私がLPSA金曜サロンに通い始めてから、2年3ヶ月あまりが経った。お陰さまでその間に、わずかながら我が棋力が向上したことを自覚する。
しかし女流棋士に将棋を教えていただくのは週1回だけだし、別に将棋専門誌や新聞の観戦記を読んではいるが、ここ数年は手の解説や講座はほとんど読まず、エッセイやコラムなど、文章の類をナナメ読みするのが主になっている。
パソコンに「東大将棋8」はインストールしているが、起動するとパソコンがフリーズするので、最近はまったく使っていない。ネットでの将棋も一切指さない。
とするならば、この棋力の向上はおかしい。現在が香一本強くなった感じ、とするならば、この程度の将棋の勉強なら、歩1枚くらいの棋力の向上でなければおかしいのだ。
むろんLPSA女流棋士の指導は卓越しているし、その賜物である、と言われればそれまでなのだが、それでも私には若干の乖離があるのだ。
そこで私は、大胆な仮説を立ててみる。すなわち、「自身が仕事中に、あらぬ妄想をしていることが棋力向上の一助になっているのではないか」ということだ。
一般的に人間の脳は、左脳が言語中枢を司り、右脳が音楽や芸術などの感覚分野を司るとされている。プロ棋士は将棋の手を考えているときに、手順を「イメージ」として捉えているのか、右脳が活発に動くそうである。ちなみにアマ強豪だと、右脳ではなく、左脳が活発に動くと読んだことがある。
話を戻して、私が某女流棋士とナニしてナニした、と妄想してみる。私の仕事は何も考える必要のない単調なものなので、手は動いていても、頭の中はわりと自由なのだ。だからいくらでも妄想は続く。そのあとこうなってこうなって…とさらに妄想は膨らむ。い…いいカンジである。
これ、すべて頭の中ではイメージとして映っているから、上の定義に則れば、右脳が活発に動いていることになる。
さらに妄想は続く。某女流棋士と私がイチャイチャしていると、突然棋友が乱入したりする。この展開も考えなければならぬ。将棋でも、思わぬところから反撃されることがある。その対処を考えなければならぬ。どう指すべきか。いや、どう妄想すべきか。
私はイメージを膨らませ、危機を乗り切る。なんとか棋友を撃退したあとは、某女流棋士としっぽり…と、妄想はとどまるところを知らない。
と、ここまで書けば、賢明な読者はもうお気づきだろうが、妄想の過程が将棋の読みと同じ構造になっているのではなかろうか。
すなわち、某女流棋士とのデートを妄想したときの「手順」を、将棋の指し手に置き換えれば、ふだんから読みの訓練を自然に行っていることにはなると思うのだ。
むろん「左脳=言語中枢、右脳=感覚」の定義には疑問を呈する人もいるし、私はその筋の専門家ではないから、脳の話に深入りはしないが、数々の女流棋士を頭に浮かべ、いろいろなシチュエーションを考えることが、脳を活性化させ、結果的に将棋の勉強に繋がっていたのだとしたら、「予想以上の棋力向上」の説明がつくような気がするのである。
そうだ、これでいいのだ。これからも私は、堂々と妄想を続けていこうと思う。
しかし女流棋士に将棋を教えていただくのは週1回だけだし、別に将棋専門誌や新聞の観戦記を読んではいるが、ここ数年は手の解説や講座はほとんど読まず、エッセイやコラムなど、文章の類をナナメ読みするのが主になっている。
パソコンに「東大将棋8」はインストールしているが、起動するとパソコンがフリーズするので、最近はまったく使っていない。ネットでの将棋も一切指さない。
とするならば、この棋力の向上はおかしい。現在が香一本強くなった感じ、とするならば、この程度の将棋の勉強なら、歩1枚くらいの棋力の向上でなければおかしいのだ。
むろんLPSA女流棋士の指導は卓越しているし、その賜物である、と言われればそれまでなのだが、それでも私には若干の乖離があるのだ。
そこで私は、大胆な仮説を立ててみる。すなわち、「自身が仕事中に、あらぬ妄想をしていることが棋力向上の一助になっているのではないか」ということだ。
一般的に人間の脳は、左脳が言語中枢を司り、右脳が音楽や芸術などの感覚分野を司るとされている。プロ棋士は将棋の手を考えているときに、手順を「イメージ」として捉えているのか、右脳が活発に動くそうである。ちなみにアマ強豪だと、右脳ではなく、左脳が活発に動くと読んだことがある。
話を戻して、私が某女流棋士とナニしてナニした、と妄想してみる。私の仕事は何も考える必要のない単調なものなので、手は動いていても、頭の中はわりと自由なのだ。だからいくらでも妄想は続く。そのあとこうなってこうなって…とさらに妄想は膨らむ。い…いいカンジである。
これ、すべて頭の中ではイメージとして映っているから、上の定義に則れば、右脳が活発に動いていることになる。
さらに妄想は続く。某女流棋士と私がイチャイチャしていると、突然棋友が乱入したりする。この展開も考えなければならぬ。将棋でも、思わぬところから反撃されることがある。その対処を考えなければならぬ。どう指すべきか。いや、どう妄想すべきか。
私はイメージを膨らませ、危機を乗り切る。なんとか棋友を撃退したあとは、某女流棋士としっぽり…と、妄想はとどまるところを知らない。
と、ここまで書けば、賢明な読者はもうお気づきだろうが、妄想の過程が将棋の読みと同じ構造になっているのではなかろうか。
すなわち、某女流棋士とのデートを妄想したときの「手順」を、将棋の指し手に置き換えれば、ふだんから読みの訓練を自然に行っていることにはなると思うのだ。
むろん「左脳=言語中枢、右脳=感覚」の定義には疑問を呈する人もいるし、私はその筋の専門家ではないから、脳の話に深入りはしないが、数々の女流棋士を頭に浮かべ、いろいろなシチュエーションを考えることが、脳を活性化させ、結果的に将棋の勉強に繋がっていたのだとしたら、「予想以上の棋力向上」の説明がつくような気がするのである。
そうだ、これでいいのだ。これからも私は、堂々と妄想を続けていこうと思う。