ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.1.5 ハーセプチン124回目、ナベルビン7クール1回目

2011-01-05 22:12:54 | 治療日記
 今年の治療始め。
 朝、いかにもかったるそうに起きてきた息子が「今日は外には出られない、頭が痛い。」と言う。ぐだぐだしていたが、「とりあえず、ちゃんと塾には行くように。」と頭痛薬を置き、出かける。最寄り駅から電話して「どうしても調子が悪いようならクリニックに行き、塾に自分で休みます、と連絡するように」と連絡。4日間も電車乗り放題の疲れが今頃出たのかどうか・・・。

 今日は年初めで、かつ月初めの採血もあるため、出来ればもう1台早い電車に乗りたかったのだが。電車は遅れもなく順調に到着。わずか3日前には旅行者として降りたこの駅に、今朝は患者として降りるのだから、なんだか不思議な気分だ。
 病院の最寄り駅から自宅に電話すると、留守電になっていた。クリニックに行ったようだったので、塾に電話して状況をお話し、「クリニックから戻って、もし行けるようなら2コマ目から伺いますので・・・」と連絡する。これから病院に入ると夕方まで電話が出来ないので、とお断りの上。個別指導塾なのだから、ドタキャンでは先生にも申し訳ない。

 採血は20人待ちほどで、覚悟したほどの混雑ではなく30分ほどで無事終了。今日は腫瘍マーカー等フル検査で3本採取。内科に移動してからは中待合に入るまでに1時間半近く、その後診察室に入って先生にお目にかかるまで小一時間かかった。
 今年もよろしくお願いいたします、とご挨拶の後、年末年始の状況をご報告した。ロキソニンはよく効いたが、風邪をひいてしまい、いまだ鼻水が残っている等。
 採血の結果は特に問題なし。白血球は4200、腫瘍マーカーも正常範囲で安定していてほっとした。また、先日受け取った婦人科検診の結果もお見せした。両側の腫瘤疑いについては昨年と変わらず、ということだが、もし大きくなっているようならCTで判るので問題なし、とのこと。予定通りハーセプチンとナベルビンの投与のために、処置室に移動した。次回は水曜日早朝会議のため、木曜日に予約を入れて頂いた。採血はなし、レントゲンあり、ゾメタも含めてフルコースだ。

 処置室は昨年来改装中のため、稼動点滴椅子やベッド数が少なく、長時間の患者さんが多いのでなかなか回転しない。「今日は外科の処置室で点滴しますので廊下でお待ちください。」ということで、売店で昼食を調達して戻る。小一時間して「調整がつき、こちらの処置室で点滴できます。」ということになった。やはり慣れた場所の方が有り難い。今日も針刺が痛み、思わず唸ってしまう。看護師さんいわく「躊躇しながら入れるとポートが動いて針が斜めに入ったりすることがあり、痛むんですね、ごめんなさいね。」とのこと。確かにポートの奥まで針を刺さなければいけないので、直角にきちんと入れないとダメなのだろう。次週からは新しい針が使ってもらえるそうだ。痛みが軽減すると良いのだが。
 血圧測定後、ようやく点滴開始。1時を回っていた。ハーセプチン、デキサート、ナベルビン、生理食塩水の4本が無事終了したのは4時過ぎ。今日も抜針のとき衝撃が大きく、これまた痛かった。
 会計もいつものように混雑していたが、無事支払いを済ませ、病院を後にした。本日の病院滞在時間は7時間半近く。
 さあ、今年も頑張るぞと、朝は誓って病院に入るのだが、帰るときには憔悴し、(はあ・・・、またこの調子で1年か・・・)と、つい弱気になる。なんとも情けないことだ。

 今日は3冊読んだ。
 1冊目は石川憲彦さんの「キレる子と叱りすぎる親―自由に感情を表現する方法」(創成社新書)。題名がとても他人事には思えず手に取った。キレることがあまりにも過剰に問題視されている、ということが著者の問題意識となり、世の中の通説(キレることは罪悪である)と真っ向から対立し、キレることの持つ意味を再考し、うまくキレるようになるためにすべきことを紹介している。それにしても、赤ちゃんが食事中にむずかってご飯や器、スプーンを投げる場面さえ「キレる」と感じる親たちがいる、ということにはちょっと驚いた。

 2冊目は石弘光さんの「癌を追って ある貴重な闘病体験」(中公新書クラレ)。著者はご存知のとおり一橋大学の学長。去年、前立腺の全摘手術を受けられたという。ご自身のお父様が、初発の手術時に既に骨転移した状態で、5年間の闘病の後、同じ病気で亡くなっておられる経験から、ご本人も何時かは自分も・・・と、ずっと早期発見にむけて準備をしてこられている。いかにも研究者という闘病記であった。

 3冊目は上田紀行さんの「「肩の荷」をおろして生きる」(PHP新書)。「なぜ日本人は幸福になれないのか。世界有数の豊かさを享受しながら、いつも不機嫌で疲れきった顔をしている人々。他人の視線ばかりを気にする若者たち。効率ばかりを求める大人たち。誰もが目に見えぬ重圧に、生きづらさを感じている。・・・人生の「孤独」と「癒し」の意味を問い直した思想的メッセージ」と内容紹介にあった。「「肩の荷」はおろす場所がないとおろせない、それゆえ世界には必ず救ってくれる誰かがいる、という支えのイメージが大切で、肩の荷はおろせるということになれば人生はぐっと自由になる」というくだりにはとても共感した。また「人の親になって自分の死について考えることが多くなった(著者は46歳で第1子、50歳をすぎて双子の第2,3子の父になっている)。何かの都合で脳死や植物状態になるとして、子どもがいないときは延命治療を拒否して尊厳死を選択しておくのもありだ、と思っていたのが、小さい子どもを見ていると、あと10年くらいは、脳死や植物状態でもベッドの上で生きていたい、という思いがある」という。「それが子どもにとって重要な意味を持つかもしれないと思うから」と。はて、私はどうだろう。植物状態でも暖かい物体としてそこに生きている意味があるのだろうか、としばし考え込んでしまった。

 夫が、勤務先から自宅に電話を入れて、息子の状況を把握しておいてくれたので、病院で夫とメール連絡をとると、クリニックでは「午前中は安静にして、インフルエンザかもしれないので、午後もし熱が出るようならもう一度来るように」とのことだったと聞いてドキドキしていた。病院を出るときに自宅に電話すると、とりあえず熱はないようだった。塾にもお詫びの報告電話をした。
 帰宅すると、もらった薬はまだ飲んでいないという。昼食はしっかり2食分たいらげていたので、明日は大丈夫そうで、ほっとした。
コメント (5)
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