聖典は土津霊神碑文なり白虎の死は崇高なりし 笠井尚
今回の『白虎隊探究』は、あくまでも思想的なアプローチであったために、少しばかり難解になったようです。しかし、言わんとしたことは単純明瞭です。会津藩の教学はそれに先行した会津の精神風土があったからであり、会津松平藩の祖であった保科正之公や朱子学者の山崎闇斎の力だけではなく、その受け皿としての、会津の学問のレベルの高さを強調したかったからです。
そこで注目をしたのが、葦名の重臣山内氏の流れをくむ横田俊益の存在でした。父親が近江から会津にやってきて成功した商人の家に養子に入り、その子どもとして若松城下で生まれました。
俊益は優秀であったために、加藤明成公の側近となって仕えました。しかし、殿様が会津を離れることになったために、仕官の道をあきらめて、学問を究めるために江戸に遊学をしました。中途になったのは、自分に代わって家督を継いでくれた弟が死んだからです。このため急きょ会津に戻り、一般の人たちを集めて学問の場を作り、それが後に稽古堂となったのでした。
校長は肥前生まれの岡田如黙が務め、会津藩家老までもが話を聞きに来ました。その俊益が会津にいたことで、闇斎の朱子学を広めることができたのでした。
さらに、保科正之公の時代には、会津の庶民レベルでは藤樹学が広まっていました。近江聖人と呼ばれた中江藤樹が打ちたてた学問で、その当時は高弟であった淵岡山が京都で教えていました。そこに荒井、大河原という若松の医師が出かけて行って学び、それが喜多方地方を中心にして、一時は千名を超える門弟を確保するにいたったのです。
如黙自体も藤樹学の感化を受けたために、会津藩の教学も根本においてはそれを無視することはできませんでした。如黙は喜多方市の真木に流されそこで一生を終ることになりますが、藤樹学が弾圧された期間は長くはありませんでした。
朱子学は身を修めることが国を治めることであり、徹底した精神性に結びついています。藤樹学おいても、誰しもに良知があるといわれ、それを自覚することを求めています。目先の利益ではなく、もっと根本的なものを大事にしたのです。
また、いずれも儒教に属し、魂と魄を呼び寄せることが先祖を祀ることでありました。このため、仏教とは違って、死者を荼毘にふすことは許されませんでした。共通点が大きかったのです。
藤樹学の北方後の三子といわれた中野義都が、一方では会津藩教学の中興の大家と評されたのでした。共通したベースがあったからです。正之公の功績を讃えた闇斎の「土津霊神碑文」の解釈文を残し、「予、幼より霊神碑文を読むことここに四十余年、初は文字を読んでこれを喜び、中ごろはその成功の美を識ってこれを喜び、終にはその徳の広大なるを識ってこれを喜び、これを読むこといよいよ久うして意味の深長なるを覚えた」と記述しています。
『白虎隊探究』ではその解釈文も掲載しています。昭和になって郷土史家の相田泰三も一部手を加えていますが、ほとんどは中野の手になるといわれています。
それを何度も読み返すことが会津の精神風土を理解することにもなると思います。朱子学や藤樹学を詳しく知らなくても、まずは「土津霊神碑文」なのです。ぜひ本を購入いただいて「意味の深長なるを覚えた」という境地になってもらえればと願ってやみません。
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