中国共産党発足メンバー13人とコミンテルン2人の計15人。
中国共産党第一次全国代表大会の様子を蝋人形で「再現」した展示物。上海は旧フランス租界地区の一大会址博物館の展示物。展示物は写真撮影禁止だったが、この展示の写真を撮影した(2012年) [2]。
一大会址博物館 wiki [中国共産党第一次全国代表大会]
プラタナスの並木をもつ通りに建つ瀟洒な石造りの建物。1921年当時、李漢俊の住居。
中国共産党発足メンバー13人とコミンテルン2人の計15人は下記の通り;
13人のうち4人が日本留学経験者。そして、この1921年の中国共産党発足から1947年の中華人民共和国建国まで完走したのは、毛沢東と董 必 武(日本留学;日本大学卒業)。
関連愚記事;①史上最大のベンチャー・プロジェクト?=すたーと・あっぷ となるか??? あるいは、なぜ、現代支那で資本主義が興隆なのか?、② 董 必 武 中共国家主席@法政 日本 大学卒を知る
つまり、毛沢東と董 必 武以外のメンツは共産党を辞めたり、国民党に殺されたり、国民党に寝返ったり、あまつさえ我らが日帝と組もうとして漢奸となったりしたのだ。
周仏海は東條英機と一緒に写真に納まることとなる;
愚記事より
■ 周恩来はなぜ中国共産党第一次全国代表大会に参加しそこなったかというとパリにいたからである。なぜパリにいたかというと日本で勉強していたが一高(旧制第一高等学校)の入試に落ちて、フランスに行くことになった [荷風かよ、おまいは!]。もし、日本に居続けたなら、周仏海のように日本から上海に行ったであろう。周恩来は1919年に離日。さて、一高に落ちた周恩来は、今となっては、京都の嵐山や筑波山[3]など遊び歩いていたことが知られている。
[3] 日本語で「私は学生時代、友人とあの山(筑波山)に登りましたよ」と明かした
■ 元祖「上海派」
江沢民よりずっと前から周恩来は「上海派」。
中国共産党の主導権を奪った周恩来
1930年頃、コミンテルンの後ろ盾で周恩来やソ連留学組が党の主導権を握っていたとのこと[1]。毛沢東は江西省、福建省の革命 根拠地にいて党中央の指導的メンバーではなかった。
この時代、周恩来はあのゾルゲと会っていたことが最近分かってきたらしい。周恩来はモスクワに忠実な「国際派」であったらしい。
一方、のちに毛沢東はモスクワと決裂。独自路線を行く。
しかし、結果、毛沢東が主導権を握ったのは、日本の攻勢、長征と地方が共産党の根拠となったから。上海は完全に日本に占領されたので。
なお、ヨタを云えば、習近平の文化大革命時の下放体験は長征のプチ・インカーネーションであり、農村が都市を包囲するのであって、「上海派」=江沢民派と抗争するのだ(???)
で、周恩来は「寝返って」田舎で毛沢東と「仲良く」;
[1] 研究報告 「ゾルゲ事件の残された謎」一橋大学教授 加藤哲郎
[2]
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ネットでみつけた中共一大会メンバーと日本留学について ⇒ 留日学生と初期の中国共産党 北京大学歴史学系 王 新 生