いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?

2019年10月08日 18時50分17秒 | 札幌

ネットで敗戦直後の札幌市街の画像を見つけた。

https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf より 
1945年10月6日、米軍撮影より 作成。福林徹氏提供 米国立公文 書館所蔵
①札幌逓信局ビル(北1条西6丁目 現・アーバンネット札幌ビル) ②北海道拓殖銀行本店ビル(大通西3丁 目)③札幌グランドホテル(北1条西4丁目)④札幌市役所(北1条西4丁目)⑤北海道庁(北3条西6丁目 赤レンガ)⑥北海道新聞社(大通西3丁目)

敗戦直後残って札幌の様子を映した写真をネットで見つけた。敗戦後、大通りの北海道拓殖銀行本店ビルが占領軍司令部があったから。このことは子供の頃は全く聞いたことがなかった。知ったのはネットの時代になってからだ。

①~③のビルが米軍に接収された。②北海道拓殖銀行本店ビル⇒第77師団司令部。


現在の札幌。②が司令部のあった拓銀本店があった場所。拓銀は御存知破綻して北洋銀行になったので今では北洋銀行本店。

なお、この司令部のあった拓銀本店での記録に残る出来事は、例えば、
1947年の春に4名(北海道アイヌ協会の有力者・椎久堅市、小川佐助、森久吉、文字常太郎)はGHQ第九軍団司令部に呼び出され、ジョセフ・スウィング少将と会い、アイヌ民族に日本から独立する意志があるかを打診されたという。椎久たちは独立する意志はなく「日本国民として祖国の再建に尽くす」旨を答え、少将は独立運動など起こさず日本人と対立しないよう釘をさした。wiki) がある。 

敗戦直後の進駐軍が司令部とした当時の拓銀本店の画像は下記;


上の1945年鳥瞰画像に映る建物と一致する。

■ 上の1945年鳥瞰画像はどこから撮影したのか?

上の1945年鳥瞰画像は1945年10月6日に撮影された。撮影したのは米軍77師団の写真撮影担当の通信隊。札幌に米占領軍が進駐してきたのは1945年10月5日。ミズーリでの降伏文書調印から1か月も経っている。このことは以前書いた


昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。
 翌五日、小樽は薄曇り、札幌は曇りのち晴れ、高くやがて晴れあがった秋日和。
 (中略)
 小樽から札幌へは海岸ずたいに三十七キロ、午前七時すぎには早くも先発のトラック四台が札幌へのりこみ、日本側の先導で、中島公園内の元北部軍司令部あとの建物に入った。つづく車両の進駐軍は手に手に自動小銃をにぎりしめ、鉄カブトをにぶく光らせながら、その前日市役所が労務者を動員して掃き清めた北一条のアスファルトの道路を通過してゆく。

なので、上の1945年鳥瞰画像は札幌進駐の翌日だ。さて、この写真はどうやって撮ったのか?鳥瞰である。映っている大通り公園の向こうの拓銀本店ビルなどが4-5階だとわかる。そのビルをかなり上から視線で撮影している。4-5階建てのビルをこのような角度で見下ろす建物は相当高い建物ではないといけない。航空写真か?最初はそうなのかと思った。でも飛行機にしては高度が低い。この高度ではあぶないだろう。調べた。撮影位置は大通り西一丁目。今井百貨店(札幌っ子は丸井さんと呼ぶ)の位置だ。ネット調べると今井百貨店ビルは大正年間にできた。でも4-5階以上の高さではない。

調べたらわかった。こんなこと全く知らなかった。生まれる前とはいえ本籍地から1kmも離れてないのに。


大通りの西1丁目には望楼があったのだという。
札幌のシンボルタワーだった消防署の望楼 昭和二年十月に大通り西一丁目に建てられた望楼は、高さ43.33メートルの巨大なもので、当時は東洋一といわれました。出典

知らなかった。昭和40年まであったそうだ。札幌で全く聞いたことがなかった。

米軍77師団の写真撮影担当の通信隊は1945年10月6日にこの望楼から撮影したのだ。

下記画像はこの望楼から撮った昭和30年頃の札幌。


■ 後記; このブログ記事の後、敗戦直後の札幌の映像が見つかった。下記記事で映像リンク先に行けて、見られる。

敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地



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