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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)  第三章 幼きイエズスの道 四、イエズスの選び給える徳

2019-11-03 18:56:05 | アンヌ・ド・ギニエ

四、イエズスの選び給える徳

 聖主は御自身の霊魂の秘密を、打ち明け給て、「心の柔和にして謙遜なるもの。」と仰せられた。愛し奉るイエズスのように柔和に、謙遜に控えめに、富の中にあっても、清貧を守るため、アンヌはいかほど心を用いて、主と一致し奉ろうとした事であろう。彼女の謙遜は抑え難い、その熱烈さに、愛らしい謙慎(つつしみ)を合わせて完全化した。この聖なる子供は、始めは己を忘れる事に苦痛を感じたが、遂には尾己を捨てずには居られない様になった。アンヌが他人に説論したり、命令する事が好きであった事は前に述べたが、彼女の使徒的熱誠から、乱暴な仲間と遊んでいる最中には苛立つ事もあった。まずよい手本を示して諭すべきであると教えられたが、手本による説教くらいでは、熱心を満足させる事が出来なかった。ささやかな過ちにも、小さい暗示を与えずには居られなくなる事があった。完全に逸る心を抑えて、その不届き者の耳に、「さあ、あなたの天使にお頼みなさい。さもなくば、とても駄目になってしまいます。」と言葉巧みに賢い忠告を囁くのであった。完全に己を忘れ果てて、完全に天主を愛するようになると、決して自分から要求するという事がなくなった。若し誰かが何心なく、彼女の事を忘れていると、アンヌは喜びに輝いた。完徳の道の本能から、可愛らしい単純さで、いつでも他人を公に出して、自分は影に退くのであった。ちょうど折込の付いたバネ仕掛けの戸が、用させ済めば自然元に戻ると言った具合に、彼女の徳が自分の後ろに退かす折込みであった。いつでも先に立って、小さい企画の実行の首脳者、先駆者となり、最も困難な仕事を引き受けて努力したが、その甲斐あって成功すると、名誉は他人に譲って満足していた。努力は人任せにして、成功の名誉を我が物顔にする世の常とは正反対であった。そのうえ、それが如何にも自然で、わざとらしくなく、単純に見えた。神に向かって真っ直ぐに目当てを定め、その霊魂に示顕された神の美の沈思の中に己を忘れ去るのであった。そして自分の徳や、人に重んぜられるような点については、全く自覚せず全然己を無視していた。人々は彼女の大きな活動を推察していたが、アンヌ自身はそれを意識する事なく、また人も彼女の透明な淡白を煩わすのを怖れて、内的生命についての質問を避けた。また彼女から言い訳を聞いた事もなかった。改心を志した当初、軽い事であるが、誤解を受けて、兎も角も虚言を言ったといわれて咎められた。アンヌはこの罪に対する特別の強い憎悪を持っていたし、かりそめにも偽りを口にする事はなかったが、僅かに顔を赤らめたばかりで、この苦しみと侮辱を無言で堪え、無実の罪の弁明をしなかった。またアンヌの祈りによってお恵みを受けたという人があると、即座に打ち消して、「いいえ、それは私ではありません。天主様でございます。」というのであった。打ち消す言葉の調子に依っても、傲慢に関する罪をいかにも小さくとも、非常に強い恐れを持っていた事を現した。カンヌで公教要理に通っていた時分、アンヌは他の子供よりずっと小さかったが、年重の仲間より成績が遥かに勝れてtいた。また、生まれつき人好きよく、自然人をして感嘆せしめるようなところがあった。五年間、この小さな子供を指導して、細心に観察していた童貞は、アンヌに於いては虚栄心の閃きを、ただ一度の例外の他、認めなかったと言っている。四つになるかならない時分、家庭教師は、アンヌが鏡の前にいるのを見て驚いた。咎めると、時分が可愛らしいと思ったのだと、到って率直に白状した。そして全ての美しさは神より来るので、儚い喜悦(よろこび)によって、賜物を悪用すべきでないと教えられると、アンヌはこのような空虚な弱点について非常に心を痛め、即座に虚栄心を捨てるように努め、服装、装い等には全く無頓着となり、それ以来彼女の心は、最早虚栄心を満足させるような事柄には係らぬようになった。
 ある日誰かが、アンヌの生え変わった歯を見て、前より歯並びが悪くなったと言うと、「そんな事が何のためになりますか、大切な事ではありません。幼きイエズス様さえ満足して下さることが出来たら、他の事はどうでもよろしいのです。」と確心をもって返答した。
 謙遜から我が身を忘れ、控えめに振舞う心に、清貧への愛は、最後の極印を与えた。人により善い物を譲り、自分には一番みつぼらしい物を、うまく選び出して、常に少しの物で満足し、倹約して、僅かな物も捨てず、利用して、貧しい人々に、小さな贈り物をするように心掛けた。
 誠に彼女は富の中に在りながら、清貧の生涯を送った。「三つの誓願を立てていると言えよう。」と注意深き監督者が言っている。善を励むに忠実に心を用い、ささやかな過失、煮えきらぬ中途半端な事をも敵視し、贖罪に熱心で、十字架に釘付けられ給うたイエズスへの愛に燃えたこの子供は、速やかに霊魂の潔白の光輝に達した。「無邪気で、単純で、温順しい(おとなしい)、犠牲的精神に富んでいる彼女に於いては、御主の俤(おもかげ)を、より以上求める必要はない。」と例の修道女が褒めている。イエズスとアンヌの間には、天来の特別の関係が結ばれ、その年頃の子供に稀に見る徳によって、両者間の一致は現れた。その時分から、小さい友達の間に、彼女の宗教的智識のみならず、己を忘れる事、可愛らしい心づくし、信心深さ、優かな(しとやかな)愛嬌ある顔つき等は、賞賛のもととなった。誰も彼もこの利発な、慎み深い、一番おとなしい子供の隣に座ろうと争った。アンヌはそれを不審に思って、単純に「ママ、なぜ皆、公教要理の組のお友達は、私の隣に座ろうと競うのでしょう?」と尋ねた。「皆さんは、よい子供で、深切な心持ちをあなたに見せたいからです。」母は答えた。アンヌはこの返事に納得して、友達の深切な事に心から感服して、自分に満足を感じる等ということは、夢にも思いつかなかった。人々は、神の考え給うと同様に、彼女の体は主の神殿であると考え、彼女の神聖に対して予感を持っていた。アンヌが近づくのを見ると、友達は互いに気を付けあって、「ネネットが来ました。あの子を呆れさすような事がない様に。」と言って、言行を慎み、居住まいを直すのであった。「アンヌは天使のように清い、あの子を見ては、善くならないでいられない。また思わず神様の事を考えさせられる。」と親友は言った。この霊魂は実に教会の花園に咲く白百合の如く育まれた。

(四、イエズスの選び給える徳 終わり)

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