昭和天皇はA級戦犯と松岡元外相と白鳥元大使の靖国神社合祀に不満だったという、故富田宮内庁長官のメモが先月日本経済新聞に掲載され依然論争が続いている。若い頃昭和史をかじった私にとって、昭和天皇が戦争責任と当時の重臣たちをどう思っていたかは多くの人達と同様に大変興味があった。
私がやや違和感を持ったのは、A級戦犯に対し嫌悪感を持っていたかのような報道があったことである。終戦前ポツダム宣言を受け入れる時、当時の為政者達にとって国体護持、つまり天皇制を基にした支配構造の温存が最優先かつ唯一の条件であった。
東京裁判におけるA級戦犯も自己弁護よりも天皇の戦争責任追及回避を優先したことが多くの書物にある。誰が開戦の指示をしたかの証言について弁護人と相談し、結局東條大将は自分に不利な証言をした。松岡元外相が生理的(三輪公忠氏)とも思える天皇への忠心があったことも記録されているところだ。
では何故昭和天皇は死をかけて守ろうとした忠臣のA級戦犯合祀に不快感を示したのであろうか。これほどの忠心が天皇に伝わっていなかったとは私には思えない。マッカーサーに会った時から天皇自身は死をも覚悟しており、天皇を守るため周辺の必死の努力を知らなかったはずが無い。
昭和天皇は戦後徐々に形成されていった平和日本のシナリオ(当初は虚構だったという説もある)に乗ったという説が最も妥当なように考える。天皇は戦後日本を混乱から立ち直らせ二度と間違いを起こさないようにする為、日本の象徴として何をしなければいけないか考え抜いて出した結論だったのではないだろうか。
A級戦犯の人達が示した忠心は個人的なものとしては忘れない。しかし、公的には彼の結論であるところの「戦後平和日本」における役割を果たすという揺るぎのない決心が富田氏への言葉になった、と考えると私の違和感は矛盾無く説明されることになるのだがどうだろうか。
しかし、一方で天皇の赤子という名の元に2.26反乱軍を率いて立ち上がり重臣を暗殺した青年将校には激怒し厳罰を与えたことが私の頭の隅に残っている。天皇の名の下にどれほど多くの血が流れたか考えれば我々には推し量ることの出来ないお心があったとしても決しておかしくは無い。■