午後から家族が我が家に集って少し早めの古希を祝ってくれることになっている。お祝いは私の希望のスマホ、既に息子がセットップしてくれ利用している。私はガラケイで十分だったが、家族間の通信にはスマホが必要になった。他に家内のリクエストで私の為に質より量のチョコレートケーキが持ち込まれるはずだ。失礼だけど的確な指摘だ。
家内の発案で母の傘寿(80)のお祝いを10年前田舎でやったのを思い出す。母は米寿(88)をお祝いできるまで生きたが、本人が認識して喜んでくれた最後のお祝いという意味では正しかった。ということは私も古希をやっとかないと喜寿(77)はヤバイということかもしれない。多分そうだろう。ま、いいか。
この15年間は私の「第2の人生」と位置付ける。父の死んだ年になったのを契機に2003年に早期退職し、新しい人生が始まった。その間に子供達が教育を終え、上の2人は就職・結婚を機に家を出て孫が生み立派な家族を設けた。私は母の介護をやりきり最後を見送り実家の主になった。加えて、末の息子と家内の為に東京の自宅を建て直した。家族の為にやれることは全てやった感がある。
最初の計画とは違ったが、私自身も完璧とはいかないがやれることはやった。退職直後は都会・田舎・海外を4か月ずつ順番に住みたいと考え、海外のロングステー候補地を家内と旅行したが途中計画断念した。その後、都の嘱託になり中小企業の経営コンサル、ボランティアで市のIT教育支援をしたが、母が脳梗塞を患い状況が一変した。その後約10年は田舎と東京を行き来する現在の生活パターンが定着した。
もう一つ生活パターンを一変させたのは個人投資だった。退職金と相続資産の有効活用の為に投資を始めた。最初は好景気に恵まれ順調だったが、リーマンショックに見舞われ事態は一転した。それ以降は証券会社の言いなりにならず自ら海外情報の取集に努め、自己判断で売買を行い幸運にも危機を乗り越えることが出来た。
私が身に付けたのはマクロ政治経済重視の自己流投資スタイルだった。お蔭で日の半分は新聞・ネット・書籍等で政治経済を調査勉強する習慣がついた。子供の頃から躾けられた節約の習慣が役に立ち、無理せず自然体で無駄なお金は使わず1円でもケチって投資し儲けたお金を家族の為に使った。家族がバラバラにならないよう食事会や家族旅行等の機会作りに努めた。私自身の為にはお金のかからない遊びに徹した。
「第2の人生」は私にとっては父より長生きする謂わば「付録の人生」だと思ったが、まさか70まで生きるとは思ってなかった。終わってみて家族の為に生きたこの15年間は凄く良かった。仕事の成果を出すため(自分の為が大半)必死で働き生きた「第1の人生」に比べて決して悪くはなかった。そして気が付いたら次の人生が始まりそうだ。
「第3の人生」は運が良ければ後10年、80まで生きるのではないだろうか。我が家の家系を辿ると80まで生きた男はいない。残りの10年は健康寿命を全うしなるべく他人の世話にならないことだ。こういう言い方は不遜で失礼だが、認知症を患って周りの人達の手を煩わせたのでは生きているのが辛い。少なくともそう思って頑張りたい。では、どうすべきか、じっくり考えてみたい。
最後に、家族は私が自分のことばかりやる身勝手な夫であり父親と思ってる節がある。私が自分を犠牲にして家族のことの為に生きて来たとは思ってない可能性がある。私が酒もギャンブルもやらず、粗食でも平気な生活をしても、単に吝嗇だと思ってる。生活は楽しまなきゃと。社会や私が作り出している生活環境が当たり前と思えば私の人生は評価に値しないということになる。だが、それも人生だ。文句言うつもりはない。■
家内の発案で母の傘寿(80)のお祝いを10年前田舎でやったのを思い出す。母は米寿(88)をお祝いできるまで生きたが、本人が認識して喜んでくれた最後のお祝いという意味では正しかった。ということは私も古希をやっとかないと喜寿(77)はヤバイということかもしれない。多分そうだろう。ま、いいか。
この15年間は私の「第2の人生」と位置付ける。父の死んだ年になったのを契機に2003年に早期退職し、新しい人生が始まった。その間に子供達が教育を終え、上の2人は就職・結婚を機に家を出て孫が生み立派な家族を設けた。私は母の介護をやりきり最後を見送り実家の主になった。加えて、末の息子と家内の為に東京の自宅を建て直した。家族の為にやれることは全てやった感がある。
最初の計画とは違ったが、私自身も完璧とはいかないがやれることはやった。退職直後は都会・田舎・海外を4か月ずつ順番に住みたいと考え、海外のロングステー候補地を家内と旅行したが途中計画断念した。その後、都の嘱託になり中小企業の経営コンサル、ボランティアで市のIT教育支援をしたが、母が脳梗塞を患い状況が一変した。その後約10年は田舎と東京を行き来する現在の生活パターンが定着した。
もう一つ生活パターンを一変させたのは個人投資だった。退職金と相続資産の有効活用の為に投資を始めた。最初は好景気に恵まれ順調だったが、リーマンショックに見舞われ事態は一転した。それ以降は証券会社の言いなりにならず自ら海外情報の取集に努め、自己判断で売買を行い幸運にも危機を乗り越えることが出来た。
私が身に付けたのはマクロ政治経済重視の自己流投資スタイルだった。お蔭で日の半分は新聞・ネット・書籍等で政治経済を調査勉強する習慣がついた。子供の頃から躾けられた節約の習慣が役に立ち、無理せず自然体で無駄なお金は使わず1円でもケチって投資し儲けたお金を家族の為に使った。家族がバラバラにならないよう食事会や家族旅行等の機会作りに努めた。私自身の為にはお金のかからない遊びに徹した。
「第2の人生」は私にとっては父より長生きする謂わば「付録の人生」だと思ったが、まさか70まで生きるとは思ってなかった。終わってみて家族の為に生きたこの15年間は凄く良かった。仕事の成果を出すため(自分の為が大半)必死で働き生きた「第1の人生」に比べて決して悪くはなかった。そして気が付いたら次の人生が始まりそうだ。
「第3の人生」は運が良ければ後10年、80まで生きるのではないだろうか。我が家の家系を辿ると80まで生きた男はいない。残りの10年は健康寿命を全うしなるべく他人の世話にならないことだ。こういう言い方は不遜で失礼だが、認知症を患って周りの人達の手を煩わせたのでは生きているのが辛い。少なくともそう思って頑張りたい。では、どうすべきか、じっくり考えてみたい。
最後に、家族は私が自分のことばかりやる身勝手な夫であり父親と思ってる節がある。私が自分を犠牲にして家族のことの為に生きて来たとは思ってない可能性がある。私が酒もギャンブルもやらず、粗食でも平気な生活をしても、単に吝嗇だと思ってる。生活は楽しまなきゃと。社会や私が作り出している生活環境が当たり前と思えば私の人生は評価に値しないということになる。だが、それも人生だ。文句言うつもりはない。■
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