▼何をもって保守というのか分からなくなっている。最後に拠り所にすべきは天皇陛下ではないだろうか。なぜ三島由紀夫が自決寸前に「天皇陛下万歳」を叫ばなくてはならなかったか。東大全共闘との討論会でも、その点で一致すれば共闘するとまでなぜ口にしたのか。日本が日本であり続けるためには、守るべき価値として天皇陛下の存在が不可欠なのである。吉本隆明も三島の死を論じたなかで「残念なことに、天皇制の不可解な存在の仕方を無化し、こういうものに価値をおくことが、どんなに愚かしいことかを、充分に説得しうるだけの確定的な根拠を、たれも解明しつくしてはいない」と書いた。▼橋川文三だって三島との論争に勝ったかのような扱い方をされているが、そうであれば晩年の彼の哀れな姿はどう説明するのだろう。戦後民主主義の虚妄に賭けるという丸山真男と、橋川が同列であったはずはない。日本がこれから危機に直面すれば、やっぱり人々は天皇の名のもとに結束するのではないか。それが三島のいうように文化的かどうかは分からないが、日本人が先祖にすまないと思うのは、祖国が蹂躙され平和が破られるときであり、そこでは自民党のためでもなく財界のためでもなく、日々私たち日本人の先祖の霊に祈りを捧げておられる、天皇陛下のためなのである。▼三島が異常な人間であったのではない。死んでみせることで、予言者として日本人の魂に訴えたのである。外敵に備えるには天皇陛下しかおられないことを。政治家がその原点を見失っているのであれば、名もなき者たちがそのことを訴えるしかないのである。
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