「大内先生の記録係をやって、大内先生が『お茶』と言うんだよねえ。すぐ出さないと怒られてね」
と鈴木大介九段。「解説会の時でも、大盤で変化を並べて、元の局面に戻らないと怒られた。厳しい人でした」
「私も、歩の数だけ頭に入れていました」
と、これは藤森哲也五段である。ただこれらはあくまでも師弟愛であって、大内延介九段の厳しさの中に温かさを感じ、私たちは微笑ましく思うのである。
さて局面はどうなのか。「あ、分かった」と鈴木九段。
「△6二金ですかね。
ここで△3九馬は攻めの手なんだけど、馬の筋が守りから外れるんですね。いずれにしても熱戦ですね。
ウン、これは△6二金ですね、これだけ考えているということは。先手からしたら、もう△6二金の一本釣りで、その応手を20分くらい考えますよ。持ち時間が30分を切ったら、相手の手を予測するということも大事なんです」
双方、かなり持ち時間を使っているようだ。名人戦でこの時間になってもまだ優劣不明というのは珍しく、時刻はあと10分足らずで午後8時だ。私は9時までには帰宅できると踏み、刑事ドラマの予約録画をしてこなかったのだが、それが悪手になるとは思わなかった。
「名人が△3九馬から読んで、それは後手が難しいから、△6二金を読むのがアマヒコ流なんです。それで相手が△6二金を指したら、その手は読んでましたよと、次の手を余裕で指す。それが勝負の呼吸です。持ち時間が10分切ると心拍数が上がってくるからね、早く指さないといけない。
……だけど△6二金はいい手ですよね。もう、当たる気しかしない。私は△6二金という手で勝ってきた。これが『昭和の手』なんです」
鈴木九段は△6二金に、妙に自信を深めている。
しかし豊島将之二冠は容易に指さない。鈴木九段は、佐藤大五郎九段の話を始めた。
「藤森君は佐藤大五郎先生知ってる?」
「いえ、知らないです」
ええっ!? 藤森五段の代で、もう佐藤大五郎九段を知らないのか……!?
こりゃ私も、歳を取るわけである。「いえもちろん、お話では知っていますけど」
「うん、マキ割り大五郎だよね。大五郎先生は面白くてね、先生ちょっと目が悪かったんですけど、ある将棋の終盤で勝ちになった。金を打てば詰み、銀を打てば不詰みなんですけど、大五郎先生、駒台から銀を持って、対局相手に『キミ、この駒は金カニ? 銀カニ?』って聞くんですよ。ヒトが悪いよねえ」
鈴木九段がゲラゲラ笑いながら言う。「先生と対局した時もね、先生、6九に玉を置くんですよ。こっちもしょうがないから5一に玉を置くじゃないですか。すると先生は、7九金、8九銀、9九桂と置いていくわけです。だけど香車が置けない。そしたら『あれ? 香車を置くところはどこカニー?』だもんね」
私たちもゲラゲラ笑う。何だか鈴木九段の独演会みたいになってきた。
「そういえば、お昼休みにコーヒーを飲みに行って延々と帰ってこない棋士がいた、と聞いたこともあります」
「昔はよかったよねえ」
と、鈴木九段が遠くを見る。現在の棋士は、対局中はカゴのトリだ。別に同情はしないけれど、過ごしにくい環境になったとは思う。
「昔は、午前中はゆったりしていたよね。だけど今は一手一手が厳しいから、午前中からピリピリしてる。
今の若手は、終盤で悪くなっても諦めないよね。私が勝勢になっても相手が投げないから、ちょっと緩い手を指してやると、そのまま逆転されちゃうんだよね。こっちがからかってんの気付かないんだよね。
さて△6二金だけど、コンピューターは指摘してないの?」
「△6二金は候補手に上がってないですね」
藤森五段が散文的に答えた。
「ない! AIにはない!
……うーん、私も今は最高速度が110キロなんで、昔は140キロをガンガン出してたんだけど、今はストレートを投げてもフツーに落ちるナチュラルフォークしかないんで、ここは△6二金という手しかないんですね。
現在駒の損得を見ると、飛車と銀桂の2枚換え。そして先手は遊び駒がまったくない。後手は△3二金、△2一桂あたりの働きが弱い。それ考えると先手が圧倒的にいいが、▲8八銀の形がひどいんです。それで形勢が分からない」
時刻は午後8時になった。この会場を使えるのは午後9時までだという。しかし1時間で決着がつくのだろうか。
「△3九馬と指せば、いいも悪いも結着がつきます。だけどこれ、豊島さんがつんのめると負けるでしょ。攻めの反動がキツすぎて。
……藤森君ならどう指す?」
「私は△3九馬ですね」
豊島二冠の考慮は30分を越えた。「30分考えても指せないということはどうなんでしょう」と、藤森奈津子女流四段。
「勝負の分かれ目は7七の地点に何がくるかということですね。三段リーグなら、▲7七銀かもしれません。だけどこれもね、将来△9九銀とかあるんですよ。▲8八銀~▲9九銀とかでタダ取りしても、9九に自分の駒が邪魔駒として残っちゃう」
そこに指し手が伝えられた。△6二玉!!(第9図)
会場がざわめいた。
「△6二玉か! 惜しかったな、狙いは同じだったが」
「でも△6二玉と△6二金は違いますよね」
「うーん……」
早速△6二玉での変化を並べる。
「▲7五桂の他には、▲7三歩がありますか。△7三同玉▲6五桂△7二玉▲7三歩△8三玉に▲7二銀。ここで中盤なら、飛車を助ける△9二玉、終盤なら△9三玉です。
……でも△6二玉は惜しいんだよ、(考え方としては)タッチの差」
鈴木九段は△6二金にまだ未練があるようだ。
後手は△2九馬が盤上からなくなると、▲3九金で飛車を詰ます変化もある。
「これは、飛車を詰ましてよろこぶ永瀬流になります。
……いろいろ変化がありますが、この時△9四歩が大事だということが分かります。△9三玉で、容易に詰まないもんね。これが△9四玉しかないと、相当危うい」
「先生は△9三玉の位置が好きですもんね」
「うん、序盤の忙しい時に、なぜ△9四歩と一手かけるか。それはそれなりの価値があるからなんです」
なるほど、と思う。「いずれにしても、△6二金ないし△6二玉は、勝てば勝着になるでしょうね」
鈴木九段が、そう予想する。でも何となく、その予想は外れるような気がした。
(つづく)
と鈴木大介九段。「解説会の時でも、大盤で変化を並べて、元の局面に戻らないと怒られた。厳しい人でした」
「私も、歩の数だけ頭に入れていました」
と、これは藤森哲也五段である。ただこれらはあくまでも師弟愛であって、大内延介九段の厳しさの中に温かさを感じ、私たちは微笑ましく思うのである。
さて局面はどうなのか。「あ、分かった」と鈴木九段。
「△6二金ですかね。
ここで△3九馬は攻めの手なんだけど、馬の筋が守りから外れるんですね。いずれにしても熱戦ですね。
ウン、これは△6二金ですね、これだけ考えているということは。先手からしたら、もう△6二金の一本釣りで、その応手を20分くらい考えますよ。持ち時間が30分を切ったら、相手の手を予測するということも大事なんです」
双方、かなり持ち時間を使っているようだ。名人戦でこの時間になってもまだ優劣不明というのは珍しく、時刻はあと10分足らずで午後8時だ。私は9時までには帰宅できると踏み、刑事ドラマの予約録画をしてこなかったのだが、それが悪手になるとは思わなかった。
「名人が△3九馬から読んで、それは後手が難しいから、△6二金を読むのがアマヒコ流なんです。それで相手が△6二金を指したら、その手は読んでましたよと、次の手を余裕で指す。それが勝負の呼吸です。持ち時間が10分切ると心拍数が上がってくるからね、早く指さないといけない。
……だけど△6二金はいい手ですよね。もう、当たる気しかしない。私は△6二金という手で勝ってきた。これが『昭和の手』なんです」
鈴木九段は△6二金に、妙に自信を深めている。
しかし豊島将之二冠は容易に指さない。鈴木九段は、佐藤大五郎九段の話を始めた。
「藤森君は佐藤大五郎先生知ってる?」
「いえ、知らないです」
ええっ!? 藤森五段の代で、もう佐藤大五郎九段を知らないのか……!?
こりゃ私も、歳を取るわけである。「いえもちろん、お話では知っていますけど」
「うん、マキ割り大五郎だよね。大五郎先生は面白くてね、先生ちょっと目が悪かったんですけど、ある将棋の終盤で勝ちになった。金を打てば詰み、銀を打てば不詰みなんですけど、大五郎先生、駒台から銀を持って、対局相手に『キミ、この駒は金カニ? 銀カニ?』って聞くんですよ。ヒトが悪いよねえ」
鈴木九段がゲラゲラ笑いながら言う。「先生と対局した時もね、先生、6九に玉を置くんですよ。こっちもしょうがないから5一に玉を置くじゃないですか。すると先生は、7九金、8九銀、9九桂と置いていくわけです。だけど香車が置けない。そしたら『あれ? 香車を置くところはどこカニー?』だもんね」
私たちもゲラゲラ笑う。何だか鈴木九段の独演会みたいになってきた。
「そういえば、お昼休みにコーヒーを飲みに行って延々と帰ってこない棋士がいた、と聞いたこともあります」
「昔はよかったよねえ」
と、鈴木九段が遠くを見る。現在の棋士は、対局中はカゴのトリだ。別に同情はしないけれど、過ごしにくい環境になったとは思う。
「昔は、午前中はゆったりしていたよね。だけど今は一手一手が厳しいから、午前中からピリピリしてる。
今の若手は、終盤で悪くなっても諦めないよね。私が勝勢になっても相手が投げないから、ちょっと緩い手を指してやると、そのまま逆転されちゃうんだよね。こっちがからかってんの気付かないんだよね。
さて△6二金だけど、コンピューターは指摘してないの?」
「△6二金は候補手に上がってないですね」
藤森五段が散文的に答えた。
「ない! AIにはない!
……うーん、私も今は最高速度が110キロなんで、昔は140キロをガンガン出してたんだけど、今はストレートを投げてもフツーに落ちるナチュラルフォークしかないんで、ここは△6二金という手しかないんですね。
現在駒の損得を見ると、飛車と銀桂の2枚換え。そして先手は遊び駒がまったくない。後手は△3二金、△2一桂あたりの働きが弱い。それ考えると先手が圧倒的にいいが、▲8八銀の形がひどいんです。それで形勢が分からない」
時刻は午後8時になった。この会場を使えるのは午後9時までだという。しかし1時間で決着がつくのだろうか。
「△3九馬と指せば、いいも悪いも結着がつきます。だけどこれ、豊島さんがつんのめると負けるでしょ。攻めの反動がキツすぎて。
……藤森君ならどう指す?」
「私は△3九馬ですね」
豊島二冠の考慮は30分を越えた。「30分考えても指せないということはどうなんでしょう」と、藤森奈津子女流四段。
「勝負の分かれ目は7七の地点に何がくるかということですね。三段リーグなら、▲7七銀かもしれません。だけどこれもね、将来△9九銀とかあるんですよ。▲8八銀~▲9九銀とかでタダ取りしても、9九に自分の駒が邪魔駒として残っちゃう」
そこに指し手が伝えられた。△6二玉!!(第9図)
会場がざわめいた。
「△6二玉か! 惜しかったな、狙いは同じだったが」
「でも△6二玉と△6二金は違いますよね」
「うーん……」
早速△6二玉での変化を並べる。
「▲7五桂の他には、▲7三歩がありますか。△7三同玉▲6五桂△7二玉▲7三歩△8三玉に▲7二銀。ここで中盤なら、飛車を助ける△9二玉、終盤なら△9三玉です。
……でも△6二玉は惜しいんだよ、(考え方としては)タッチの差」
鈴木九段は△6二金にまだ未練があるようだ。
後手は△2九馬が盤上からなくなると、▲3九金で飛車を詰ます変化もある。
「これは、飛車を詰ましてよろこぶ永瀬流になります。
……いろいろ変化がありますが、この時△9四歩が大事だということが分かります。△9三玉で、容易に詰まないもんね。これが△9四玉しかないと、相当危うい」
「先生は△9三玉の位置が好きですもんね」
「うん、序盤の忙しい時に、なぜ△9四歩と一手かけるか。それはそれなりの価値があるからなんです」
なるほど、と思う。「いずれにしても、△6二金ないし△6二玉は、勝てば勝着になるでしょうね」
鈴木九段が、そう予想する。でも何となく、その予想は外れるような気がした。
(つづく)