年末年始になると「高島易断」と銘打った暦が書店に手帳のコーナーと一緒に設けられる。
易占い(易経)というと「当たるも八卦当たらぬも八卦」という諺を思い出すにすぎないが、それを完成させたのが易聖・高島嘉右衛門なのだという。そればかりか、タイトルのように「横浜をつくった男」として横浜に「高島」の名を地名に残す偉人だった。
弓なりの部分が嘉右衛門が埋め立てた土地(いまは、この界隈も埋め立てられた)→
高島嘉右衛門は、幕末明治期の実業家、易断家。幼名清三郎。江戸三十間堀(東京の銀座)に生まれ、家業の建築請負業、材木商に従事する。
22歳の時、安政大地震(1855年)の数日前、理由なく釜が鳴ったのを聞き、幼少時に学んだ易経を立てると「火」に関する卦(離為火)がでた。大火が起こると予見して大量の材木を買収。実際に数日後、大地震が発生し、瞬く間に財をなした。
その後、慶応2年(1866)に開港まもない横浜で、嘉右衛門は土木建築請負業を始め僅か4、5年で莫大な財産を築く。
しかし、国内外の商人相手に国禁の為替売買に挑み、発覚し投獄。
牢獄で易の本「易経」と出合い、上下二巻を暗誦するほどに熟読し、天来の易占の才能を開花させる。
自由の身となった嘉右衛門は、更に事業に精を尽くし、私財を元手として明治の国家事業である日本初の鉄道敷設(横浜・新橋間鉄道用地の埋立工事)、ガス会社の設立、水道会社の設立、洋学校の設立などの先駆的な事業を次々と立ち上げ、近代都市横浜の初期の街づくりに貢献した。
しかし、彼は事業家としての栄達に執着せずあっさり捨てて、四十歳代後半からは易の研究に没頭。
易で交流のあった伊藤博文の暗殺を予言し、その暗殺者にかかわるキーワードまでをも伊藤博文に通告していたという。
横浜の発展に大きく寄与したことから、「横浜の父」あるいは「横浜三名士」(他に吉田勘兵衛、苅部清兵衛)ともいわれる。
推理作家の高木彬光氏によって、昭和54年に発表された『大予言者の秘密 易聖・高島嘉右衛門の生涯』を、『「横浜」をつくった男―易聖・高島嘉右衛門の生涯』に 改題(光文社文庫)。題名にひかれて手にした本はドラマチックに描かれ、とても面白かった。
彼の本(推理小説)よく 読んだものです。
懐かしい 名前です
iina宅には、先日に「こども奴」をご紹介しましたが、拙ブログにはじめて登場する「奴」は、次のとおり「農奴」としてでした。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/af0017b1c2f237a44203cd1869086184
易は当たるし事業は成功する。
それでいて財には執着しない。
横浜が好きで横浜から出ず、横浜のために尽くす。
正しく横浜の父です。
高島易の暦は毎年手元に置いているので「高島」と言う人が作っているのだとは思っていましたが、その高島さんが高島嘉右衛門だったのですね。
何だか急に親近感を覚えました。
>大正琴、発表会を励みに、「数字譜」の楽譜を見て よく練習していました
お母様は大正琴の発表会を楽しみ練習されていたのでしょうね。
私は大正琴の音色が好きなので、機会があれば生演奏を聴きたいものです。
「間人(たいざ)ガニ」を食べたくなりました。
>高島嘉右衛門は凄い人ですね。易は当たるし事業は成功する。それでいて財には執着しない。・・・正しく横浜の父です。
10日に封切される「海賊とよばれた男」も、この夏に読みましたが、これは出光興産創業者の出光佐三氏を扱った小説でした。
高島氏も出光氏も、”日本のこと”を思ったスケールの大きな偉人でした。
そのため、家の近くに出光石油があるので、カードを作りそこでガソリンを補給しています。価格も他店に比べて安いですょ。
高島易の暦の「高島」と、横浜の地名の「高島」が同一人物に由来するとは驚きです!
静御前が、またあらわれました。 こんどは、「光了寺」でした。
>高島易の暦の「高島」と、横浜の地名の「高島」が同一人物に由来するとは驚きです!
そうなのです。 iinaもこんな偉人だったとは、なおさら驚きました。
ホコリをかぶりながら、高架橋下の味気ない舗道を歩くのは辛くて面白くもなんともありませんでした。
そのころの「みなとみらい」地区は国鉄の桜木町駅構内に電車がたくさん停まってました。
いまは、みなとみらい都市内を通ると、前よりも近くてモダンなビルの合い間を退屈しないで歩けます。