どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

宮沢賢治の「幻燈」の謎

2013-12-22 23:33:57 | 写真の話し
小さな谷川の底を移した二枚の青い幻燈です

宮沢賢治 やまなし(1923年発表)の冒頭


宮沢賢治(1896~1933)の童話「やまなし」と「雪渡り」の中に幻燈と言う言葉が出てきます。
この幻燈ですが、一般的にはマジックランタン、現在のスライド映写機みたいな物と考えられます。辞典で調べれば真っ先にこれが出てきます。光源は多分植物油を使ったランプで、ロウソクのように光源が時間とともに動く物ではないと思わます。
19世紀末までは写真でなく、薄い紙かガラス板に画を描いた物を投影すると言うものです。結構イロイロ出来たみたいで、長尺の絵を横に動かしたり、画を重ねたりと様々な効果が出来たようです。

幻燈そのものは飾り灯籠や、回り灯籠のような物を指す時もあります。幻燈と言うのはエジソンのキネトスコープ(映画だが覗きからくりと言ったおもむきがある)も当たるだろうしそれこそ写真スライドもそうです。フランスのダゲールの発明したジオラマ(模型と幻燈、そして光の変化で様々な効果を出したもの)などもそうでしょう。
実は映画も幻燈と言われた時代があります。

幻燈機そのものは17世紀の文献にあるようだが、もっと古い可能性もあります。スライド写真がちょっと微妙で、1923年にコダックがモノクロスライドフィルムを発表しています。もちろん透明なフィルムは1889年当たりからあり、反転現像でスライドを作れます。映画と同じネガ・ポジ法を使っても出来ました。
所がスライド写真で鑑賞会をやるのは、1950年代のカラーの時代になって流行するので、賢治の時代ならどうかとなります。
ジオラマは日本でも興行的にはあったと思う。だが賢治が見た事があるかどうかとなれば、疑問はある。
エジソンのキネトスコープは1893年に発明、ルミエール兄弟のシネマトスコープは1895年。その2年後に日本に二つともやってきます。映画は1907年に日本でも流行が起き各地で映画館が出来たと言う。盛岡市でも1915年に映画館が出来ています。


雪渡り(1921年発表)から引用します。

『お酒を飲むべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔った人間のおぢいさんが何かをかしな円い物をつかんでいる景色です。

『わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。


雪渡り(1921年発表)


これって写真スライドショーに感じます。私もそう思っていました。これで幻燈といわれているなかでも、賢治の言う幻燈は、映画と写真スライドに集約されます。
困った事に映画の用語では、写真と絵とカットは同じと言うのもあります。実際映画と写真は原理的には同じですし、映画を写真と言う事もあったようです。活動写真と言う言い方もあります。
さてどっちなのでしょうか。


そこで光源を考えたいと思います。まずは燃焼させて光を作る物です。

まずローソクと灯油ランプはほぼない物と考えます。暗すぎるからです。エジソンのキネトスコープもルミエール兄弟のシネマグラフも、光源には電球を使っています。

次にガス灯があります。ガスマントル法が1886年に発明され、かなり明るいガス灯が出来ます。このマントルにセリウムやトリウムを使うためわずかに青緑の光になります。現在でもアウトドアのガスランタンでこの光を見る事が出来ます。ただガスの配管が必要だったのと、1930年代の合成ゴムの発明まで良いホースがなかった事から、移動型の器機は作りにくかったと考えます。現在のような小型ガスボンベも、かなり高価だったのではないのでしょうか。


アセチレンランプ・カーバイトランプと言う物があります。これは炭化カルシウムに水を加えるとアセチレンが発生する事から、水をポタポタとカーバイトに落としてアセチレンガスの発生量を調整、そのアセチレンを燃やして発光させます。アセチレンの燃焼温度は3300度と極めて高く青白い炎です。これを不完全燃焼させて黄色く光らせるのですが、それでもかなり明るい光になります。映画で言うライムライトはこの光の事です。石灰を使っている訳ではありません。カーバイトの反応した残差が消石灰になる事からそう呼ばれたのでしょう。1900年に特許を取っています。


次に電球です。エジソンの1879年の白熱電球の発明から実用的な電球が始まります。初めは寿命40時間だったのですが、1904年にタングステンフィラメントの発明、1910年にタングステン線をコイル状に曲げる事に成功、1913年にタングステンフィラメントとガラスを通して外の電極を結ぶジュメット線が完成、同年ガス入り電球が開発、1914年にフィラメントを切れにくくする方法が開発され白熱電球が完成されました。なおここに書いた発明特許を、全部ゼネラルエレクトロニクスが持っていると言うのも驚きです。
この間に電球は50倍に高寿命化、光変換効率も2.8倍に改善しました。ワット数も大きくなりかなり明るい物になっています。1000ワットの電球も発売されています。また発明当初の電球はかなり赤い光です。それがこの1914年までには今の電球に近い色まで改善します。
蛇足ですがガス入り電球をGEではMAZDA Cランプと呼んでいました。で、日本の東京電気が1925年に内面つや消しの白い電球を作るのですが、これが「マツダ電球」として発売されます。多分GEより良い製品だと言う自負と、それでいながらMAZDA Cにあやかったのでしょうか。


黒鉛アーク灯は一般的ではありません。二本の先端を尖らせた黒鉛棒を向かい合わせて高電圧をかけます。黒鉛棒を近づけると放電が始まり、黒鉛が高温になり4000度まで上がります。実用化は1876年のロシアのポール・ジャブロコフの発明で交流でも発光出来るのが特徴です。この時の発光がとても強く、温度でも解る通り今までの光源の中で一番青白い光です。1878年にロンドンで街灯に使われ同年サッカーのナイトゲームが行われました。
このアーク灯は1901年に水銀灯を生みます。実用化は1927年です。1941年には蛍光灯の発明、1964年にメタルハライドランプの発明と続きますが、賢治は水銀灯を見る事はなかったと思われます。
ネオン管も放電管に入ります。1910年に発明されています。日本では1918年に銀座に登場したのではないのかと言われています。
アーク灯では強力な紫外線を発するのでガラスで覆われていたのが普通です。火花を外に出す事はありません。あと発光効率が高かったので、光の強さの割に熱が少なかったと言えます。欠点は高電圧装置が必要な事と、電気消費が大きい事です。

映画用では1897年に日本にバイタスコープが来た時に、既にアーク灯が使われていたようです。ライムライトも使われています。アーク灯は1933年まで映画では主流でした。
国産の映写機の歴史から見ると、1898年の国産初のミクニ映写機はライムライトだったようです。1914年の国産初の電気駆動映写機ではアーク灯に変わっています。1926年の35ミリ小型映写機では500Wの電球が、27年の16ミリ映写機でも電球が使われているようです。


次にフィルムの話しになります。この時代のフィルムですが硝酸セルロースと言う物質で作られています。1889年から使われていますが、とても燃えやすいと言う欠点を持っています。というか、実は爆弾です。しかしこの当時、薄く加工できて、透明で、柔軟性の高く、平面性・耐湿性の高い物質はそうそうありませんでした。その上、写真乳剤、ゼラチンなのですがそれが薄く簡単に付く物質でなければいけません。当時は合成高分子がなく、表面加工技術もそうそう良い物がなかったので、こんな危険な物質をフィルムに使っていたのです。
先に白黒スライドフィルムが1923年に発表していますが、このフィルムは安全フィルムを歌っています。硝酸セルロースに何らかの安定剤を加えた物と思われます。そしてスライドフィルムと言いましたが、実際は映画用フィルムです。
1950年当たりから酢酸セルロースに置き換わってゆくので、この安全フィルムは過渡期の物と考えられます。

スライド映写がブームになるのは1950年代だと言いました。これにはまずカラーフィルムの登場が上げられます。カラーフィルムからプリントを作るのがとても高価だった時代、リバーサルフィルムを作ってスライド上映した方が安くて皆で楽しめたと言う事です。テレビに移行する隙間ですね。カメラもそれ以前の6センチ幅のフィルムから、カット数が多く稼げる35ミリカメラに移行しました。特にアメリカで流行りました。
ここで気がついてもらいたいのですが、フィルムの材質転換とスライドブームも一致していると言う事です。現実の話しですが、現在のフィルムでもファンの付いていないスライド映写機では、長時間差しっぱなしにすると溶ける可能性があります。一枚写すのに今でも10秒程度でしょうか。あまり長時間は投影出来ないものです。
確かに現在のハロゲン球の発熱はとても大きい物です。また150W以上の光量があります。これでは硝酸セルロースベースではどうなるのでしょうか。あっという間に燃えるでしょう。
当時のスライド映写機というのがどういった物かはよくわかりません。しかし電球のワット数はそれなりにあったと思いますし、今のような小型ファンが付いているとは思えません。そうすると光路長を長くして放熱していたと考えられます。またフィルムではなくネガからガラス乾板に焼き付けてスライドにした物もあったようです。そうするとサイズが一回り大きな物になったと考えられます。人工着色も可能だったのではないのかと思いますが、実物を見た事がないしネットでも報告はないようです。戦前の乾板でスライドショーをやったと言う記事も見つけましたが、どうも本文がないので解りません。ただ乾板はかなり薄いガラスで、材質にも寄りますが急加熱には弱いです。
もしかすると戦前の幻燈機について、書籍になっているようですが詳細は不明です。

なぜ映画フィルムが燃えやすくても大丈夫だったかと言えば、早いスピードでフィルムが動いているからです。その間に冷却されます。そして各コマごとにシャッターが動いています。連続して光が当たる事のないシステムになっています。これが燃えにくくしている理由だと思われます。とはいえそれでも火事になったりした訳で、ライムライトから電球やアーク灯に移行したのは自然な事です。

次にスライド映写機の問題なのですが、スライドのコマとコマの間に隙間が出来やすいと言う問題があります。一瞬光が漏れるのです。これを克服した映写機もありますが、この戦前の段階ではどうだったのでしょうか。私の知る限りだと、戦後でも機構的に一こまごとにスライドのはいっていないのが映し出されてしまう機種もありました。一枚ごとに真っ白な壁が写ってしまう訳です。


さて長々と書きましたが、結論です。賢治の言う幻燈とは映画の事ではないのでしょうか。まず光源があります。アーク灯か電球を使うのが映画です。スライドは電球だけだと思われます。明治時代の幻燈機にはランプを使った物があるようですが、これは昔からある画を映し出す幻燈ではないのかと思われます。「やまなし」の青い幻燈は、アーク灯やライムライトの光の質を言っているように思います。もちろん水中から見た空の青の意味もあると思います。
蛇足ですがテクニカラー映画の登場まで本格的カラー映画はありませんでした。当然賢治は亡くなっています。擬似的に人工着色したカラー映画もあったようですが、これは上映用フィルムに加工する物で、かなり高価な物であったと思われます。興行成績が望める所でなければ上映出来なかったのではないのでしょうか。

次に当時のフィルムの取り扱いの難しさです。とても燃えやすいのです。このため今と同じスライド投影は考えられませんし、乾板を使ったスライド投影と言うのも考えられますが実例がわかりません。コストも馬鹿になりません。スライド上映の流行は、1950年まで進まないとないように感じます。

そして35ミリフィルムを使ったカメラと言うのは、1914年のウル・ライカがありますが実際に販売したのは1925年のライカ I(A)になります。大体これが世界初の35ミリ写真機と言われています。ということで1925年以前にはスライド映写機の違うシステムがあったとなります。こうなると全く解りません。

調べる限り、映写機を幻燈機といったり映画を活動写真と言ったり、写真と言った例も多くあります。江戸時代に手回し幻燈機というオモチャもありますし、家庭用の映画映写機みたいな物もあります。スライド投影機になるといきなり1950年代の物がいっぱい出てくると言うのも、物証のような気がします。

そしてスライドであったなら、「雪渡り」のような字が現れ暗くなり写真が現れると言う描写は、スライド切り替えの明転、もしくは寸断で出来ない可能性があります。もちろん映写機のレンズを一時的に覆って解決出来ますが、少し手間なのは問題でしょう。

賢治のここでいう幻燈ですが、様々な要素が絡み合っています。家庭用の薄暗い映画映写機かもしれません。手回し式の物かもしれません。薄暗い光でのアニメーションだったり映画を見ていたのかもしれません。江戸時代のからくりだったりしますし、ヨーロッパの幻灯機かもしれません。電球の黄色い光だったかもしれませんし、ライムライトの薄く青緑の光だったかもしれません。この炎の揺らぎだったかもしれません。
それでいて映画館のアーク灯の青白い光で見る映画だったのかもしれません。そのないまぜが賢治の幻燈なのでしょう。
そう纏めてしまってはどうかとも思いますが、「やまなし」の光の具体的な描写を考えれば、映画のような描写に挑戦した作品とも言えそうです。


技術史的に言えば、賢治の幻燈は映画である。そう結論づけます。

ただそれでは面白くありません。それでは賢治の幻燈が映画だとして「雪渡り」の幻燈はどうやって撮影された物でしょうか。

1921年発表ですから、どうも8ミリ映画は考えられないようです。1932年のコダックのダブル8から始まる規格です。賢治は見ていません。そう言った事で16ミリ以上のムービーカメラで撮影されています。
この当時のフィルムの感度は増感現像等工夫してもISO感度で100でしょうか。もう少し低く見積もった方が良いと思います。
それでは今私の部屋では蛍光灯が60ワット光っています。今カメラで計測した所、1/10秒絞りF1.8です。16ミリ映画とし一秒間16フレームとします。シャッタースピードは17分の1秒になります。最低でもF1.4の明るさのレンズが必要です。かなりな高級レンズを使っているようです。私のレンズよりかなり高性能なようです。でも1912年ですとまだそこまで明るいレンズは出ていません。
照明を四倍以上明るくするしかありません。


狐はどのようにしてこの映像を手に入れたのでしょうか。カメラがあってもフィルムがあっても光がなければ撮影が出来ません。どのようにしたのでしょうか。

狐火でしょうか。しかしその明るさはろうそく程度です。今の蛍光灯とは比べ物になりません。

この狐たちはこの撮影のために、狐火をどこまで灯したのでしょうか。蛍光灯240W相当ですから総力戦で行ったと思います。そしてその姿を想像すると凄いです。

清作も太右エ門も酔っぱらって夜中に撮影されています。そこは真昼のように明るかったでしょう。よくそんな所で酔っぱらっていられるなと言うのが、私の感想です。

狐は解ってくれる四朗とかん子を招待しました。だが昔兄たちも招待されたようです。最後に兄たちが迎えにくるのでそれは推察出来ます。でも狐は映画の撮影でも解るように、かなり高度な文化を持っています。それがなぜ人間の子供に認めてもらわなければいけないのでしょうか。ここも面白い所です。

「雪渡り」に関してはもう少しあるかもしれません。ここで筆を置くのが大体の所でしょう。ただ狐の努力が何かと言うのがもの凄く面白いです。
そして話しを更に面白くするために蛇足を付け加えます。実は釜石街道・花巻市から東和町への間で、昔よく狐にだまされたひとがいたようです。それがなんと昭和40年の話しなのです。大体酔っぱらって、川原で素っ裸で発見されると言う物でした。で、狐のせいにされる…。そんなに古い話しではないと付け加えて、終わります。





引用

アーク灯水銀灯はここです。 
映像関連の照明や投影器具に関しては、ウシオ電気が詳しかった。ウシオ電気は本当に真面目な会社だと思う。以前もこのサイトを参照した事があった。正直な所ウイキではここまでの記述はあり得ない。シネマ光源ではまとまった記述だと思う。

白熱電球は産業技術知資料センターから引用していますです。今後科学技術史に関連する項目では使えそうです。
写真工業の昭和52年写真技術マニュアルも参照しました。あとはウィキですがこのジャンルでは相当苦しい内容の記述でした。
真面目に手元にある文献や記事をさらっても、1930年以前のスライド写真に関しては解りません。



後述

この項を書いていたら、なぜか接続分断がありました。おかげで5回書き直しました。おかげでとりとめもない文章が更に分け解らなくなったと思います。


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