敬老の日だか秋分の日だか区別の付かないくらい耄碌し、どっちでもいいではないかと執着しなくなるくらい老いてしまった。来年のオリンピックと孫娘の結婚くらいしかこの先に興味のあることが無くなると、生きていく意味というか、無駄なような気がしてくる。自分史を纏めるに足る事績がないので、記憶を辿るのも面倒になる。
生きていることが無駄に思えてくるけれど、膝の痛みで正座できなくなったり、ちょっとした運動をしただけで左脚裏太股の筋が切れたのがいつまでも治らずに痛むとか、マンション管理人の植栽の仕事で無理をして切れた右背筋の鈍痛が引かないとか、鍋を洗うときにシンクのステンレスを傷付けないよう左手で浮かせて支えていたのが祟ったのか前腕伸筋が破滅して痺れるとか、四六時中耳鳴りがしていずれ気が狂ってしまうのではないかと恐れたり、加齢現象と闘う対象は当たり前ながら年を取ってからますます広がっており、そうした未知の体験を日々新たに味わっていることが、浅ましくも生きている意義ではないかと偏屈に考えたりもする。
こんな悩みは自分一人ではないかと思う一方、結構それなりにみんな苦労している姿が窺える。だから、他人の苦悩を抉りだしてやろうと、老人はすぐOB会と称して皆の元気な顔が見たいと言って集まりたがる。集団には大概1人くらいは言い出しっぺが居るものである。同報メールが届くと、一応みんなイイねと賛同する。しかし、この時節、大勢が集まる場所は避けて夕方でなくて昼飯会がいいのではないかとか、街中を避けて田舎の俺の別荘に集まろうではないかとか、議論三、四出して、なかなか結論に至らない。業を煮やして、コロナを警戒して不安な顔で集まっても何も楽しくないので、来年のほとぼりが冷める時期まで先送りしようと提案すると、一旦は収まりそうになった。しかし、一度火がつくと、諦め切れない者も居て、結局、いつものワイワイガヤガヤ賑やかな大衆酒場を避けて、コロナ対策がしっかりしてそうな高級店の個室で来月、少人数で会うことになった。やるかやらないか、じゃ日取りはいつとスパッと決まった若い時分と違って、何事も老人のやることは手間暇が掛かる。古本屋で有吉佐和子の『恍惚の人』を見付けて読み始め、そんな事を考えた。平均年齢が60歳を超える新内閣は大丈夫なんだろうか?
勢ひの
衰へそむる
秋の日は
思ひもかけず
しもの訪づれ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます