ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.10.22 夕食の意味

2010-10-22 21:32:09 | 日記
 昨夕、疲れた体に鞭打って食事の支度を始めようとしていたら、息子から「たまには夕食はカップラーメンがいい!」と言われた。(夕食作らなくていいんだ、ラッキー!)というより、(なんで・・・)と思った。
 そして息子が生まれて以来、よほど具合が悪かったり、私が不在の時以外デリバリーもとらず、ほかほか弁当やスーパーのお惣菜ばかりの夕食にしたこともなくやってきたことに一体どういう意味があったのだろう、としばし考えこんでしまった。

 仕事から帰ってきて、一度座って休んでしまうともう動くのが嫌になるのでそのまま台所に立つ。が、当然治療中の今、その何でもないことがこれまでにも増してしんどい。それでも、職住近接であり、今は殆ど残業もしていないので、私が帰宅してから、夫が都心から帰ってくるまでにたっぷり1時間はある。息子もお腹をすかせて帰ってくるので、おやつでお腹を膨れさせない前に、夕食の支度を整えて3人で揃って食卓を囲んできた。

 が、カップラーメンの夕食がいいと言う。私が作る食事よりもカップラーメンがいい、と。学校のお友達の中には食事を自分の部屋に持ち込んで1人でする子もいるという。そのお宅ではそういうことが許されているのか。長時間労働のお父さんたちは毎日家族と食卓を囲むことなど出来ないのかもしれない。だから、皆バラバラに個食しているのだろうか。
 3人で毎日の食卓を囲むことの有難みは息子には全く届いていないようだ。自分にとっては当たり前すぎて、有り難みも何もない、ということか。

 週2回の塾の日は息子の帰宅が8時半近くになるので、彼を待っていると食事は9時頃になる。あまり夜遅くに食事をすると、翌朝胃が持たれて調子が悪くなるけれど、それでも夫と私は2人で待っている。さすがに居残り指導などでなかなか”帰るコール(古いですね)”がないと待ち切れずにもう食べちゃおうか・・・、と言うこともあるが、せっかく今まで待ったのだから、やはり3人で食べよう、と待つ。

 そういう気持ち-3人で食卓を囲むということを大切にする気持ち-が、全く通じていなかったのだな、と哀しくなった。この先2人のためにどれだけ食事を作り、どれだけ一緒に食卓を囲むことが出来るかわからないから今を大事にしたい、という私の気持ちが。

 とりあえず「今日はもうご飯も炊き始めてしまったし、急に3人分を2人分にはできないから、一緒に食べて、明日カップラーメンがいいならそうしてあげる。」と言いつつ、割り切れない思いが残った。
 本当にそれだけの夕食で、いいのだろうか。夫からも食事中いろいろ話をしてもらった後、もう一度確認したけれど、やはり夕食はカップラーメンがいいと言い張った。
 もちろん、カップラーメンの食事なんか絶対だめ、とは言わない。昔に比べて種類も豊富だし、美味しくなったし、土日のお昼にちょっと食べるというのは十分ありだと思う。それでも1人で留守番しているわけでなく家族が揃っていて、他の家族が手作りの夕食を食べているのに、育ち盛りの子の夕食がカップラーメンだけでいいはずがない、と私は思う。息子はそういう夕食をしたことがないからそういう夕食に憧れるのだろうか。

 有り難みというのはそのものがなくなってからわかるものなのだ、とすれば、手作りの夕食が有難いということに気付くのは私が夕食の支度を出来なくなって、否でも応でもカップラーメンや冷凍食品等の夕食が続くことになってからでしかないのか、と切なく思う。

 今日は強い意志を持って私と夫の分だけ手作りの夕食、息子にはおかずも分けずにシンプルにカップラーメンだけの夕食にした。当然1つでは足りず、2種類を食べていた。
 それにしても、すっかり夕食作りのモチベーションが下がってしまった。昨日、今日と2日続けてなんとも砂を噛むような食事だった。

 さて、ナベルビン投与後の体調であるが、昨日はお腹の気持ち悪さは殆どなかったけれど、熱っぽい感じだった。測っても実際に熱があったわけではなかったのだが・・・。
 前回は金曜日の午後から体中が痛くてだるくて横になりたいほどだったが、今日は殆どなんともなかった。やはり8割の量ということが効いているのだろうか。
 夕方の打ち合わせが長引いて、結局1時間ほど残業までしてしまったが、帰宅後夕食の支度も洗濯も何とかこなせた。ちょっぴり自信がついた。
コメント
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