音楽というのはかつて2種類あった。踊るための音楽と踊ることの許されない音楽とだ。前者は大衆音楽や労働歌だろう。労働歌は踊らないがリズムをとることで作業を一定化する役目がある。楽しくないかだけだ。後者は宗教音楽などだ。時代が下がると舞台音楽や踊りを見るための音楽というふうに舞台芸術付随のものになる。宗教音楽も布教のための舞台装置であり、意味は違っても基本は舞台と考えてもいいだろう。
現在の音楽と同じ扱われ方、つまりイージーリスニングもあった。ただこれらは余興にしか過ぎない。王侯貴族の食卓から大衆の酒場まであっただろう。
日本ではどうだったのだろうか。多分日本には純粋器楽は存在しなかった。雅楽や神楽や音頭のような、宗教音楽には踊りがつく。音頭は仏教行事からきているのだが誰もが忘れている。能楽や歌舞伎は舞台であるし、歌舞伎は今でも踊りだ。江戸時代に成立した常磐津なども音楽であるが踊りがあったほうが座敷芸として良い。端唄・小唄は言葉と音楽を使った、座敷芸でもあるしコミュニケーションツールでもあった。
西洋音楽、クラシックだがその歴史は踊るための音楽と舞台音楽が中心だ。そのせめぎ合いの中から純粋音楽、つまり聞くだけの音楽というのが成立してゆく。比較的形式が自由だった余興としての音楽から始まったと思う。ルネッサンスからバロックにかけて様々な取り組みがあったと思う。ただそれでも、食後に踊ることができるように音楽を作らなければいけない。その風習は大きい。バッハの平均律クラビアーナは、すべて舞曲の名前で作られている。形式的に舞曲である必要があったのだ。たとえそれが純粋音楽だったとしても、当時では舞曲でないと認められなかったのだろう。
貴族の広間から大衆のコンサートに移行するのは18世紀後半あたりからのようだ。ここには貴族以外の資産階級が勃興したことが大きい。暇があるお金持ちたちが聞くようになったのだ。オペレッタのような娯楽性の高いものから、大規模なオペラの興行が行われるようになる。純粋器楽もお金持ちのサロンから、大規模な交響曲となって劇場に移行する。
ただここで注意したいのは、ものすごい音楽愛好家もいたが大半は社交界の流行としての劇場だ。うろ覚えだが、ウイーンフィルはウイーン国立歌劇場のメンバーが交響曲等を演奏するために作ったものだが、その資金を作ったのは1812年設立のウィーン楽友協会だった。1831年には自前のホールを持ち、1870年には現在のホールができている。皇帝は土地を出したようだ。多分民間資金だろう。その時出資した人たちは世襲会員となっている。今でもウィーンフィルの定期演奏会は、その世襲会員の社交場になっているという。
ミラノスカラ座のような例もある。ウイキだが「裕福な90人のミラノ市民がオーストリア大公フェルディナントに新しい劇場の建設と、新劇場完成までの仮劇場の提供を依頼した」という回りくどい言い方をしているが、ようは金を出したということだ。教会を撤去してまで建てられた意味がすごい。そしてスカラ座の建設費はバルコニー席の販売で賄われた。どれだけお金持ちがいたのか。
さて真面目に聞いていた人はどの程度いたのだろうか。メインは社交だ。それでもいたからこそクラシックは発展してきた。ただやはり、新規性を追うことになり規模は拡大し続ける。流行でもある以上これは避けられない。ただそうなってくれば、普通の人には訳がわからないものばかりになる。だからここで評論家が生まれる。評論家がサゼスチョンしないと大衆化しないという時代になる。まあそれでもフランスで作曲家から評論家までワーグナーを嫌ったが、バイロイト音楽祭はパリ社交界で大人気だった。だからこそサン・サースは学生に対してワーグナー禁止令を出すのだが、誰も守っちゃいなかった。
それでは踊る音楽はどこに行ったのか?このお金持ちたちも踊っていたし、庶民も踊っていた。ウインナーワルツが代表だろう。流行歌もあったし、それも踊れるようなものが多かったと思う。そう思うのは年代は下がるがサティの歌曲がそうだからだ。スイング時代のジャズもそうだ
この頃の日本は江戸時代だ。多分庶民は踊っていただろう。だが幕府の倹約令からなんやでよく圧はあっただろう。また身分制度の問題はある。踊りはの芸であって上流階級はしないとなっていた。誰もが踊っていいのは祭りの時くらいだっただろう。
それがなぜか、伊勢神宮へのおかげ参りを使った討幕運動かもしれないとも言われている、「ええじゃないか騒動」が起きる。1867年の7月から12月まで近畿・四国から東海にかけて、伊勢神宮のお札が降ったようだ。そして大衆は「ええじゃないか」と囃し立てて踊りまくった。ナゾな事件だが、当時の日本人にとっての「踊る」という意味が透けてくるように思える。
蛇足だが、伊勢神宮のお札が降ったというウワサで熱狂が起きるなら、直接伊勢神宮から幣が送られてきたらどうなるのか。明治維新後数年行われた。だが結果は散々だった。幣は川に流されたりした。明治政府はこの政策をすぐに止めた。
日本では鹿鳴館の時代もあったが、西洋音楽とダンスが入るのは大正期までくるだろうか。ダンスホールとかだ。そして音頭なのだが、もともと宗教的なものだったが娯楽に変わったという経緯がある。だが宗教的意味合いと戦後のコミュニティの変化で、踊れなくなってしまった。余所者が増えると地域の型を守れなくなるからだ。その意味では東京音頭やオリンピック音頭のような全国的に流行した音頭が未だもって使われるのは、標準化という意味で大きいのだろう。
大瀧詠一の音頭シリーズが使いにくいのは、やはり歌詞のせいだろうか。「イエローサブマリン音頭」は踊りにくい。
今でもダンサブルな音楽はいっぱいありチャートの上位を占めている。ところが「音楽」を聞くとなれば、別な考えが必要だ。記録媒体ができたのだ。