてその影響かしらん。分かりません。
父から聞いた話を思い出したのは、曽野綾子さんの、「老いの才覚」を読んだからでした。(P64ページ)
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子供の頃、母が病気になると御飯を作ってくれるのは父でしたが、“サア腕を奮うゾ!”って嬉しそうな感じでした。そして味噌汁なども、「自分が作るものはお母さんが作るのより美味しい」とか自慢するのでした。悔しいけど、その通りでした。
最も、父は新婚のとき19才の母に味噌汁の指南をして不味いものを美味しいものに教え直した、というのですから確かに美味しいはずでした。しかし女にとっては、はた迷惑な存在です。
父は私にもお米のとぎ方を小学校5年生の時に教えて、「今日からは、ひやしんすが毎日、お米をとぐんだ」と決めたのでした。その日からお茶碗を洗うことと一緒に、長いこと責任を持たされました。(おかげで私のといだお米は美味しいかも)
思えば、母は夕食の支度を任せるときは「あなたの御心のままに・・・。好きにやって頂戴。」という気持ちが強く、作ってくれるだけで感謝。楽だ。嬉しい。と思うのでしょうか、食べてから美味しいとかコレはちょっと塩辛いとか感想を言うだけでした。
で、自分が台所に立つ時には、「勝手(調子)が狂うから。」と、私が台所で一緒に作るのは嫌がりました。だから、二人で一緒に料理をしたことはありません。それはそれでなにかしら寂しい思い出です。思えばスキンシップなども嫌な母でした・・・。
父はそうじゃありません。私が台所に立つことになると、手ぐすねひいて待ってましたとばかり、すぐ居間から出てきて指南におよぶのでした。(とっても嫌でしたが。)
父は、とても細かいのです。味噌汁に入れるトーフの切り方等も切り方にも、色々なやりかたがあるといって、自らトーフを手に載せて包丁で切る真似をしてみせて仔細に教えるのです。
最後に、トーフを指でぐちゃぐちゃにして鍋に入れて、「こういうやり方もあるから覚えておくように。トーフひとつでも決まりごとはなく切り方は色々ある。その日の気分によって自由に変えていいんだ。ね、わかったか?」と訓示を垂れるのでした。
フンと思う気分でしたが仕方なく聞いていました。
でも、切ったトーフをいつ鍋に入れるかという論戦では私も黙っておらず、いつも揉めることになりました。(高校の時です)
味噌を入れる前にトーフを入れる派の父と、味噌を入れてからトーフを入れる派の私はお互いのやり方を譲らず攻防戦になりました。
なぜかと言うと、高校の家庭科の授業で教科書に、「実験してみよう。トーフは味噌を入れる前と後のどちらが美味しいか。」とあり、先生が、「味噌を入れる前に鍋にトーフを入れると、トーフが固くなり、水っぽくなるから。」と教えてくれたからです。
幾ら、学校の授業ではコウ習ったからと言っても、感覚派の父は譲りません。結果、味噌を溶く前にトーフは投げ込まれてお終い。仕上がりは美味しくできましたが、気持ちは納得できませんでした。私は理論派なのかも?
さて、そればかりではありません。
掃き掃除をしていると、父が外に出てきます。細かいことは忘れましたが、次のことは覚えています。
「自分の家の前だけでなく、両側の隣の家まで越えて掃いておくんだ。幅はマア、1メートル以内だね。なぜか分かるかね。そうやって両脇を自分とこの外側まで掃いておくと、両隣の家も同じようにそうするから道路で、一番キレ~イになるのは家と家の境目になるんだよ。」と父は目をキラキラさせて話すのでした。
「お父さんが小さい時は、朝起きたら近所中がみんなそうしていたから、どんだけ綺麗だったか!」と思いだすように説明してくれました。
こうも言いました。
「自分とこだけ掃くのはケチで、隣まで全部掃くのは、それは余計なお節介というものだよ。だから一寸超えた処まで掃いて置くのが良いのだよ。」
戦前の街中の気風は日本のどこでも、こういうものだったのでしょう。
今日、調べてみるとチャンとネットにありました。「江戸しぐさ」というのだそうです。
で、父の教えてくれた掃除の仕方は、「のばし箒(ほうき)」というとか。
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父は宮崎市の育ちなのに、「江戸しぐさ」とは思いますが、日向の国の大田村は江戸幕府の天領でしたからね。お正月のお雑煮も、東京風の切り餅でカシワの入ったお澄ましですし、もしかしてその影響かしらん。分かりません。
父から聞いた話を思い出したのは、曽野綾子さんの、「老いの才覚」を読んだからでした。(P64ページ)
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