●腐女子の偽物をやっけろ!
さて、前回の続きです。
初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
そう、本書はあらゆるフェミニストの著作がそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。
幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
(293p)
(293p)
念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
これに対する北田師匠の評が以下です。
「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
(239p)
山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)
(239p)
山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)
「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
理由を、思いつくままに並べてみましょう。
1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。
まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1。
また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。
腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
(286p)
(286p)
ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
これは本当なのでしょうか。
それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。
*1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。
●不良腐女子の正体は!
以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、
山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
(302p)
(302p)
と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。
端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
(中略)
腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)
(中略)
腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)
すごい!
すごすぎます!!
北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。
結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
(300p)
(300p)
てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。
この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。
女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
(273p)
(273p)
数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
実に奇妙です。
「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
(先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません。
こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。
*2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか。
*3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。
●爆発!腐女子コントロールタワー
他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。
性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
(296p)
(296p)
一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
何を「知って」いるのか。
彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。
*4 男がつらいよ
本当に、申し訳ないです。
女災の原因にならないように気をつけます。
ところで、私は周囲にオタク男子が何人かいて(BLとか全然読みませんけど、私自身オタクっぽい傾向があるのでしょう)、結構意気投合することが多いです。
個人的な経験では、比較的高学歴のオタク男子には、マッチョなところが全くなく、少女漫画の話題にも付き合ってくれ、変に構えずに腹を割った話ができる人ばかりという印象があります。
(余談ですがゲイの人にもそういう人が多いです)
学歴の低いオタク男子には、正直信じられないくらいマッチョな人を再三見かけましたけれども・・・・・・
逆に非オタク男子の場合、高学歴でも、「この人、何時代の人?」みたいなマッチョやセクハラな発言を平気でする人がたくさんいました。
腐女子で意気投合できる人にはまだ会ったことがないのですが、ちらっと話すと、兵頭さんのおっしゃるとおり、伝統的ジェンダーに全く疑問を持っていない人の方が多かったように思います。
(疑問を持っていると90年代以降のBLの世界はちょっと受け入れにくいんじゃないかなというのが私の個人的な感想ですが)
でたらめな調査結果で「文化社会学の方法規準」とか、さも学術的な方法論に則ったようなしたり顔で本を出すのはやめてほしいですね。
私は非オタク男子や非オタク女子で、伝統的ジェンダーに則って人生を謳歌できる人たちの臆面のなさというか想像力の欠如は、自分がマイノリティに付属したことがない人に特有のものだなあと感じてきました。
女に生まれても男に生まれても、伝統的ジェンダーに全く疑問を抱かず、それに乗っかって生きていくことに疑問を持たない人の方が、まだまだマジョリティなのかなと思います。
私自身はジェンダーで不利益を被っているのは男だって同じなんだよ、と大学時代に同級生男子たちに力説したことがあるのですが、主張を理解してくれたのはごくごく一部の男子でした。
でもそういう話は、女同士でも迂闊にはできず。
変にフェミニスト扱いされたり、めんどくさい人にくくられたり。
結局伝統的ジェンダーは男女共にいろんな縛りを押し付けてくると感じること、あるいはそれを縛りだとか呪いだとか感じること自体が、社会全体の中から見てマイノリティなのかなと思います。
そのマイノリティの中ですら、あれこれ派閥対立しちゃうのが人間の馬鹿馬鹿しさなんですかね・・・・・・
私も今のフェミニズムの行き着く先に希望が見えない気がしているので、いろいろと共感するところが多かったです。
女性は読まないだろうと好き勝手に書いているブログなので、大変恐縮ですw
が、楽しんでいただけたのことで、胸を撫で下ろしております。
>こちらのブログを読んでいると、女に生まれてしまってごめんなさい、と謝りたくなってきます。
いえ、そんなことはないですよ。
男性が「フェミニズム」にかかわろうとした時、唯一の方法が「男に生まれてごめんなさい」と彼女らに全面降伏するというあり方であり、ぼくたちはそうした馬鹿な連中の轍を踏まないようにしなければ、と自戒せねばならんなあ、と思っております。
オタク男子についてはおっしゃる通り、基本は草食系だと思います。
二次元の美少女が好きな時点で、男性性からはドロップアウトしている人たちですしね。
(お話を伺うと学歴の問題が大きいのかなあ、という気もしますが)
一方、腐女子が男性的かとなると、やはりおっしゃるようにそれはないと思います。
フェミニストやそれに唱和する男性たちは「男性的な女性」をやたらと持ち上げますが、実際のところ「女性的な女性」を否定的に見るような流れはどこにもなく、実際には女性的なままで許されてきたということですね。
>(疑問を持っていると90年代以降のBLの世界はちょっと受け入れにくいんじゃないかなというのが私の個人的な感想ですが)
要するにBLというのは男性に女性ジェンダーを演じさせているわけだから、実のところ「ジェンダーフリー」的なモノでは全くない、ということですよね。
(フェミニストがここに疑問を持っていないらしいのは、不思議でなりません)
>女に生まれても男に生まれても、伝統的ジェンダーに全く疑問を抱かず、それに乗っかって生きていくことに疑問を持たない人の方が、まだまだマジョリティなのかなと思います。
ただ、男性ジェンダーについてはこの三十年くらい、いいことを言われたことがない気がしますw
もちろん、勝ち組はそんなことを気にせずに生きていけるのでしょうが、そうではない層が無視できない数になったからこそのトランプ当選でもあります。
>私自身はジェンダーで不利益を被っているのは男だって同じなんだよ、と大学時代に同級生男子たちに力説したことがあるのですが、主張を理解してくれたのはごくごく一部の男子でした。
これはすごいですね。
こんなことを言ってくれる女性はホンの一握りです。
フェミニストは口先では言いますが、ホンキでは言ってないでしょう。
ただ、ぼく自身は「ジェンダーフリー」そのものには反対で、男女のジェンダーを温存させつつ、互いにもう少しだけ理性的に、自らのジェンダーの抱える業に自覚的になろう、という方針をとるのがいいと思うのですが……。
今回はありがとうございます。
よろしかったらまたコメントください。
全面降伏というつもりはなかったのですが、災害の元凶側にいる者としてはいたたまれない気持ちが拭えなくて。
しかもこちらで「女災」と表現されていることは、私自身が同性の人たちに対して、何だかなあ、見苦しいなあ、と思っていたことですから。
つい、やってしまいました。
女でも男でも、自分が不利益を被ることを主張してくる相手は全力でつぶそうとしますよね。
フェミニズムの主張は、社会全体で見るとマジョリティの側にいる、伝統的ジェンダーに乗っかって特に不満なく生きている人たちを相手にしているわけだから、まず耳を貸してもらうのがとても難しいというのは、今も現実です。
フェミニストたちには、何か声を上げるためには、ものすごく武装していかないとすぐにメタメタになってしまうから、もうやたら攻撃的になる、おかげで世間からは余計に煙たがられる、ますます攻撃的になる、という悪循環があるなあと思います。
自分が目先の利益を多少失っても、相手の被った損害を補償するために、あるいは将来的に自分も相手もより満足度の高い状態に移行するために、建設的な話し合いをしようという合理的で柔軟な頭をもっている人は、たぶん男にも女にもそんなに数は多くないと思います。
先の先まで読んで、深い議論ができる人は残念ながら本当に少ないなあ、と四十年近く生きてきて思います。
>要するにBLというのは男性に女性ジェンダーを演じさせているわけだから、実のところ「ジェンダーフリー」的なモノでは全くない、ということですよね。
(フェミニストがここに疑問を持っていないらしいのは、不思議でなりません)
これ、おっしゃるとおりだと思いますが、フェミニストが男児の性被害を無視するのと合わせて、そういう人たちの議論の浅はかさを見せつける事象ですね。
いわゆる花の24年組とくくられる人たちの漫画を読んでいると、「受け/責め」という関係性はあまりなく、「ジェンダーレスワールドの実験」という側面もうなずけないわけではないのですが、それがその後のBLにあんまり引き継がれていないところを見ると、ああ、やっぱり突き抜けた思考のできる人たちを相手にしては、お金儲けはできないのね、と思ってしまいます。
>オタク男子についてはおっしゃる通り、基本は草食系だと思います。
二次元の美少女が好きな時点で、男性性からはドロップアウトしている人たちですしね。
(お話を伺うと学歴の問題が大きいのかなあ、という気もしますが)
シンプルに学歴の問題にしてしまうのもちょっと違う気がしますので、この点、補足させていただきます。
私の周囲で私の面倒な話に付き合ったり、意気投合してくれたりしたオタク男子の共通点を探すと。
- 比較的高学歴
- 少女漫画を読んだことがある
- オタク的風貌、嗜好をもっているが、現実の女子に完全に興味を失っているわけではない
- とっつきにくい雰囲気があるが、相手の話もよく聞くし、喋りだすと結構饒舌
などがありまして。
まあ平凡ですが私の想像するところ、彼らが草食系なのは、女子の嗜好や興味に理解があり、女子に気を使いすぎるあまり、奥手になって、二次元や鉄オタなど趣味の世界へ逃避してしまっているからだと思われました。
彼らは機会さえあれば、お付き合いするのに理想的な人たちなのになあ、と私は常々思っていました。
手っ取り早くいうと、「逃げ恥」のヒラマサさんのような感じの人たちです。
(ドラマではヒラマサさんは京大卒という設定だった気がします)
私はドラマしか見ていないので、星野源さん演じるヒラマサさんを念頭に置いて理解していただきたいのですが。
彼、いろんな議論にとても丁寧に付き合って、建設的に話し合いを進めていました。
私が一番いいなと思った彼の台詞は、最終回でみくり(妻)に対して、「小賢しいって何ですか。小賢しいって、相手を下に見て言う言葉でしょ。僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと一度もありません」だったと思いますけど、ジェンダーについて議論するとき、このヒラマサさんの台詞をスタート地点にできたらいいのになと思います。
男か女か、どっちが上に立つかではなく、同じ地点に立って一緒に作業を続けていくのにどうやったらお互いに幸せになれるのか。私にとっては、ジェンダーの話をする目標は、そこにあります。
兵頭さんがフェミニストたちに頭を下げながら近付いていく同性たちに違和感を抱かれたのも、そういうことかと思います。
お互い、同じ地点に立って話がスタートできていない。
ヒラマサさんのスタンスで話をしたら、違う展開になっていたかもしれないのに。
男でも女でも、ジェンダーの話をするときにヒラマサさんのような柔軟性と聡明さ、偏りのなさをもって話を聞ける人って少ないのが残念です。
一応表明しておきますと、私は古典的なジェンダーとセックスの区別をつけるという立場です。
ジェンダーフリーは望ましいが、セックスフリーはないだろうと。
あとは個々のジェンダーとセックスの区別をどうするかという問題になりますが。
これについては長くなるなので置いておきます。
また長々と書いてしまいましたが、これからもブログ頑張ってください。
>しかもこちらで「女災」と表現されていることは、私自身が同性の人たちに対して、何だかなあ、見苦しいなあ、と思っていたことですから。
なるほど。
でもそうおっしゃていただけるだけでも救われます。
>フェミニズムの主張は、社会全体で見るとマジョリティの側にいる、伝統的ジェンダーに乗っかって特に不満なく生きている人たちを相手にしているわけだから、まず耳を貸してもらうのがとても難しいというのは、今も現実です。
そうですね。
だから90年代、彼女らはセクシャルマイノリティを自軍に引き込むなどして、何とはなしにインテリっぽい、人権派っぽい装いをしていました。
が、目下、自分たちの企みで女性たちが結婚できなくなり、むしろ(それを男のせいにして、マッチポンプで女性の窮状を救うと自称して)復活しつつあるのではないかとの危惧も覚えます。
>これ、おっしゃるとおりだと思いますが、フェミニストが男児の性被害を無視するのと合わせて、そういう人たちの議論の浅はかさを見せつける事象ですね。
フェミニストの子供への冷酷さは本当、見ていておぞましい限りです。
男児への性的虐待など、無視するどころか推奨していますし。
(フェミニスト漫画家が書いた『赤ちゃんが来た』というエッセイでは自分の子供のペ○スをしゃぶってはしゃぐ場面が描かれています)
>いわゆる花の24年組とくくられる人たちの漫画を読んでいると、「受け/責め」という関係性はあまりなく、「ジェンダーレスワールドの実験」という側面もうなずけないわけではないのですが、
なるほど。
実はぼくは24年組の漫画を読んだことがないのですが、あの頃の少女漫画の賞揚のされ方、今の少女漫画の評価のされなさは興味深いですね。
単純に昔の方が自由に描ける土壌があった、ということかも知れませんが……。
>まあ平凡ですが私の想像するところ、彼らが草食系なのは、女子の嗜好や興味に理解があり、女子に気を使いすぎるあまり、奥手になって、二次元や鉄オタなど趣味の世界へ逃避してしまっているからだと思われました。
これはすごくよくわかります。
やはり男女平等で育った世代ですからね。
しかし現実問題として、そうしたおとなしい男子よりDQNっぽい男子の方がモテるんですよね(^^;;
いわゆるネットの女叩きなどは、見ていてよくないなあと思うものも多いですが、そうした状況に腹に据えかねて、という要素も大きいように思います。
>男でも女でも、ジェンダーの話をするときにヒラマサさんのような柔軟性と聡明さ、偏りのなさをもって話を聞ける人って少ないのが残念です。
本当におっしゃる通りだと思いますが、フェミニストたちは、あれだけ男を罵倒しながら、やはりどこかで男性を「自分に全てを与えてくれるお父さん」だと思っているのではないかと思えてなりません。一人で立つことに耐えられない人たちなんじゃないかと。
>一応表明しておきますと、私は古典的なジェンダーとセックスの区別をつけるという立場です。
>ジェンダーフリーは望ましいが、セックスフリーはないだろうと。
う~ん、そうですか。
感じとしては「ジェンダー」を「ジェンダーロール」とでもいったイメージで捉え、また、「男性性/女性性」をある程度、先天的なものと捉えて「セックス」の中に入れていらっしゃるのかなといった印象を抱きました。
また、おいおい説明していただけると幸いです。
それでは!
>実はぼくは24年組の漫画を読んだことがないのですが、あの頃の少女漫画の賞揚のされ方、今の少女漫画の評価のされなさは興味深いですね。
単純に昔の方が自由に描ける土壌があった、ということかも知れませんが……。
私が読んだことがあるのは、木原敏江、萩尾望都、山岸凉子、青池保子くらいですが、内容の自由さで言うと、今の少女漫画やBLの方がずっと自由だと思います。
実際に読んでみるとわかると思いますが、24年組やその世代の漫画家のすごさは、教養の差です。
今のBLは文学少女じゃなくても読めますが、24年組の漫画は文学青年とか文学少女というちょっと絶滅しかかっている人たちじゃないと読めないところがあります(おもしろさがわからないという意味で)。
『トーマの心臓』などその典型かと思いますが、これを傑作だという人は男女問わずみんな読書好きです。
その延長だと言われていたのでBLとされる漫画とか小説に手を出してみたことがあるのですが、よしながふみくらいしか24年組レベルで突き抜けている人はいないなと思いました。
ただ、過激なフェミニストさんたちが24年組の漫画に何を見ているのか、正直私にはよくわかりませんが、24年組の漫画は、どちらかというとミソジニー傾向が強くて、そればかり読んでいると、自分が女に生まれたことを全く肯定できない女子になってしまうんじゃないかと心配なので、自分の娘にはあんまり小さい頃から読ませたくないなあと思っています。
>感じとしては「ジェンダー」を「ジェンダーロール」とでもいったイメージで捉え、また、「男性性/女性性」をある程度、先天的なものと捉えて「セックス」の中に入れていらっしゃるのかなといった印象を抱きました。
ジェンダーは性別を元にそれぞれの性に振り分けられている社会的役割(例えば女は家で家事をするべき、男は外で仕事をして家族の食い扶持を稼いでくるべきというような)で、定義上後天的です。
セックスは先天的な性差にもとづく男女差(女性は妊娠、出産を目的とした体のつくりになっている、男性は女性に比べて体脂肪率が低い、などなど)です。
理論的な区別はそんな感じなのですが、自分の中でこの線引きって実際にはかなり難しいなと感じています。
自分が子供を生んで育ててみて発見したことですが、人間って言葉を発する前から男女の差を意識しているようで、男と女という名前はわからなくても、父親と母親の区別から、道を歩いていてすれ違う人を見ても、誰が父親と同じ側の性で、誰が母親と同じ側か、区別を始めているようなのです。
とすると、同性婚カップルに育てられた子どもは、男女差を認識するのが遅くなるのか?とか、そもそも子どもはそういう区別を何をもってしているのか? その認識は本能的なものなのか? とかいろいろな疑問が湧いてきていて、どこまでが先天的でどこまでが後天的といえるのか、正直ちょっと怪しくなってきています。
こういうのは、認知心理学とかそういうのの領域になるんでしょうか。
そういう疑問に答えてくれる本があったら、ぜひ読んでみたいのですが・・・・・・
兵頭さん、もしかしたらご存知ありませんか?
>内容の自由さで言うと、今の少女漫画やBLの方がずっと自由だと思います。
う~ん、でも仮に今、そうした24年組的、文学的な作家が少女漫画誌に持ち込んでも、採用してはもらえないんじゃないでしょうか?
(全く読んだこともないクセに、想像で書いているだけですが……)
ただ、ぼくは「少女漫画」というものを『少女コミック』的な「少女漫画誌」に載っているものとして捉えており、それが現状、「ある種のニッチな、伝統芸能」であること自体は事実ではないでしょうか。ぼくの感度が低いだけかも知れませんが、正直、そういうところからメジャーになる作品も、最近は聞きませんし。
ただ、定義を「青年誌に載っている、女流漫画家の作」とするともちろん、非常に自由なイメージを持っているのですが。
オタク業界(ゲーム、ラノベなど)も、ある種伝統芸能的なものばかりが縮小再生産される傾向にあるのに比べ、やはり今の漫画業界の広がりというのは全く別物だと思います。
しかし確かに、24年組の漫画とフェミニズムとは非常に関連性が深いですよね。
母との葛藤がどうのこうのと(これはフェミニストの本を読んで、何とはなしに間接的に得たイメージです)。
そう考えると、やはりこれは不良映画の流行に近く、社会が豊かになり、青年がカウンターカルチャーに目覚めた頃と時期を同じくしている感じがします。
ジェンダーについてはもうすっかり、何十年と勉強していないので疎いのですが、おっしゃることは正しいと思います。
人間がまず自意識の形成を始める時、「私は母/父と同じカテゴリに属しているな」と考える。仮に愛猫家の家に住んでいても、「私は猫ではなく人間だ」よりもまず男女の違いを意識するのではないかと思います。
ご存知かも知れませんが、一時期、ジョン・マネーという学者の説が通説となっていました。
「ジェンダーとは全て後天的である」というものです。
おっしゃる社会的役割(ジェンダーロール)のみならず、自分は男/女だという自己認識(コア・ジェンダー・アイデンティティ)までが後天的であり、教育によって全てはひっくり返せる、と言われておりました。
フェミニストたちはマネーを神のごとく崇め、「ジェンダーというフィクションは完全にリセットされるべきだ」との信念を持っていたのですが、その学説は近年、インチキな調査によるウソだとバレてしまいました。
ところがフェミニストはマネーだけを尻尾切りして、いまだジェンダーフリーを推し進めています。
例えば男の子が黒を好み、女の子が赤を好むことは普遍的だと思うのですが、これを「教育、環境による刷り込みで、好ましくないことだ」と彼女らは考える。
そうしたジェンフリにはやはり、賛成しにくい。
彼女らはそう言われると、「我々の思想はあくまで黒を好む女の子が差別されてはならない、というものだ」と反論するのですが、実際には彼女らは「女の子も黒を好むべきだ」とのべき論にどっぷり浸かり、おかしなジェンフリ教育が学校でなされている、というのが現状です。
すみません、長くなりましたがおっしゃるようなことについてはピンカー『人間の本性を考える』などがいいかも知れません。
いえ、実はぼく自身は未読なのですが、おっしゃる認知心理学の人で、遺伝的要因がどれだけ人間を決定づけるか(それは当然、ジェンダーについても)について書かれた本です。
速攻で北田師匠から長文の反論コメントが来ました。AMAZONレビューで何度かやりとりをしたのですが、いろいろとうんざりしています。
まず、これは私だけではないのですが、☆1つのレビューが突然削除されます。私は4回削除されました。削除されても復活させる人も何人かいますが、そのまま消えていった方もいます。どのような方法で削除しているのかわかりませんが、北田師匠のやり方が陰険というか、卑怯です。
北田師匠は私に次のような提案をしてきました。以下引用します。
『「腐女子」という概念をめぐる横領、象徴的闘争に与することをは厭います。学術的にも研究倫理的にも。ことここまで至っては、M1さんも「研究者として」調査協力者への倫理的責任が生じると考えます(pixiv騒動はご存知ですね?)。社会学や心理学、社会心理学の専門的オーディエンスを揃えたセッションを開きましょう。わたしが立場が上(?)で、抑圧的というのなら、指導教授や合意したお友達、同意してくれる専門研究者を連れてこられて結構です。私はM1さんというよりは指導教授の指導方針・研究倫理・統計知識について深い疑念を抱いています。個人情報は徹底して管理し、お名前や所属が漏洩することのないように、最大限の配慮をいたします。gyodai@iiii.u-tokyo.ac.jpです。ご連絡をお待ちしております。わたしはいつでもあなたの個人情報を尊重しつつ、議論を開いています。ローデータも持ってまいりますし、断る理由は何もないと思います。
どうしても直接議論するのが躊躇われるのなら、スカイプの捨て垢参加で結構です。ただ、指導教授には顕名で研究者・教育者としての責任を果たしていただきたく思います。指導教授がそれも回避したいというのであれば、学者としての説明責任を放棄したに等しいわけですが、それでも匿名・スカイプまではこちらも譲ります。参加者は、双方が推薦する社会学、心理学、心理統計、社会統計、BL研究者の専門家5名ずつでいかがでしょう。その場に山岡先生をお招きしたとして、なにぶんプロなので山岡先生も前向きにご検討くださることと思います。私のほうから山岡先生にご連絡いたしますので、M1さんは指導教授とご相談ください。
繰り返しますが、あなたには完全な匿名性(私に対する匿名性含めて)が保証されています。拒絶する理由はなにもないと思います。』
私ごとき大学院に入ったばっかりのひよっこにこんな提案をする東大教授がいるとは信じられません。著者本人と話ができるのは有り難いことなのでしょうが、恐縮を通り越して恐怖です。また、指導教授に迷惑をかけることにもなってしまいます。このことを考えるとウツっぽくなります。
私としては自分のレビューが削除されたら削除者に対する抗議の意味で復活させますが、それ以上には北田師匠と関わるつもりはありません。北田師匠の粘着攻撃がキモすぎます。
AMAZONのカスタマーレビューをご覧になってください。感想を教えていただければ幸いです。私、北田師匠の粘着攻撃で心が折れかかっています。指導教授には迷惑をかけられないので、自分一人で抱え込んでいる状態です。第三者の客観的な意見を聞きたいのです。
よろしくお願いします。
まさか北田問題渦中のM1様がコメントしてくださるとは思わず、驚いています。
また、それ以上に北田師匠の振る舞いには驚きました。
Amazonのコメント、随分と妙なことになっていますね。
お前には議論する義務があるぞ、さあ、俺と話せと。
「いきなりそんなことを言われても……」という感じでしょうね。
いろいろと条件を提示しているのはむろん、誠実な態度でしょうが、逆に気味悪くも思えますね。
M1様のコメントも、ぼくにかなり近いもので心強く思えました(初期に投稿されていたバージョンに比べ更にフェミニズムなどについて切り込んでいるような気がしますが、書き直されているうちにそうなったのでしょうか?)。
他の方のコメントにせよ、基本的には北田師匠の著書における主張が恣意的で乱暴すぎるというものであり、概ねぼくの意見と変わることがないと思います。
それに対し、北田師匠が有効な反論を成し得ているとはとても思えない。
にもかかわらず、直接会って話せば全てわかってくれると思っているのだとしたら、ちょっとヘンだし……。
ただ、第三者から見て北田師匠の方が常軌を逸しているのは明らかなので、その意志がないことをコメント欄で伝えるのが正解ではないでしょうか。
もしここで言いにくいことがあれば、shin_2_h@ybb.ne.jpまでご連絡ください(半角にして)。
また、ぼくの統計についての見立てはどうでしょう?
ド素人が必死になって書いたもので、これはこれで不安でして……。
AMAZONの「社会にとって趣味とは何か」の☆1つの全てのカスタマーレビューを削除するだけでなく投稿できなくしたようです。
私はカスタマーレビューの規約に抵触する恐れがあるということで、「社会にとって趣味とは何か」だけでなく、山岡さんの「腐女子の心理学」のカスタマーレビューにも投稿できなくなりました。おそらく、私のレビューへを山岡さんの関係者によるものと北田一派がAMAZONに訴えたのだと思います。私以外の☆1つのレビュアーであるMI6さんやBL芸人さんのレビューが復活しないのも私と同じように投稿できなくされたのだと思います。
兵頭新児さん、お願いがあります。もし可能でしたら、私のカスタマーレビューを兵頭さんのブログに掲載していただけないでしょうか?正直、北田一派のやり方には腹が立っています。このまま、私のレビューがなかったことにされたくないのです。よろしくお願いいたします。
件のレビューが消えているのには、ぼくも驚きました。
コメント自体は結構Amazonの判断でかなりアバウトに消すようですが、コメント自体をできなくするというのはまた別ですし、北田師匠がそこまで尼に介入するというのも不可解な話ですね。
レビューをぼくのサイトに掲載すること自体は、もちろん喜んでご協力したいと思います。
ただ、正直それだけでは効果は薄いと思います(例えばツイッターのフォロワー数などを見ていただければおわかりになると思いますが、ぼく自身が知名度のある存在では全くありませんから)。
本件における対抗策として、「知名度のないブログにひっそり載せるだけ」というのはいかにも惜しい。もしよろしければツイッターで協力者を募りたいと思うのですが、いかがでしょう。正直、ぼくの呼びかけに応じる人間がどれだけいるか非常に疑問ですが、それでも複数の(更に知名度のある人の)ブログに記事をアップした方が……と思います。
或いは、もし不特定多数に呼びかけるというのに抵抗があるなら、「この人はどうだろう」という人物ピンポイントに声をかけるやり方でもいいですし。
検討いしていただけると幸いです。