両者を比べて自分に有利な方につこうとして形勢を見守ることを「洞が峠を決め込む」と言うがこの語源はきのうにつづき筒井順慶に由来する。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は新政権樹立のため諸将に協力を求めたが拒否され、頼むは姻戚関係にある筒井順慶だけとなった。順慶は味方するようにみせかけて摂津、山城の境にある洞が峠に陣取り山崎合戦の戦況を見守り、明智光秀の敗色が濃くなって初めて秀吉方に味方した。このことから日和見(ひよりみ)主義を「洞が峠」とか「順慶流」というようになった。
しかし、『多聞院日記』『蓮成院記録』などの史料によれば、本能寺の変を聞いた順慶は洞が峠で日和見をしていたのではなく、大和郡山城で軍議を重ねた末、慎重論が大勢を占め、以後明智方からの再三再四の援軍催促にもかかわらず順慶は態度を明らかにせず、秀吉が毛利方と和睦し、その軍を東へ走らせているとの情報を受けて漸く意を決して秀吉に忠誠を誓った。秀吉が山崎で光秀を完敗させた後、順慶は秀吉の許へ行き、遅参を叱責されたが、からくも許され大和国を領有することができた。
このように順慶は洞が峠に出陣せず大和郡山城で日和見的な態度を取っていたというのが真相。しかし『蓮成院記録』によれば、明智光秀が山崎八幡洞が峠に着陣し、ここでむなしく順慶の支援を待ったという記事があり、このことが混同されてこの話ができたのであろう。この故事の契機をつくった明智光秀も「三日天下」を残した。
順慶は、持病の胃浣痛が重くなり、天正12年(1584)8月11日、大和郡山城中で死去した。36歳だった。筒井家は、養嗣子の定次が継いだ。
同じ人物で「元の木阿弥」と「洞が峠を決め込む」の二つも故事をもっているというのは珍しい。
「元の木阿弥」にもどる
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は新政権樹立のため諸将に協力を求めたが拒否され、頼むは姻戚関係にある筒井順慶だけとなった。順慶は味方するようにみせかけて摂津、山城の境にある洞が峠に陣取り山崎合戦の戦況を見守り、明智光秀の敗色が濃くなって初めて秀吉方に味方した。このことから日和見(ひよりみ)主義を「洞が峠」とか「順慶流」というようになった。
しかし、『多聞院日記』『蓮成院記録』などの史料によれば、本能寺の変を聞いた順慶は洞が峠で日和見をしていたのではなく、大和郡山城で軍議を重ねた末、慎重論が大勢を占め、以後明智方からの再三再四の援軍催促にもかかわらず順慶は態度を明らかにせず、秀吉が毛利方と和睦し、その軍を東へ走らせているとの情報を受けて漸く意を決して秀吉に忠誠を誓った。秀吉が山崎で光秀を完敗させた後、順慶は秀吉の許へ行き、遅参を叱責されたが、からくも許され大和国を領有することができた。
このように順慶は洞が峠に出陣せず大和郡山城で日和見的な態度を取っていたというのが真相。しかし『蓮成院記録』によれば、明智光秀が山崎八幡洞が峠に着陣し、ここでむなしく順慶の支援を待ったという記事があり、このことが混同されてこの話ができたのであろう。この故事の契機をつくった明智光秀も「三日天下」を残した。
順慶は、持病の胃浣痛が重くなり、天正12年(1584)8月11日、大和郡山城中で死去した。36歳だった。筒井家は、養嗣子の定次が継いだ。
同じ人物で「元の木阿弥」と「洞が峠を決め込む」の二つも故事をもっているというのは珍しい。
「元の木阿弥」にもどる
造詣の深さに感服しました。
自分の底の浅さを恥ずかしく思います。
『元の木阿弥』の記事に
”本当かと調べたら”とありましたが
情報源はなんでしょう。
とても興味があります。
無理にとは申しません。
これから過去の記事をじっくり
読ませて頂きます。
勿論今後も期待しております。
取り急ぎ、お礼まで