ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮、同人誌の話他

明石元二郎とロシア革命前夜

2024年09月27日 | 文学・歴史・美術および書評
情報将校、明石元二郎を描くことになってですね;
ジャーナリストやスパイってやっぱり好きなのですが(間者好き)

しかし、日露戦争はともかく
ロシア革命は言うほど詳しくない。
昔やっていたゲーム企画でロシア皇女が出てきたので
皇帝側は何とかわかるとして
革命側は他の方がやっておられたもので;任せっきりでした。

と、いうわけでこの一ヶ月
「オルフェウスの窓」しか知らないので
ロシア革命のロシアと、その周辺国について急ピッチで学んでおりました。

で、明石元二郎とは何者か?

知る人ぞ知る、この方はですね

「ロシア革命」を起こさせた人です。
え?ロシア革命というと、皇帝への不満から
ロシア人が自発的に暴れたんでは
というと、まあそうなんですが

国民が暴れるだけでは革命なんぞおきやしないのです。

明石元二郎は、ロシアの国内事情が良くないことを日本に送り
日露戦争に突入した日本はそれを利用して内部分裂を起こさせ
ロシアを内側からも崩壊に導いた。

とんでもねえ作戦です。
要は「オウンゴールを誘う」です。

その明石さんが接触する人物が、いきなりロシアのレーニンとかでなくて
周辺国の、ロシアに虐げられているフィンランド、ポーランドといった国々
隣の国の憲法までロシアが支配しているので、事実上ロシア、そんな感じ。
ですので、そこらへんも調べていました。

この明石の内部撹乱作戦にはかなりの大金が使われていた様子。


日露戦争は
ユダヤ人のジェイコブ・シフ

が日本国債を買ってくれたり、お金出してくれて(ありがとう!)

日本はロシア革命の革命派にお金を出しまくったということか。
いや〜
革命も戦争も選挙も
何でも金なんやで!

こういう、お金の動きから近代史を見るのも面白いと思いますが。


明石元二郎は最近ではチラチラ漫画で描かれてて(ロシアーウクライナ戦争以降、注目株だから)
どうしようかなあと悩んだんですが;
あんまり比較しても影響されてもなとか。
情報が多すぎるのも逆にしんどい…

無料配信の映画は右寄りなプロパガンダ色がついてる割に
演じてるのが女優さんで違和感だったし
逆に敵役のように描かれるのもちょっと違うと思う。



ペン入れ途中



今回は「タッチを変えたい」とか思ってたんだけど
できなかったです。

児玉源太郎さんは西南戦争にも出てたよ。


まあそんな感じで
ちょい「ダサかわ」ユニークなおじさまで行こうかなとなりました。

ちょうど今「坂の上の雲」のドラマやってますね。
いいドラマだなあれは。(前見たけど忘れてるー)



----------

冒頭2pだけを提示して、人気が出そうなら続き、案件が成立するシステムです。
頑張ってるのでどうか応援してやってください;
(掲載まで校正があるのでちょっと時間がかかります)





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西南戦争の食糧事情

2024年09月03日 | 文学・歴史・美術および書評
Xの方でもちらっと触れました。
食事場面て、実は2次創作時代には殆ど描かなかったかもしれませんが;

「雲よ、伝へて!〜明治報道奮戦記〜」シリーズにはあえて食事シーンは入れるようにしました。

西南戦争時
石光真清の「城下の人」を読むと、薩摩軍の本営を見に行った子供が
おにぎりを分けてもらったりしているので
最初の頃はそんなに兵糧が無いというわけでもなかったような。
おそらく桐野さんらの事だから、
ちゃっちゃと片付くと思っていたんではないですかね。


其の四から。
画像がちょっと小さいですが
田原坂資料館の薩摩軍の食事をモデルにしました。

🍙中央の茶色位のは味噌です。

「其の五」にこんな場面ありましたね。

それでもまだこの辺は余裕か。


谷村と干し柿


西南戦争時は露天商も出ていたので
各自買い食いは可能だったようです。
お金があれば。
田原坂からは当時のお金(コイン)も見つかってます。
売る方も商魂すごいね。

それもだんだんと厳しくなりまして。
やがて薩軍、食糧を調達し始めます(暴力なども駆使して)



盗んじゃいかんけど!
まあ…こんな感じなんでいくら従軍と言っても
記者に食わせる飯はないわけで。
飛高が高瀬の宿に行ったのは正解かも。

一方で官軍。
熊本城の外の官軍には缶詰だの牛肉だのワインだの支給されて
結構、豪華です。
しかし缶詰は「缶切り」を渡し忘れ、現在のようなパッ缶蓋など無いので
銃で穴を開けて取り出したとか
ひどいのになると、そのまま直火にかけて大爆発を起こし
死亡事故に至ったとか(そんな死に方あんまりだ)。

熊本城内、籠城組はもうとてつもなく悲惨です。

昔、「熊本城は籠城に耐えられるように、畳も芋の蔓で作った」
などという伝説がありましたが
そんなもの実際食えるわけない。
しかも本丸は火事で焼けている。

谷干城が言ってる、軍馬
これは樺山資紀の愛馬。

樺山さんは馬が大好きなのですが
傷ついた官軍兵にやってほしいと、自分の愛馬を食糧として差し出したそうな。
時は春なので、城内に野草などは生えていたんで利用し
畑のようなのもちょっと作り
それでも足らない。城の周囲から野良犬が消えたという逸話もあります。



ちゃんとご飯食べられるって
平和なことなのです。

最新刊では四天王寺でうどんを…


食べたのかどうか…。

ーーーーー

上記「雲よ、伝へて!〜明治報道奮戦記〜」の

全巻セット 通販開始しました!


9月は西南戦争最後の城山の月でもありますね。

よろしくお願いします。

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「推しの子」2期とデザインとアートの間の漫画

2024年07月20日 | 文学・歴史・美術および書評
忙しいですが「推しの子」だけアニメ見てます。

「うわー!これは例の事件を思い出してしまう」
という…
漫画が原作のメディアミックス、
脚本家のキャラ改変に漫画家がダメ出し、と言うやつです。

セクシー田中さん事件の折に考えたのですが
まず

出版の会社と広告系の会社で
漫画家の扱いが違う!!

これなんですよ。
出版社では最初から「作家」の扱い
広告では「デザイナー」の扱いです。

つまり、出版系は漫画家に対しては多少「芸術」に対する態度で来られます。
所によっては昔はお中元お歳暮が届いてました。
呼び方も「先生」で確定申告の書類宛名は「先生」ついてました。
(電子化で紙の書類もほとんど消えましたが)
存在が表現をしている感じなので、当然ですが代わりはいません。
名前=ブランドで、それを売る為に苦労されます。


これに対して
広告系、広告漫画の現場は「デザイナー」です。
著作権を渡してしまうと中抜きできないと言う派遣事情もあるんでしょうが
最初から「案件」はチームワークです。
シングルテニスとサッカーくらい違います。
シナリオや企画を漫画に仕立てる作業工程に関わる一人です。
みんなで作り上げるものですから、当然「自己主張」は不要。
宛名に「先生」がついた事はないです。
ですので作者に著作権やブランドは無いかと思います。
(名前を出してもらえる人は何か主張したかであり
ほとんどの場合クレジット表記はされません)

普通の場合は広告は広告、出版は出版なので平和ですが
これが「ミックス」になった途端、面倒なことになります。

まず著作権を持ち、主体的な創造主であり先生である出版社系の漫画家は
そりゃ勝手にいじられたり、リテイク多すぎたら怒りますよ…
「私が決めているのに。日々何の為に必死に身を削ってんの」
てなりますよ。

しかし広告系としては、とにかく「アート」「芸術」をやってるのではなく
「ビジネスとして仕事をしている」だけです。


さて。
日本で「広告代理店」を始めたのは岸田吟香という人です。
今私が最終話を描いてます、「雲よ、伝へて!〜明治報道奮戦記〜」
にも登場しています。(最終話にも出ます)

吟香氏は浮世絵絵師の小林清親と親しく、目薬の広告を手掛け
もう当時から「漫画」と広告はコラボしていたのですが

では当時の漫画家はどうだったか?
というと
江戸時代から続く「浮世絵」はやっぱり今のデザインに近く
版元の企画に応じて制作していました。
己を表現する画家が皆無というわけではないです。

自己表現をしてきたという絵師、画家は高く評価されているが
そうでない浮世絵は最近まで格下扱いだった。
それはなぜか?
これって
「評論家が、西洋的芸術の意味を持つものを芸術だと評価した」
からではないかと思うのです。
つまり明治以降、日本は美術評論も輸入し、
西洋人が芸術とするものの基準に沿ってそれを芸術かどうか決めた。
海外も海外で基準を疑わないのでそうなります。
「まるで西洋の〇〇の作品のようだ」とか。

岸田吟香の息子さんは岸田劉生という有名な画家ですが
息子さんの時代にはもう、西洋芸術のベースで動いてて
画家は画家、という「特別な存在」になっていきます。
純粋芸術とは何かの話になると長くなってしまいますが
純粋な自己表現とビジネスって両立させるの、なかなか難しいです。


漫画を「自己表現」「芸術」にしたいのは
おそらく出版社はそうだと思います。
それは、小説が昔、芸術ではなかった大衆文化の時代を経て
芥川賞のような「芸術」に押し上げてきたというプライドがあるからでしょう。


私の場合は出版社も広告も同人誌も
「それはそれ」を徹底してペンネーム変えてはリニューアルして渡り歩いてきたのですが、
それでもこのギャップは、
解決するまでやっぱり鬱になる程悩みました。


21世紀以降
漫画の地位を上げてビジネス的に拡大していく世界では
「アート」か「デザイン」か
ソロプレイなのか、チームプレイなのか
これをあらかじめ認識しておく必要はあると思います。
これから漫画を描きたいという人は
そこを理解しておいたが良いのかなと思います。


手塚治虫は「海のトリトン」がアニメ化されて
大幅に原作改変された時「あれは僕の作品ではない」と明言しました。
しかし、富野由悠季監督の手から生まれたアニメのそれは
原作とはまた違うファンがついて人気になりました。
「一旦冷静に手放して、自分は自分にできる最大限をやる」
これ大事かもしれません。

チーム作品はチーム作品で
単独原作も単独原作で
要するにそれぞれ制作された背景を理解し、
受け手の側が評価すればいいだけの話です。
作り手の方も「今何をやっているか」「自分はどこに立っているか」
は重要です。

そして、もし芸術として完全な自己表現がしたいができない
出版社や広告がダメだというなら同人誌もあります。
ネットのある現代ならいくらでも方法があります。

マニアックに、自閉的に自分の作品にこだわり抜かないと良作が生まれないのも確かでしょうが我々は既にその「天才性」すら危うい時代に来ているのではないでしょうか。

それぞれの立場を理解できるという人が増えたらな
と思っていたところでしたので
いいタイミングでしたね。アニメ。

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20世紀佐賀県の彫刻家、古賀忠雄

2024年06月13日 | 文学・歴史・美術および書評
 
と言って冒頭のみなのですが。


古賀忠雄の彫刻は佐賀城内にあります。


歴史資料館に行った時同時に取材してきました。

モダニズム、特異な作風がもてはやされた時代にナチュラルでリアルで力強い庶民をモチーフに自分の作風を貫いた人です。

20世紀の彫刻というと、どうしても
ラディカルなものばかりに目が行くというか
あまりにも「新しい芸術」を追いすぎて…

いや決して
イサム・ノグチや岡本太郎作品が嫌いというわけではないです!

じゃあ芸術って一体なんだったのか。
見る人とは乖離して行った気はします。

それでどんどん「アート」は発展していったのでしょうが
おかげで幾分「馬鹿は見るな」という世界になっていきました。

専門的なことを学ばないなら見てはならない
哲学書くらい読んでこい
美術館に収蔵されて然るべき

果たしてそういうものなのか…
それで意図というのはどの程度
正確に伝わっているのでしょうか。
(目的という意味では村上隆の美少女フィギュアがよっぽど正解なのでは)

私はもうむしろ最近は
「解読」する類には疲れてしまうので
何となく、けれど湧き上がるようなエネルギーを受けられるとか
側にいて鬱陶しくないものがいいなと思ったりしますが。



それで、古賀さんをどんな風に描くかってまず
有名なエピソードが西郷像お蔵入り事件なので
それを挙げてみました;
調べても「立派」な肩書きがズラリで
しかし権威は漫画を描くにはむしろ邪魔というか
その看板以外を覆い隠してしまうので大変です。

古賀忠雄の作品の抒情性って
きっと日本文学のそれだと思うのです。

きっと「これはこういう意図である」というのをゴリゴリ押しつけたりしない
でも、「人間とは何か」に立ち戻って
(いわばもっと落ち着いて;)
奇抜ではないが、自分で感じたリアルを求めた人かなと思います。



こういう作品を
ちゃんと描けるのか…もっと勉強しつつ、取材しつつになると思います。

シリーズの漫画と合わせてちょこちょこ描いていくと思います;
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山鹿口の西南戦争錦絵の謎

2024年04月10日 | 文学・歴史・美術および書評
山鹿市立博物館に行ってきまして
ここには山鹿口の戦の錦絵が展示してあります。

なぜかNDLの方でも山鹿口のは全てを公開していないのです。
山鹿で展示されていた分で、NDLから
こちらの画像のみをお借りします


賊兵激戦の図、というこちら
メインで描かれているのは薩摩軍
畳のバリアで官軍を防いでいるようです。

画工は山崎年信。
月岡芳年の弟子です。

しかし、左隅の画工名には「山嵜徳三郎」とありまして。
なぜ年信の名前を使わなかったのか?

山崎年信は後に高知の「土陽新聞」に描いたりしているので
思想としては民権派なのだと思います。
師匠芳年の下をある事件がきっかけになって出奔したようですが
詳細は不明です。


もう1枚の絵はNDLに無いんで…
(これどこに問い合わせたら公開できるのか?なんですが)
安達吟光という画家の絵でした。
吟光は結構有名でして
風刺パロディ漫画も得意。それで逮捕されています。

錦絵絵師の生活は今と変わることなく
とにかく売れ筋は何でも描かないと生活できない。錦絵1枚の値段はかけそば1杯よりは安いのが普通でした。
指定通りで工賃低い(日本の伝統芸だわ)
だからか、サブカル絵師達はいわゆる「画家」と違い割となんでも描いてます。

安達さんの方も、安達平七の名前です。
そして、安達吟光も
宮武外骨と組むくらいですから、民権派です。

漫画(錦絵)と山鹿と明治デモクラシー。
繋がっててちょっと嬉しいかも?


当時、新聞記事は明治政府の検閲で本名で出すこと
とされていたので
錦絵というよりは報道、新聞の扱いだったのでしょう。

ところでその内容はというと
やっぱり報道としてはあまりに「歴史創作」が入っています。
見て描いてないし、フィクションですけど
多くの庶民が信じてしまったらヤバいと思わせるほどのリアリティ
って事ですよね。

こういった錦絵は
鳥獣戯画のように「漫画」のルーツでなくて
「コミック」のルーツと言っていいかも。
大変興味深いです。
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佐賀城本丸歴史館の「江藤新平展」

2024年04月06日 | 文学・歴史・美術および書評
念願の「佐賀」に行ってきました!
 (ここのブログ、今週スマホから画像投稿ができなくなってたんですよ)

法事のついでに行ってすまん父。
父も歴史好きだったからOKだろう。


熊本から佐賀って「隣県」とか舐めちゃいかんです。
よく考えたら、自分が九州で行ってない唯一の県が佐賀でした。
本当に…遠い。広いんだ九州大陸;
しかも電車本数無いので…結局時短の為に新幹線に乗ってしまいました。
(JRの作戦勝ちだ)

来ちゃった佐賀城。



お目当ては江藤新平展

いきなりボランティアガイドの人が現れ
「江藤新平見てたら城の説明終わらんから飛ばしましょう」
と言われ
「いえ、私江藤新平だけのために来たんで!」
と言ってお断りしたら「そんな人もおる」
って言われました。
あかんのかい!


江藤さんは推しの推しです。

熊本協同隊隊長の平川惟一の推し。
彼は佐賀の乱に参加しようとしたらもう終わってた
というので引き返すんですが。
処刑後も「江藤さんを殺すことはなかった」と言ってたという。

その平川、熊本時習館から佐賀の弘道館に
藩費で「留学」しています。

佐賀の弘道館というのは厳しくて有名で
テストで落第すると
家禄を減らされます。

死活問題です。ていうか
「この家はお前にかかってる」とか言われるんだぞ
死ぬ気で勉強するよ…


江藤新平もまた、地元の争いを止めようとして
説得しに戻ったんですね。
火に油だからやめろと大隈さんも板垣さんも止めた。

江藤新平が士族を率いて反乱を起こしたわけじゃない。
なら教科書で習ったのは何だったのやら;
しかし、平川の言動とか追ってるうちに
江藤新平も普通に覚えられているような「賊徒」や
危ない革命の首謀者ではないんだなと。

明治のシステムの基盤を作ったマルチな秀才
貧しい中、苦労して弘道館で学び
西洋の文化をいち早く取り入れていた鍋島閑叟に見出された人
そんな人が単なる「賊徒」なわけなかろうが!
いや、なかった、本当。

月曜日しか日程取れなくて
大隈重信とか佐野常民とか記念館、開いてなかった!
けど佐賀城本丸歴史館、開けてくれててありがとうございます!
入場無料…だった。あり得ない。あり得ない展示の良さ
太っ腹すぎる。


駅前に銅像あって
佐野の隣にちょっとだけ座っちゃいました。

佐賀は何も無いとかじゃなくて
「消された」んでしょうね…


それと古賀忠雄先生の彫刻もしっかり撮影。
ちゃんと取材してきたゾ!


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山鹿と佐賀に行ってました

2024年04月02日 | 文学・歴史・美術および書評
父の一周忌法要でした。
実家の墓所が熊本地震でやられた後放置、しかも中は満杯だったので
南阿蘇のお寺さんで合同墓地やってる所に新しくお願いしました。

南阿蘇遠かったですが

なんと
佐川官兵衛の没地のすぐ近くという
偶然。
車で遠っただけだけど。


法事前日30日に熊本入りして
友人と熊本協同隊の山鹿方面、吉次峠〜横平山、七本あたりをつぶさに周りました。

これは次回シリーズと別に
「続・田原坂不完全攻略法」でまとめる予定です。
でもまだまだ不完全なんですよ。あはは。

佐賀で江藤新平展やってたので、延泊して行ってきました。

フランスの法に学んだ江藤新平
福澤諭吉は英国寄りで儒教を捨てる案だったんですが
佐賀は逆に儒教のモラルをベースに
人権民権の法に動くあたり興味深いです。
普仏戦争とパリ・コミューンがあったから当時は避けられたと思いますが
令和の今、江藤新平の再評価と共に
考えられてもいいかもしれません。

自分的には
昨年末に体調崩してから落ち込む事ありましたが

ずっと行きたかった平川惟一の没地にも行けて
篠原国幹の桜も満開で見れて

思い残す事がない
どころか、思い残したい事ばかり…

とりあえず目先の案件やんないとですが
すっかり元気出ました。

新刊頑張ります!


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「マンガ 九州偉人・文化ものがたり」を描かせてもらってます

2024年03月19日 | 文学・歴史・美術および書評
福岡の梓書院さんの方でやっておられる
「マンガ九州偉人・文化ものがたり」というのを描かせてもらってまして

佐賀県には「石井」と「古賀」は多い…
今月はまた古賀。「古賀逸策」です;


古賀逸策は
「水晶振動子」R1カットR2カットというのを発明した人
と、言われてもなんか馴染み薄いっすよね…

うち弟が東京工業大学卒で、古賀逸策も東京工業大学の人らしいんですが
私はこういうのサッパリわからないのでw
そこでバカでもわかる電気の本みたいな(小学生向けではないのか)
のも借りて、ちょっと勉強しておりました。

あはは;


公開はだいぶ先になるということですが。
新たなリストもいただきました。
(うわ、推しがいるどうしよう)
「私が描いて良いものか」とかなっちゃいますが
それ新選組の案件の時も言ってたから
ええいままよ、って感じです。

これと別に
生物化学の方で免疫細胞とかのを描いたりしてます。


絵柄の落差が激しい…
科学な春なのでした。



そして
今日は田原坂陥落の日。

新刊に向けても準備しています。
なんか最近、同人誌なのに
いつも「締切、イベント合わせ」をやってしまい
あまり自分ではよくないな!と思ってます。
マイペースで満足いくようにやりたいのですが。
やんなきゃだわさ



そうそう
ここのところ訃報が続いて
いのまたむつみ先生まで亡くなられてしまい
ファンには辛いです!!
ご冥福をお祈りしてばかりだなあ…


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西園寺公望は第一回印象派展に行ったのか?

2024年02月26日 | 文学・歴史・美術および書評
大阪中之島美術館で開催の展覧会「モネ 連作の情景」
は、開催初日に行ってきました。

今年、ちょうど第一回印象派展が開催されてから150年になります。

さてここで
昨年12月に出した本「僕たちは西南戦争を止めようとした」
にも登場しました

西園寺公望。

(描きたかったんですよw ウフフ)


東洋自由新聞社主、公家です。

その西園寺公望…

ちょうど第一回印象派展が開催された時
フランスに留学中です。

そして、
西園寺公望は後の1919年にヴェルサイユ条約に調印した
フランス首相のジョルジュ・クレマンソーと親友でした。

1874年。
渡仏中の西園寺は同じ下宿にいて随分と急進派クレマンソーのお世話になり
(お世話もし…)
仲がよろしかったようです。
wikiからお借りします。


この写真を撮影したのは、写真家ナダールです。


そう、ナダール
第一回印象派展が開催されたのは、この写真家ナダールのアトリエでしたよね…。

じゃあ
西園寺公望は第一回印象派展に行ったのか?


これ、間違いなく行ったんではないですかね??

印象派展が開催されることは、当時の美術雑誌に掲載され
話題になっていたようです。
ジャーナルに興味がある好奇心の強い西園寺、そして
クレマンソー(彼もジャーナリスト)。

いえ…それだけでなく
クレマンソーはモネのパトロンでもあり、親しいです。
もっとも、第一回印象派展の頃のモネのパトロンは
エルネスト・オシュデですが(1877年に破産)。


第一回印象派展の来場者は3500人
評論家には叩かれたし、絵はあまり売れなかったらしいですが
それでも革命的な出来事です。


そしてモネといえば住友コレクション。
これを集めた住友友純(ともいと)は西園寺の弟です。
まあ、蒐集は明治半ば過ぎてからですが
縁が深い!


もし西園寺が第一回印象派展を見てたら
日本でモネ「印象・日の出」を見た最初の日本人になる?
…のかならないのか。
「行った」という記述にまだ会えないんですが^^

そうだ、漫画でならモネと合わせてあげられるかもね!
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西南戦争は旧幕府士族VS新政府の戦いと言えるのか?

2024年02月20日 | 文学・歴史・美術および書評
歴史の教科書で習うのを覚えていたとしたら
西南戦争は
秩禄処分で禄(お給料)が無くなった士族をなんとかしようとしての征韓論
貧困からの士族の反乱…かと。

あるいは「るろうに剣心」や「ラストサムライ」から
旧幕府軍であるサムライと、新時代を築こうとする新政府の戦いだと。

実は私は自分で調べる以前はそう思っていたのです。

九州ではずっと「西南の役」と呼んでいました。
官軍の「役」です。

刀を取られてたまるか!みたいな時代錯誤の哀しい暴れ旧士族と、
西洋最新型のスナイドル銃で戦う正義の官軍
果たして本当にそうなのか?
確かに前に神風連の乱がありはしますが
「佐賀の乱」が神風連と同じかというとこれも微妙ではないでしょうか。

最近の研究では薩摩もスナイドル銃、スペンサー銃を(鹵獲しただけですが)
使っていたとあります。
はて、まだ完訳すらできてないフランスの啓蒙思想、ルソーの社会契約論を学んでいる20代の宮崎八郎が「哀しい旧士族」でしょうか?

西南戦争はかなり広範囲の士族が参加しています。
全員が西郷と西郷を慕う士族というわけでもないし
宮崎や大分からも民権派ジャーナリストが加わっています。

おそらく、彼らは土佐の立志社その他の民権家が加わるのを待っていた
けれど、政府軍が軍艦を送り込んで結局は南九州に押し戻して鎮圧した。
立志社と板垣退助は立てなかったのではなく
川路利良が完全にチェックして潰したのでしょう。

そこから新しい憲法ができるまで、民権派が意気消沈してしまう理由に
もしかしたら西南戦争のことがあるのではと思います。
「政府に楯突く者は全て旧幕士族」にまとめられてしまってる気がします。
それは、鹿児島で樺山資紀らが地方議員に圧力をかけて
西南戦争の生き残りを政府側の政党に吸収していった様子を見ればわかると思います。

「禄をもらえなかった士族の不満が噴出」という理由が全てであるとは言いづらく
おそらく、「将来の日本はこうしたが良いという」
維新政府とは別のアイデアを持っていた人らがいた
村田岩熊のように留学して学んだ人も何人もいた。

我々は「ベルサイユのばら」のように
虐げられて貧困に苦しむ格差社会の下層が、特権階級に対して反乱を起こす
ついそれを反乱や革命と思いたがるのですが
日本の武士というのは、そもそもが質素です。
フランス革命とは様相が違っています。

ですので「不満を持った旧幕府士族」VS「新政府」というよりは

「新政府とも旧幕府とも違う新しい方法を探りたい」

という人らをも含んでいたのに消してしまった。
西郷軍は
(主に士族で構成されているからもあるのですが)
一人一人の政治意識は高かったのではないかと思います。


西南戦争に関しては、
情報、当時の庶民、女性など
まだまだいろんな面から研究が進むんではないかと思っています。

ここは本当に、学者さんに期待するところです。


西南戦争時代のジャーナリストを描いていってます。
作品はこちら



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田原坂美少年と言われる束野孝之丞を入れなかった理由

2023年10月18日 | 文学・歴史・美術および書評
「いや、あまりにも束野では描けない…」

シチュエーションだけあればいいイラストなら描けるのかも。
勝手に丸々と創作設定を加えて良いなら描けるかも?
う〜ん…


田原坂にある美少年像で有名な
束野孝之丞。「つかのこうのじょう」と読むらしい。
「田原坂美少年」として歌われたのはこの伝説の人物だとか
お墓があるのは知っていますとも、もちろん。



これだ。

しっかし!
あまりにも何も出てこなかったのです。
エピソードらしきものが…
宮崎県民らしいけど。
個人的になんかその、特別な感情があったとかなかったとかは知りませんが
何も無いと記号的すぎるのです…
完全オリジナルで別途描くなら可能ですが。
シリーズには入らんよなあ。

「雲よ、伝へて!」には田原坂美少年として
村田岩熊と高橋長次を入れましたが
この二人には描けそうなエピソードがありました。
20歳過ぎてて「少年」枠では厳しい高田露も
既に津本陽も司馬遼太郎も遊んでしまっているので!
便乗して遊ぶことは可能で。(高田露がああなったのは私のせいではない)

大きなストーリーの流れに対して、そのエピソード
それのまつわる人物がどうして重要なのか
問題はそこでした。

主人公の飛高が今回の新刊「其の八」で、記者として関わった人物を回想する場面がありまして
「小さいけど記者」である彼がどうして必要な存在なのか
そこを描く必要があると思いました。

西郷の弟である小兵衛は
何がなんだかわからないうちにどんどん走り出していった暴動の真っ只中にいた。

谷村計介は官軍、薩摩側にいる伝から見たら敵のスパイ?だけど
そこには生い立ちや、唯一自分を肯定した乃木への憧れ、居場所としての「軍」があった。

村田岩熊には「居場所」は無かった。だから友達として飛高を選んだけれど
父親は村田新八。西郷や篠原という父親の友情を背にして、戦に走らされる。

そして高橋長次。彼もエピソードは少ないのですが
「適地に大事な刀を落とした」はエピソとしては十分大きい…
何故、何がそうさせたのか、その小さな個人の「声」を届けるのが
言葉ではなかろうかと考えて、
熊本協同隊を入れたのなら熊本隊もと思いました。

束野の場合の記念碑が建てられたのが昭和7年でして
谷村もそうですが、特に戦前というのは
官軍万歳で戦意高揚のためにあちこちで仕掛けを施されていまして
せっかく平和な戦後に生まれた自分ですから
プロパガンダを知りつつそのまま出すというわけにはいきません。
(良い子の戦意高揚に力なんか貸さないから漫画なのですよw)


さてなら束野をどうするのか。
大きな流れのあるストーリーでその意味のアサインが難しい…
せめてもうちょっと何かあってくれたらなあ…!

例えば「あいつ馬のことばかり気にしおって」でもいいんですよ。
「薩軍として勇敢に戦に身を投じた」ではなくて
むしろそれと全然関係なさそうな方が
人間的で面白いかと思うのです。

福地源一郎(桜痴)が
「史論」で「歴史の効用は歴史家が読者をして
自らその時に存在して、その心情や状況を目撃するかのように示すこと」
というような事を語っていて

いつどこで誰がどうしてそれを行なって
作者は何が言いたいのか
そういうものを考えていけば行くほど

「束野はむずい」

となりました…

けど
研究が進んで何か出てきたらいいね!

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NEWチャレンジ!デジタルツールだけで川瀬巴水風の背景はできるか?!

2023年06月22日 | 文学・歴史・美術および書評
先日、川瀬巴水展に行ってきました。





昭和版画、新版画
最近注目です。

写真のように見えて写真では絶対に…

ほほう。
ならば写真とデジタルツールを駆使して
新版画は作れないか?

新たなチャレンジ来た!

目標は川瀬巴水風で

<条件>

・手でトレスしてはならない。線の太さに至るまで
デジタルツールと写真以外使ってはならない

今回は液タブ封印。

んでまず舐めたことを考えるに

1.写真をCSP(クリスタ)でラインのTL検出
またはphotoshopで線画抽出

2.photoshopのアートフィルター「カットアウト」で色を平面化

3. テクスチャ読み込めばいいのでは



ところがです。
そんなに簡単にはいかない問題をたくさん含んでおりました!!!

今んとこ

「ライン抽出で挫折」





理由と一緒にしばし(続く)









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「文学博士」夏目漱石とステータス

2023年05月14日 | 文学・歴史・美術および書評
最近はなんでも「ステータス」でして…

SNSの肩書きで思い切り嘘書いていて
実はセレブでもなんでもないのに、偽ったアカウントで
自分をデラックスに見せている人もいると聞きました。
いや…そんな見栄はってどうすんでしょうかね?
アバターチェンジして「お姫様」を演じるとかなのですかね?
マッチングアプリなんかやろうと思えば画像もステータスも
嘘次第じゃないですか。(おお怖っ)


夏目漱石は自分に与えられる「肩書き」が嫌いで
文学博士を辞退しましたが、文部省がこれを認めなかった。

ある時、知人らとパーティーをやるというので※
招待ハガキを出してもらったら、
事務局の人が文学博士の名簿を見てそのまま名前を書いたので
夏目漱石の名前の上に「文学博士」って堂々、つけられてたそうです。

すると漱石、これを大変不服に思い、あわてて
「肩書きを消してくれ」
と申し立て、寄付金に自腹で印刷費用を足して納入して
既に出来上がったハガキ200枚、肩書き無しのものに修正、
印刷させ直したそうです。


日本人は昔からステータス大好きです。
水戸黄門や遠山の金さんが庶民のフリをしていながら
「実は超身分が高い」と暴露するのに驚き、平伏す…
これって、他人の評価をその個を見て下してるんではなく
最初から人の中身より「看板重視」ってことではないですかね?
看板重視だから逆に「レッテル貼り」の弊害も生む。



漱石にとって、個人の価値を決めるのは「看板」ではないのでしょう。
自分の真価を決めるのは自分でしかない。
ずっと「夏目なんとか」何某でいる。

明治の末ごろになると、文学が権威を持ち始めて
官憲の力で「文芸」を盛り上げようと「文芸委員会」が発足
学校教育でも取り入れようという動きになったけれど
漱石は「逆にマズいんじゃないか」と言い
優秀作品を表彰しようという動きになった時も
「自分の作品は選奨しないでくれ」と言います。

「文芸委員会などというものは、文部省という串で
委員という団子を突刺すことをするのだ。
串刺しにされた文芸家に、何の活動ができるものか」


大抵の場合はステータスも賞状も賞金も喜んでいただき
さらにはそれを自慢し続けてやまないだろうよ、ってとこなんですが
漱石だけは賞候補に入るのを嫌った。賞から外すと聞いて「ほつとした」
ようです。


何かで肩書きを得れば、そこで一つそれに縛られることになります。
その肩書きを通した色眼鏡でも見られる。
何があろうが自分というわけにいかなくなる。
人は肩書き、ステータスから「らしさ」を求めてくるからです。


「文学博士らしい物言い」「さすがなるほど文学博士様だ」
そんな文章を書く方がうんと恥、だったのかもしれない。
自由でいられるから、弱い部分も強い部分も
自分に忠実でいられる、見栄張ったものではない
「人間」の漱石を読むことができるんだと思います。


ーーーーーーー
※ 杉浦重剛の還暦祝賀会。漱石が発起人に加わっていた。


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明治時代の記者の給料の話

2023年05月11日 | 文学・歴史・美術および書評
朝ドラ「らんまん」見てますよ。

家賃が2部屋で1円w   

「1円がいくらくらいか」をネットで探した人も多いかと。
だいたい1銭が200円とか出てきますよね。
インフレや社会状況が今と違うのでなかなか難しいです。


明治時代の新聞記者で
仮名垣魯文のお弟子さん、馬場辰猪の従兄弟にあたる土佐人で
野崎左文という人がいます。
「明治時代の新聞小説」というエッセイの中で
当時の記者のお給料について触れています。

それによると、当時の記者の給金は一ヶ月下が2〜3円
上が25円だそうです。

福地桜痴は東京日日作った時は月収100円とか…ですが
これは明らかに高すぎるというか、さすが福地さんですわな。

野崎左文は自分の「月収15円」を周囲にバラしたら
「貰いすぎだろ!」とか言われて魯文先生が困惑したらしいので
まあ当時の記者というのは、そんなにお金持ちでもない。
下は現在のアルバイトくらいでしょう。

当時は実家住みも普通だろうし、貧乏でも相互扶助精神はまだ残っていたんで
東京の家賃が高すぎ問題、どうしても必要なスマホ代や光熱費などを考慮すると
やっぱり現在の非正規くらいではないかと思います。

当時の「小新聞」の様子を読んでますと
結構自由で、平気で仕事すっぽかしたり、お芝居に出かけたり
日曜以外に平気で10日もお休みしたりしてるので
ゆるいのなんの… 


うーん;
しかしこの自由な雰囲気…どこかに覚えが…

って、昔サブカルな雑誌「みのり書房」に持ち込んでた時の空気ににてます^^
いや、いくらなんでもそこまで自由でもなかったと思いたいですが!

朝までどんちゃん騒ぎで;(何しに行ったんだw)
ハイテンションだったなあ。

写植用紙(まだ用紙に印字したのを編集が切って原稿に貼り込んでいた)
の余白で「一反木綿」切り抜いて「見てみて〜w」とか
祭り状態でした。

最近はどこも漫画もガッツリ「ビジネス」って感じですが。
もちろん、そんな悪ふざけしようものなら無条件でSNSで叩かれるでしょうし。

大人がバカやれる時代はちょっとはいい時代なのかも?



横浜新事日報の飛高はいくらもらってたんだろうか。
次号でちょっと触れるかもしれません^^






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漫画の弾圧の歴史と国際評価

2023年04月07日 | 文学・歴史・美術および書評
最近、シンポジウムに参加して気になる話を聞いた。
それはフランスにおける日本の美術評価
つまり「ジャポニスム」というのは
早い話、「葛飾北斎はいかにフランスの美術に近く、共和主義的か」で
評価したのであるという事実だった。
これは後に岡倉天心やフェノロサからの反論にあった。

しかし、ビュルティらが紹介雑誌を出版したせいでもう、パリ万博1900年以降は
フランス人にとっての日本美術の評価は
伝統的なものでなく浮世絵一辺倒になった。

なるほど、パリ万博に出した日本の工芸品は
思ったほどは現地では売れなかったと聞くし
逆に「錦絵」は額装(?)のような装丁で販売されたりする。
日本で錦絵は「かけそば一杯の値段」が基準なのだから
今の日本円の感覚で1000円を上回るようなものでは無かったはずだが。

前国立西洋美術館長の馬渕明子先生のお話を聴いて
私が勝手に過剰反応しているだけなのだろうが
「漫画は海外では日本のハイカルチャーに取って代わるかもしれない」
この懸念は、サブカル漫画に携わる者の方が、ハイカルチャーにあたる美術業界より
考えていかねばならない事は多いのだと思う。


日本の漫画がフランスで評価されることに対して
おそらく多くの人は「やった!おめでとう」と手放しで喜ぶだろう。
「フランス人に認められたのだから、もう漫画はダメな文化ではない!
我々の勝利だ」とでも言うように。

確かにそうだ。漫画は弾圧され、否定されてきた。
戦前は漫画がジャーナリズムと強く結びついて
反政府になる事を恐れた。生き延びる為には「政治批判」をこそぎ落とす必要があった。
戦後も漫画はバカがやるという考えだけは浸透していたから
漫画はいつも「権威」に憧れたのかもしれない。
なんとかして自由にやりたい、否定されたくないと。
「認められたいならばどうするか」
それを選択した時点で、もうその資質は自由とは異なっている。
嫌ならバカにされ叩かれ辛苦を舐めてでもアングラ化するしか無かった。
この令和に、既に漫画は文化として「最強」の地位を得ただろう。

自国の美術評価をフランス人が決定し
それを大変にありがたがる?
まず最初にジャポニスムをフランスで紹介した時点で
ビュルティらは「北斎」を至上とした。
それは逆に言えば、フランス人はその聖書に則った審美眼に因って
「日本の美を何も理解してはいない」のである。

フランス人にわかりやすく、共和主義に都合が良いものをチョイスした
わけである。

日本的というものをたとえば、日本文学者が死守してきた概念に基づいて見るならば、
広重はどうだ、雪舟はどうだ、
グローバリズムだのパッションだのにかき消される
西洋人が大嫌いな「カラフルでなく陰湿で薄暗く仄かで、曖昧で小さく弱い」
そういったものは無価値だと否定されてしまうんだろうか?

いくらなんでもフランス人でも日本の幽玄や禅を全くわからないって事はなかろうが
一般的に、キリスト教圏ではどうしても理解できない事が出てくるだろう。
日本人にどうしても理解できないキリスト教の価値観があるように。

漫画は本来弾圧されるべきでは無かった。
まあ、軍国主義を選択するなら規制してしかるべきなのかもしれないが。
その上で、戦前の日本美術界がなぜ洋画家の一部を「赤」として逮捕し
古来からある日本美術をベースにした横山大観らを重んじたかもわかる。


ともかく芸術はフランス人だけのものではないし
「フランス人が評価したものはフランス人にとって尊い」
それだけであって、それ以上でも以下でもない。

漫画が国際的評価をされる事自体が悪いのではない。
「日本をフランス式の価値評価の中でまとめないでください」
ということだ。

誤解したままのジャポニスムがクールジャパンと繋がって進むのなら
日本の美術はもう形をすっかり失ってしまうだろう。


案外、世界は常に日本人の口から
日本の本質を語ることを望んでいるのではないか。

アニメや漫画の日本のカルチャーは国際評価を得て広がっているが
サブカル系の日本人こそ日本の歴史文化に気付くべき時期なのかもしれない。
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