毎度同じような一日で、ネタがない。大沢河原からの駅前タワーマンション群だが、ここから見ると全くさえない。ものすごく山奥に突然現れたような、旧ソ連のような、そう見えてしまう。
都南のプールまで泳ぎに行くというのは、上田村から津志田村まで盛岡を縦断するということだ。ちょっとは考えて自転車で通り過ぎる。
旧市内のスプロールもかなり進んできている。だがおかげで建築物として詳細に見えるようになってきている。その辺はいいかな。
仙北町や鉈屋町近辺ではまだ面影を色濃く残している。だがそれも時間の問題だろう。
とはいえ私としては、弘前みたいにメチャクチャな状態になった方が面白いのだが。極端に古いものと新しいものが混在しているのはスリリングだ。そしてその中に、空き地があって建築物がわかるというのは面白い。
あまり知られていないが、江戸時代初頭、新しい城下町を建築するのが流行った。盛岡も弘前もそうだった。
結果、木材需要が大きすぎて近隣の山が禿げ上がってしまった。特に城郭や寺の造営には大径木が必要とされる。そういった木からどんどん切られてゆくので、民家にはいい木が回ってこない。そして火災が起きると材料がないから再建費が高額になる。なので各藩はそれぞれ自分の城郭や寺社の修繕の為の山を指定し、御留山とした。さらには幕府は修繕のたびに各藩に最高の木材や最高の石材を供出しろと言ってくる。その時に備えて山を整備しておく必要もあった。
そういった状態であるから、最高の家、つまりは数寄屋趣味の家だが、そういった家を建てようとしたもんなら材料を集めるだけでも10年かけるとかそういった話が昭和初期まであった。
100年以上前の建物を見る時にはそういった視点があると、少し見えてくるのが変わる。
上田村に帰る。