NHKの今朝のラジオのリスナーの便りに、節分の豆撒きの時の事だったのか、鬼の面をさも怖そうに作って2歳の子供に向けたら泣き叫んで豆撒きどころでなくなった様子を動画に撮ったのが送られてきた、という祖父母の話を紹介していた。私も2年ほど前に鬼の面を被り、亡くなった愛猫にワオォーと脅してやったが、お父ちゃん何してんの?不思議な顔をするだけで、全く驚かなかった。人間の赤子と猫の認識能力の優劣について考察してみる。赤子が泣くのは、いつも見慣れた父親でなく、赤い顔をした異物が突然現れ、襲われるのではないかと危機を感じたからだろう。猫は、この家には飼い主しか居ないし、匂いも飼い主の物だと見切って平然としているのだろう。物を正確に認識する能力では猫が優っている。では、赤子はバカだから正体を見破れず泣き叫んで、猫より能力が劣ると蔑視して好いのだろうか。物の本質を一瞬にして見抜く能力では確かに猫が上である。しかし、物事は本質のみでいいのだろうか。そこに錯覚や想像が紛れ込んでくるところに、人間が感情豊かに悲劇と喜劇を産み出す才能があるのではないだろうか。女性のほとを見て猫のように生物学的解釈だけでは男の一物は起たないし、人類の存続は危機に追いやられる。例えば仕事中に、最近忙しくて手入れしてない男性社員が鼻毛を見苦しく垂らしているのを課内一の美人社員がまじまじと見詰めているのを、俺に惚れているなとコント漫才のような早合点ができるのは、人間の誇れる才能であろう。そんなことをされたら、蛇やライオンだったら、危機を察知して飛び掛かって噛み付くはずである。やはり、人間の錯覚と想像する力は素晴らしい。赤ちゃん頑張れ、それで良いんだ。
一物と言うと、また今朝のNHKラジオ古典購読『方丈記と鴨長明の人生』で10世紀末の奇僧、僧賀上人の話をしていた。三条大后という、今で言えば上皇后のような方が、皇統の継承という大事な仕事も済ませたため、出家をなさりたいというので、戒を授けるために僧賀が宮殿に呼ばれた。ラジオのことなので聞き漏らしもあるけれど、兎に角儀式が済んでみんなホッとしている時に、問題の僧賀が、私の一物が大きいから大后が呼んでくれたのでしょうけれど、もうくたくたで使い物にならないんですよ、とトンでもないことを口走った。周りの殿上人達は、谷啓がガチョーンと言ってクレージーキャッツの他の面々がはれーッと倒れるように、ずっこけたそうである。浅見和彦さんみたいな大学者が俗耳に受けるこんな話をしてくださり、古典購読は本当に楽しい。ただ、この辺りの逸話は宇治拾遺物語からの引用らしい。鴨長明も僧賀のいろんな奇行に触れ、纏めとしては人に気兼ねしたり、物に執着して自分を見失わないで、自分本来の正直な心を実践したところが素晴らしいと締めている。猫は私をどんな姿をしていても私と思い、赤子は父の変装を鬼と想像して泣き叫ぶ、どちらも素晴らしいことである。
いちもつは
いきり立つ日に
つかふべし
鞘のままなら
錆びもくるらむ
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