先月、友人が40代半ばで他界しました。
事件性がない、事故死であったため、遺族は悔やまれるかもしれません。
単独で登山途中に崖から滑落したことが原因で死亡したのです。
平均寿命あたりで死ぬならば、多くの人は「大往生した」と言い、悲嘆に暮れることはありません。
しかし、無神論の国日本では、平均寿命以下の年齢で死亡すると「死は不幸な出来事」として、悲しい出来事になってしまいます。
皆さんは、人生の最期をどのように迎えたいですか?
そして、どのように生きれば「悔いのない人生を生きられた」と感じられると思いますか?
死亡した友人は、警察で働いており、比較的善良に生きていました。生前は仲が良く、お互いの実家にも泊りに行ったり、互いの結婚式にも招待しあう間柄でした。
正義感が強く、妥協しない性格であったため、周囲からも一目置かれる存在でもあり、同期の中では出世頭と呼ばれていました。
警察官の同期生と久しぶりにあい、話も募るなか、告別式が始まりました。
告別式で着席すると、偶々私の隣の椅子に誰も座る事なく、式が始まりました。
司会の方が、手慣れていながらも、神妙な表情で式進行の概要を説明し、説明が終わった頃に、お坊さんがやってきました。
そのとき、喉が締め付けられる感触がしたため、「喉が締め付けられています。苦しいので取り除いてください」と神様にお祈りしました。お坊さんのお経が始まり、息苦しさも続いていましたが、数分経過すると、空いている誰も座っていない隣の席に誰かが座ってくる感覚がありました。
式中に、お経やナレーションが続く中、お祈りしながら、目を開けてみても、誰もいません。
しかし、誰かが座ったような気がしました。
引き続き、お祈りをしていると、喉の苦しみがなくなってきました。
そして、「Aくん、生きている間に、神様のことを伝道できなくて申し訳なかった」
「どうか、神様に出会うことなく死んだ友人が、ラプトさんの御言葉に出会えますように」
という気持ちを神様に必死に祈りました。
会場は御経がピークになり、関係者や親族がむせび泣く声が響き渡っていましたが、私の周囲が明るくなる感覚がして、「感謝の気持ち」が溢れてきました。
そして、「私の隣の席にA君がいる」という事が分かったのです。私は心の中で話しかけてみましたが、最初は返事はありませんでした。
しかし「今は、特に困ってないよ」という感覚が伝わって来たのです。私は驚いて式中に、思わず笑顔になってしまいました。
「死んでしまうと、仕事や家族に対しての未練が無くなるんだい」A君の霊から感覚的に伝わってきました。
しかし、そのあとは「何もやることがない」という、「毎日が日曜日状態になってしまうのではないかもね」と感じたのです。
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「#毎日が日曜日」と聞いて思い浮かんだのが、精神科病院に長期入院している人達や療養病棟で寝たきりにで生活している人達です。
特に若くして、精神科病院に入院させられ、長期間生活している人達は、いわば不治の病を患う、「精神病患者」という肩書を持っていながら、「精神障害者」という肩書も持ちます。
「精神症状が悪化しないように」という理由だけで、3食昼寝付きの「毎日が日曜日」の生活を国から保障されているようなもものです。
一見、「働かずに食っちゃ寝して過ごせる環境」はストレスフリーで幸せそうに思えるかもしれません。
しかし、実際はストレスだらけで精神病院を中心とした病院や医療機関ばかりで事件が起こっています。
ペイハラやカスハラが起こっているのです。
また、スタッフから患者への虐待も連日報道されています。
人間にとって、これほど苦痛で不幸なことはありません。
車も走らなければ金属部品やエンジンが錆びて劣化していき、ついにはまともに走れなくなります。
神様に出会えず、霊を育てることができなかった人は、死後の世界は、「毎日が日曜日状態」になってしまいます。
そして死後の世界、霊界は波長が似た者同士が集まるので、周りにも「毎日が日曜日状態の人たち」の環境で生活するようになるかもしれないと思えました。
この状態が終わりなく、永遠に続くとしたら皆さんはどう思いますか?
辛いですよね。
そうならないために、人生最期の日に、納得してこの世を去ることができるように生きていかなくてはならないと思います。
そして死後の世界でも幸せに生活できるように、準備しておかなくてはなりません。
死後の世界が不安な人たちが今から、万全の準備ができるように、ラプトブログを読んで実践してもらいたいと心から願います。
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