この後は3時半から懇親会である。スタッフの誰かが、「このまま帰る人は、近くで芋煮会をやっているので、それを食べていってください」と言った。湯川恵子さんが来て私に芋煮を勧めてくれたが、私は懇親会に参加するのだ。でも本当に、帰っちゃおうかと思った。
湯川博士氏が来る。
「あれっ? 大沢君、キミ、ここで寄席があることをどこで知ったの?」
「は? 先生、先生からお知らせをいただいたんですが」
「ああそうだったそうだった」
どうも私は、まだ正確に認知されていないらしい。「いやほかの会員から出席の連絡が来ないから、どうなることかと思ったよ」
この落語会は、事前の連絡が必要だったのか? 知らなかった。
懇親会は隣の部屋に席が設けてある。将棋ペンクラブ会員の島があり、私はそこに案内された。しかし、知己がいないのは前述の通りである。
それでも50人以上は集まっただろうか。開会まで時間があるので、周りの人と何となくしゃべる。同じペンクラブ会員でも温度差があって、会員だけど湯川氏の編集後記しか読まない、という人もいた。
まずは寺本俊篤住職の挨拶。お寺で落語は珍しい試みだったが、成功に終わってよかった、という感じだった。
続いて乾杯となる。私の向かいにはいつの間にか湯川氏が座っていた。乾杯の音頭は地元の人だったが、ちょっと話が長い。
将棋ペンクラブでも、大賞贈呈式でみんなにグラスを持たせたまま長々としゃべる手合いがあるが、乾杯の挨拶は一言でいいと心得てほしい。
私たちの前にはつまみが並んでいるが、この庭で取れた銀杏が数個串に刺さっている。これを一粒食せば寿命が10年延びるという。
酒が入ればみんな席を移動する。ちなみに私は不動を貫くほうである。木村晋介会長が一升瓶を持って私の前に来た。
「この酒が美味いんだよ」
とついでくれて、恐縮である。ちなみに私は、ヒトに酒をつぐことができない性分である。
木村会長には4年半前、湯川氏を通じて、矢内理絵子女流五段の指導対局+桂扇生の独演会に招ばれたことがある。だがあの時は軽く挨拶をしただけで、とくに話はしなかった。
ヒラの会員と会長の関係はそのくらいのモノである。同じ理屈で、私のようなアマ棋客が棋士と話す、というのも、本来はもってのほかだと思う。住む世界が違う。
「先生今日は素晴らしい噺でした。私も思わず笑いました」
「そうかいありがとう」
「噺の途中で何回か爆笑があったでしょう。それほどおもしろかったということです」
「客の笑いは分かるからねえ。ああここでウケるのか、と思ったりした」
「今回の噺は先生が自ら選ばれて?」
「『片棒』は湯川さんのリクエストだった」
「和光市の長照寺とか浅草今半とか現実のモノが出てきて、あの脚色が素晴らしかったです」
「あれは行きの電車の中で、ここにあれを入れようとかこれを入れようとか考えてね、ウケてよかったね」
木村会長も満足そうである。
「先生、先生のご著書に、推理小説の不備を見つけて指摘するのがありましたよねえ。あれは笑いました」
「『キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る』だね。あれは題材にしている小説を実際に読んでいる人のほうが笑えるんだよ」
「……」
私は図書館から借りて軽く読んだだけで、批評されている小説もほとんど読んでいなかった。しかも借りたのがずいぶん前で、記憶が風化してしまっている。私は余計なことを言ったかと後悔した。「先生、でも松本清張のような大御所は批評されませんでしたよねえ」
「したけど…読んでない?」
「ヒッ…」
「ああ、松本清張は2作目だったかな。『キムラ弁護士、小説と闘う』ね、こっちでやったかもしれない」
2作目があったのか。どうもさっきから微妙に会話が噛みあわず、私は会長本の未読がバレそうでヒヤヒヤしている。
「先生お好きな作家はどなたですか」
「宮部みゆきはよく読むね」
「ああ、あの方は江戸の推理物も書いてますしね」
その後木村会長は高村薫「マークスの山」の序盤の不備などを熱っぽく語ってくれたが、私は相槌を打つので精一杯だった。木村会長も、話し甲斐のないヤツだなあ、と訝ったことであろう。
閉会は5時だが、その前にみんなそろそろと帰り始める。私も中座することにした。
美馬和夫氏の姿があったが、知己ではないので挨拶しなかった。
表へ出ると門の前に湯川恵子さんがいて、再び芋煮を勧められた。それは向かいの敷地でやっていた。
ここまでけっこうつまんだから腹も一杯なのだが、タダだからついいただいてしまう。芋煮は大鍋で煮られていて、お椀に大盛りでくれた。
味はサッパリしていて、美味い。汁を全部飲んでも塩分摂取過多にはならないだろう。
近くに大きな柿の木があるので愛でていると、オジサンがやってきた。話のスジから、この柿の木の持ち主らしかった。
ウチにも桃の木があるんです、と私は言って話も弾み、意外と楽しい懇親会となった。
というわけで、大いちょう寄席も終了。平日の開催なら私はもう参加できないが、地元密着のイベントなので、これからも継続するだろう。
ただ将棋ペンクラブ会員としては、年末の風物詩だった「将棋寄席」を、復活してもらいたいと思った。
帰りは駅まで徒歩、電車は東武東上線を利用した。
湯川博士氏が来る。
「あれっ? 大沢君、キミ、ここで寄席があることをどこで知ったの?」
「は? 先生、先生からお知らせをいただいたんですが」
「ああそうだったそうだった」
どうも私は、まだ正確に認知されていないらしい。「いやほかの会員から出席の連絡が来ないから、どうなることかと思ったよ」
この落語会は、事前の連絡が必要だったのか? 知らなかった。
懇親会は隣の部屋に席が設けてある。将棋ペンクラブ会員の島があり、私はそこに案内された。しかし、知己がいないのは前述の通りである。
それでも50人以上は集まっただろうか。開会まで時間があるので、周りの人と何となくしゃべる。同じペンクラブ会員でも温度差があって、会員だけど湯川氏の編集後記しか読まない、という人もいた。
まずは寺本俊篤住職の挨拶。お寺で落語は珍しい試みだったが、成功に終わってよかった、という感じだった。
続いて乾杯となる。私の向かいにはいつの間にか湯川氏が座っていた。乾杯の音頭は地元の人だったが、ちょっと話が長い。
将棋ペンクラブでも、大賞贈呈式でみんなにグラスを持たせたまま長々としゃべる手合いがあるが、乾杯の挨拶は一言でいいと心得てほしい。
私たちの前にはつまみが並んでいるが、この庭で取れた銀杏が数個串に刺さっている。これを一粒食せば寿命が10年延びるという。
酒が入ればみんな席を移動する。ちなみに私は不動を貫くほうである。木村晋介会長が一升瓶を持って私の前に来た。
「この酒が美味いんだよ」
とついでくれて、恐縮である。ちなみに私は、ヒトに酒をつぐことができない性分である。
木村会長には4年半前、湯川氏を通じて、矢内理絵子女流五段の指導対局+桂扇生の独演会に招ばれたことがある。だがあの時は軽く挨拶をしただけで、とくに話はしなかった。
ヒラの会員と会長の関係はそのくらいのモノである。同じ理屈で、私のようなアマ棋客が棋士と話す、というのも、本来はもってのほかだと思う。住む世界が違う。
「先生今日は素晴らしい噺でした。私も思わず笑いました」
「そうかいありがとう」
「噺の途中で何回か爆笑があったでしょう。それほどおもしろかったということです」
「客の笑いは分かるからねえ。ああここでウケるのか、と思ったりした」
「今回の噺は先生が自ら選ばれて?」
「『片棒』は湯川さんのリクエストだった」
「和光市の長照寺とか浅草今半とか現実のモノが出てきて、あの脚色が素晴らしかったです」
「あれは行きの電車の中で、ここにあれを入れようとかこれを入れようとか考えてね、ウケてよかったね」
木村会長も満足そうである。
「先生、先生のご著書に、推理小説の不備を見つけて指摘するのがありましたよねえ。あれは笑いました」
「『キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る』だね。あれは題材にしている小説を実際に読んでいる人のほうが笑えるんだよ」
「……」
私は図書館から借りて軽く読んだだけで、批評されている小説もほとんど読んでいなかった。しかも借りたのがずいぶん前で、記憶が風化してしまっている。私は余計なことを言ったかと後悔した。「先生、でも松本清張のような大御所は批評されませんでしたよねえ」
「したけど…読んでない?」
「ヒッ…」
「ああ、松本清張は2作目だったかな。『キムラ弁護士、小説と闘う』ね、こっちでやったかもしれない」
2作目があったのか。どうもさっきから微妙に会話が噛みあわず、私は会長本の未読がバレそうでヒヤヒヤしている。
「先生お好きな作家はどなたですか」
「宮部みゆきはよく読むね」
「ああ、あの方は江戸の推理物も書いてますしね」
その後木村会長は高村薫「マークスの山」の序盤の不備などを熱っぽく語ってくれたが、私は相槌を打つので精一杯だった。木村会長も、話し甲斐のないヤツだなあ、と訝ったことであろう。
閉会は5時だが、その前にみんなそろそろと帰り始める。私も中座することにした。
美馬和夫氏の姿があったが、知己ではないので挨拶しなかった。
表へ出ると門の前に湯川恵子さんがいて、再び芋煮を勧められた。それは向かいの敷地でやっていた。
ここまでけっこうつまんだから腹も一杯なのだが、タダだからついいただいてしまう。芋煮は大鍋で煮られていて、お椀に大盛りでくれた。
味はサッパリしていて、美味い。汁を全部飲んでも塩分摂取過多にはならないだろう。
近くに大きな柿の木があるので愛でていると、オジサンがやってきた。話のスジから、この柿の木の持ち主らしかった。
ウチにも桃の木があるんです、と私は言って話も弾み、意外と楽しい懇親会となった。
というわけで、大いちょう寄席も終了。平日の開催なら私はもう参加できないが、地元密着のイベントなので、これからも継続するだろう。
ただ将棋ペンクラブ会員としては、年末の風物詩だった「将棋寄席」を、復活してもらいたいと思った。
帰りは駅まで徒歩、電車は東武東上線を利用した。