小さきテレジアの記念日
誕 生 千八百七十三年 一月 二日
洗 礼 同 一月 四日
着 衣 式 千八百八十九年 一月 十日
カルメル会修道女院に入る 千八百八十九年 四月 九日
福者の位に列せらる 千九百二十三年 四月二十九日
初 聖 体 千八百八十四年 五月 四日
聖母の微笑 千八百八十三年 五月 十三日
聖者の列に加えらる 千九百二十五年 五月 十七日
天主の恵みに我が身を捧げる記念 千八百九十五年 六月 九日
堅 信 千八百八十四年 六月 十四日
誓 願 式 千八百九十年 九月 八日
被 覆 式 同 九月二十四日
死 去 千八百九十七年 九月 三十日
教皇レオ十三世陛下謁見 千八百八十七年 十一月 二十日
ご誕生の恵み 千八百八十六年 十二月二十五日
-----------目次---------(略)
我が世にあらん限りは必ず恩寵と憐憫とわれにそい来たらん(詩編二十三章)
春の小さき花の履歴
(一章から八章までの文章は、テレジアが、修道女院長であった自分の姉上ポリナに宛てて書いたものであります)
敬愛する母様、あなたの仰せに従って、私の霊魂上の履歴を打ち明けましょう、実に最初に仰せを承った時、こういう事は種々の心配に逢って、心が乱れはすまいかと案じましたが、しかしあなたの仰せを柔和に従うのは即ち聖主キリストの聖旨のかなう事である、と悟りましたので、今ここに私は永遠に於いて再び繰り返さねばならぬ私の霊魂上の経歴……主の御憐れみの仕業を歌い始めましょう。
私は筆を執る前、母や姉や私が度々慰めを受け恩寵を受けた聖母マリアの御像の前に跪き、しばらく祈って後、「天の元后のお気に召さぬような事は一句でも書かぬよう、私の筆を導いてください」とお願いしました、そして傍に有った聖福音書を開いてみますと「聖主が山に登られ、好み給える人々を召し給いしに……」(マルコ三の十三)という句が目につきました。ああ此の
好み給えるという言葉の深き意味-聖主が値打ちある人を召し給うのではなく、ご自分の好み給う人々を召し給うたという事は、まことに味わうべき言葉、私の一生涯に於ける神秘もそこにあり、また私の霊魂をお与えくださった多くの恩寵のわけもこれが為であります。さればかの聖パウロも「天主は憐れむべき人を憐れみ、慈悲を施すべき人に慈悲を施されるので、敢えて之を望む人にも走る人にもよらず、ただ天主の聖慮のみによるのである」(ロマ書九の十五、十六)と申されてのであります。
私はこういう事を考えました、「天主様はどういう理由ですべての人々に対して同じ様に恩寵を与えなさらず、ある人々には特別贔屓されるように多大な恩寵をお与えなさるのであろうか、かの聖パウロとか聖アウグスチノ、聖マリア・マグダレナのように大いなる罪人に対して特に不思議なほど豊饒な恩寵を、強いてお与えなさったように見え、また聖人伝を読みましても産声を上げてから墓地に葬られるまで、特に恩寵を以って洗礼の際の白い衣服を罪悪で汚されないようにお護りになり、何時も何時もご自分にお近づけなされてこれに妨げになるようなものを取り除かれ、一生涯に恩寵の中に過ごさせた方々が多数あります、そうかと思うと一方哀れな未開人には、一度も主の聖名を聞かずにして死ぬという不幸な者もありますが何故このように恩寵を蒙る事の厚い薄いの区別があるのであろうか、と不審に思いました。(続く)
読んでくださってありがとうございます。yui