デジタル化になってから、いろんな人に聞かれた。「デジタルって本当はどうなんですか」
もう答えるのが嫌になって来た。「やっぱりアナログですよ」そう答えると、ホっとした顔をして「やっぱりそうですか」とため息をつかれるのも、飽きて来た。
実はかなり前からアナログは危機的な状況になっていたのだ。まずプリントを仕上げる職人が減って来たのだ。カラーネガからプリントを起こす場合なんか特にそうだ。そんな事は無い、街にはいっぱいプリント屋さんがあるじゃないのか、そう思うかもしれないが、あのシステムですら、使いこなせているプリンターがいる店はかなり限られている。
ましてや全紙などを焼けるプリンターは現在絶滅危惧種になっている。
これは経済効率の問題だ。全紙を注文する客は大体ウルサイ。ウルサイから気に食わないと言って、焼き直しさせられる。何回やっても1枚分しか料金が取れない。これでは誰もが逃げる訳だが、実際4つ切りサイズの見本を付けてもダメなのだ。そうゆうプリンターが増えた。
昔カラーで写真展をやった時、なぜかすんなりきれいに行くロットがあったのだ。その時そのラボにはプリンターが5人いるがそのうち一人が、本当のプロだったのだ。その人指定でやれば大丈夫だったのだが、それからしばらくして辞めてしまった。
最近多い言い訳には、ペーパーが違うから見本と同じようには仕上がらない、というものだ。
さて今の、あのL版とかのプリントを作る街のプリント屋さんがもっているシステムだが、実はあれはデジタルプリンターだ。フィルムを高性能のスキャナーで読み込んで、写真のカラーペーパーをデジタル向きに作り直したペーパーに置き換えて焼いている。昔と同じく焼いているのだが一気に焼くのではなく、スキャナーの逆で、ペーパーが移動しながらレーザーで露光してゆくのだ。
大体出力は320dpiなのだが、焼く時にちょっとした事をしているらしい。拡散処理と言えばいいのだろうか、dpi数よりかなり細かく見えるように処理しているようだ。だからフィルムから焼いたのと遜色は無い。
ただ厳密に見れば乳剤層が少し薄いように感じられる。若干コクが薄いようにも感じられる。
だがそのシステムを使いこなせられるプリンターが、やっぱり少ない。中身はデジタルのバケモノなのだ。何でも出来るのだが、そこまでの注文も少なく、使いこなすだけのトレーニングを積む暇もない。
デジタルも1200万画素を超える頃から写真と遜色無くなって来た。あとは色の最大濃度の問題と、色の分離だけだが、最大濃度はCCDがCMOS系に変わってダイナミックレンジが向上した。色の分離は撮像素子からのアナログ信号(撮像素子は最初っからデジタルデーターを出している訳ではない。微小な電圧の差で構成されるデーターだ)をデジタルに変換する所のbit数が12bitから14bit以上になり、色の分離が向上した。
色の分離だが、昔のケータイについていたカメラだがデジタルが10bit程度だった。それがようやく12bitになったが、スマートフォンだと14bit以上なのではないのだろうか。この差がガラケーとスマホの写真の写りの違いになっている。
デジタルはもう少し進歩するはずだ。既にアナログを凌駕している部分もある。それは流通だ。
アナログの欠点は、流通だ。限られた人にしか見せる事が出来ない。だがデジタルはいくらでも可能だ。そもそもデジカメはそうゆう発想でアップルが作ったものだ。もちろんその前からコダックが作っていたが、アップルが利用法を考えたと言ってもいい。
撮って、すぐにメールに添付して送る。例えば外出した折に、気になったカップがあった。それを彼女にプレゼントしようと思うのだが、どうしようか。そこで写真に撮っておくって聞いてみる。そういった使い方や、商談や建築の進行具合とか、百文は一見にしかず、みたいなことはいっぱいある。
そう。写真は生まれた時には誰もがどう使うのか解らなかった。だから肖像画の代わりとかになった。もしくは新しい絵画とも捉えられた。だが写真が生まれたフランスでは、悩んだあげく建築物の記録保存に使った。そしてしばらくすると、写真を交換し合うコミュニケーションツールになった。カルト・ド・ヴィッジだ。
だが日本では家族の記録とかそういった方向のみに進んだ。おみあい写真とか七五三の家族写真とか遺影などの肖像写真と、パパががんばって撮影した家族のスナップとか、そういった消費になっていた。外に出すのはせいぜい年賀状の家族写真くらいなもの。あとは来客が求めたら見せる程度。
そう出なければ逆に、他人に見せるための作品としての撮影、そればっかりだった。
その前に写真には何か呪術的な何かを誰もが感じ取っていた。死の匂いだ。なんらかのタブーがあった。なのである一定以上の年齢の女性は、写真を嫌いになる。
コミュニケーションツールにはならなかったのだ。それがデジタルになって、コミュニケーションツールとして変化しつつある。
デジタルの起こした最大の変化だ。
デジタルとアナログは、既に対立軸を失っている。使い方の問題のみだからだ。
だがアナログはますます衰退するだろう。今既に、アナログを支える基盤がズタズタになりつつあるからだ。だがニッチのように生き残るだろう。どの程度か解らないが。
もう答えるのが嫌になって来た。「やっぱりアナログですよ」そう答えると、ホっとした顔をして「やっぱりそうですか」とため息をつかれるのも、飽きて来た。
実はかなり前からアナログは危機的な状況になっていたのだ。まずプリントを仕上げる職人が減って来たのだ。カラーネガからプリントを起こす場合なんか特にそうだ。そんな事は無い、街にはいっぱいプリント屋さんがあるじゃないのか、そう思うかもしれないが、あのシステムですら、使いこなせているプリンターがいる店はかなり限られている。
ましてや全紙などを焼けるプリンターは現在絶滅危惧種になっている。
これは経済効率の問題だ。全紙を注文する客は大体ウルサイ。ウルサイから気に食わないと言って、焼き直しさせられる。何回やっても1枚分しか料金が取れない。これでは誰もが逃げる訳だが、実際4つ切りサイズの見本を付けてもダメなのだ。そうゆうプリンターが増えた。
昔カラーで写真展をやった時、なぜかすんなりきれいに行くロットがあったのだ。その時そのラボにはプリンターが5人いるがそのうち一人が、本当のプロだったのだ。その人指定でやれば大丈夫だったのだが、それからしばらくして辞めてしまった。
最近多い言い訳には、ペーパーが違うから見本と同じようには仕上がらない、というものだ。
さて今の、あのL版とかのプリントを作る街のプリント屋さんがもっているシステムだが、実はあれはデジタルプリンターだ。フィルムを高性能のスキャナーで読み込んで、写真のカラーペーパーをデジタル向きに作り直したペーパーに置き換えて焼いている。昔と同じく焼いているのだが一気に焼くのではなく、スキャナーの逆で、ペーパーが移動しながらレーザーで露光してゆくのだ。
大体出力は320dpiなのだが、焼く時にちょっとした事をしているらしい。拡散処理と言えばいいのだろうか、dpi数よりかなり細かく見えるように処理しているようだ。だからフィルムから焼いたのと遜色は無い。
ただ厳密に見れば乳剤層が少し薄いように感じられる。若干コクが薄いようにも感じられる。
だがそのシステムを使いこなせられるプリンターが、やっぱり少ない。中身はデジタルのバケモノなのだ。何でも出来るのだが、そこまでの注文も少なく、使いこなすだけのトレーニングを積む暇もない。
デジタルも1200万画素を超える頃から写真と遜色無くなって来た。あとは色の最大濃度の問題と、色の分離だけだが、最大濃度はCCDがCMOS系に変わってダイナミックレンジが向上した。色の分離は撮像素子からのアナログ信号(撮像素子は最初っからデジタルデーターを出している訳ではない。微小な電圧の差で構成されるデーターだ)をデジタルに変換する所のbit数が12bitから14bit以上になり、色の分離が向上した。
色の分離だが、昔のケータイについていたカメラだがデジタルが10bit程度だった。それがようやく12bitになったが、スマートフォンだと14bit以上なのではないのだろうか。この差がガラケーとスマホの写真の写りの違いになっている。
デジタルはもう少し進歩するはずだ。既にアナログを凌駕している部分もある。それは流通だ。
アナログの欠点は、流通だ。限られた人にしか見せる事が出来ない。だがデジタルはいくらでも可能だ。そもそもデジカメはそうゆう発想でアップルが作ったものだ。もちろんその前からコダックが作っていたが、アップルが利用法を考えたと言ってもいい。
撮って、すぐにメールに添付して送る。例えば外出した折に、気になったカップがあった。それを彼女にプレゼントしようと思うのだが、どうしようか。そこで写真に撮っておくって聞いてみる。そういった使い方や、商談や建築の進行具合とか、百文は一見にしかず、みたいなことはいっぱいある。
そう。写真は生まれた時には誰もがどう使うのか解らなかった。だから肖像画の代わりとかになった。もしくは新しい絵画とも捉えられた。だが写真が生まれたフランスでは、悩んだあげく建築物の記録保存に使った。そしてしばらくすると、写真を交換し合うコミュニケーションツールになった。カルト・ド・ヴィッジだ。
だが日本では家族の記録とかそういった方向のみに進んだ。おみあい写真とか七五三の家族写真とか遺影などの肖像写真と、パパががんばって撮影した家族のスナップとか、そういった消費になっていた。外に出すのはせいぜい年賀状の家族写真くらいなもの。あとは来客が求めたら見せる程度。
そう出なければ逆に、他人に見せるための作品としての撮影、そればっかりだった。
その前に写真には何か呪術的な何かを誰もが感じ取っていた。死の匂いだ。なんらかのタブーがあった。なのである一定以上の年齢の女性は、写真を嫌いになる。
コミュニケーションツールにはならなかったのだ。それがデジタルになって、コミュニケーションツールとして変化しつつある。
デジタルの起こした最大の変化だ。
デジタルとアナログは、既に対立軸を失っている。使い方の問題のみだからだ。
だがアナログはますます衰退するだろう。今既に、アナログを支える基盤がズタズタになりつつあるからだ。だがニッチのように生き残るだろう。どの程度か解らないが。
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