昨夜も、座ったまま寝ざるを得ないことになったらどうしたものか、と案じたが、何とかうまいこと横になった体勢で眠りにつけた。 それにしてもこれからずっとこんな状況になったら・・・先が思いやられる。
朝は日曜仕様のアラームが鳴るより前に目が覚めるが、前夜に比べてよく眠れたようだ。寒いのでベッドでウジウジしているうちにまた咳が出始める。痰には血が混じるし、鼻をかめばこれまた血が滲む。血小板が低下してきているのだろう。
苦しいけれど、痛みが酷くないからまだ何とか心の平静を保っていられる、と書いたが、「苦痛」という言葉は苦しくて、痛いと書くのだなぁと改めて納得する。苦しくて痛いのでは逃げ場がない。いずれにしても、そういう時こそ心穏やかになるために常日頃から深呼吸を推奨しているのだが、呼吸を深くしようと息を吸い込むと咳き込み、なかなかうまくいかないのが困りものだ。
ノロノロ起きて朝食。もうすっかり朝食の支度は夫にお任せ、どころかここのところ、食事の支度らしいことは全然出来ていない。今朝はミネストローネスープが出来ていた。じゃがいものポタージュやオニオングラタンスープが続いていたので、トマト味が好きな私には新鮮で美味しかった。食事を摂るとすぐに腹痛になるが、便秘でも下痢でもないお腹は快調だ。
遅くなったけれど、洗濯機を廻して干す。
午後からは、3時間コースで断捨離忘年会2024~幸せになるための断捨離~に参加した。去年は断捨離1年生として初めて都心のホールまで出向き現地参加をしたけれど、今年は初の試みでオンライン開催なのだそう。
時間が経つとどんどん参加者が増えてきて、最終的には220名を超える大盛況だった。埼玉、岡山、佐賀から3人のトレーナーさんが登壇された。
まずはひでこさんのお話から。
“幸せ”そのものは形がなく、感じるもの。コロナ自粛下で人と会う自由を失っていたことは私達にとって不幸なことだった。自由に誰かと会ったり食事したりすることが、どれだけ幸せなことか気づいた。
「断捨離」は“過剰”を憂えている。過剰は不幸の要因だ。私達は過剰過ぎるモノを持て余し、過剰な情報に振り回され、過剰だけれど希薄な人付き合いに煩わされる。人は断たれてみて初めてその有難さに気づく。何か手に入れた時、一瞬の高揚感はあるが、意図的に一旦「断って」「捨てて」「離れる」こと。もっと、もっと、ということでしみじみとした幸せから遠のく。今ある幸せに気付けるよう引き算をしていくのが断捨離。
(TV取材で)断捨離現場であるお宅を訪問し、第三者の目から見ると、空間に対して半端でない過剰なモノがあるが、本人はそれほど感じていない。ただ、なかなか片付かない、と言う。淀んでいるのが当たり前で、押し入れの中は一杯だけれど、一度出すととんでもなく大変なことになるのは分かっているから、やらない。じっと動かないでいる。
感動がない人が大半だ。体にも感情にも響かなくなっている。こういう場合、言葉で変えるのはだめで、体感することが必要。まず動いて感じることが感動。
モノは自分自身だ。モノを手に入れて留め置くのは自分自身の意識、思考、感覚、感性の証拠品である。空間はあなたを包み込む環境。空間は自分をもてなし、労い、励ましてくれるもの。だから、自分自身が自分をどう扱っているか如実に語られる場所。なのに、ネグレクト(放置)して自分を虐めている状態にある。今の自分に問いかけて不要、不適、不快なものを取り除く行動を起こすと、自分を大切に扱えるようになり、自分自身の取戻しが図れる。
ここで一番目のワーク。今、自分の家で過剰だと思うモノを10個書き出そう、である。なるべく具体的に。制限時間は5分。
ひでこさんはクローゼットの断捨離をしてTシャツが17枚も出てきたことを披露される。今年出かけた出張の記念(印)が欲しいとご当地Tシャツを買った、捨てるのは惜しいと綺麗にして畳み直したそう。
続いて2番目、今身の回りのモノで丁度良い塩梅のモノを5つ書き出そう、これも制限時間5分。
その時その場で「丁度良い」は変わってくる。かつては2枚しかなかったTシャツが17枚になったのは、ストレスをモノで解消したい、記念が欲しいという気持ちから。選び抜き、絞り込むことで加点評価したい。
加えたり減らしたり(加減:良い加減)して今の自分を意識する。私達は油断するとつい過剰になる。普段から不断に行うことで、習慣化、自由化(オートラン)し、すぐに過剰に気付いて、引き算できるようになる。
10分休憩の後、3人のトレーナーさんが登場。それぞれの断捨離との出会い、断捨離で何を回復させたか、ご家族との関係などご自身の気づきの体験談の話をされる。
一つ印象に残ったのは、お一人のトレーナーさんのご自宅で、一枚板のテーブルを汚したくないとビニールカバーで覆っていたのを見て、ひでこさんが「テーブルが苦しそう、あなたそのものよ」と仰ったそう。木は呼吸しているのだから、と。我が家も同じ、である。いい機会だ、なくてもいいかもしれない。一度取り除いてみようかな、と思っている。
そして2024年締めくくりのワーク。忘年会だから、忘れるためにまずは振り返ってから、とマイ重大ニュースのベスト5、ワースト5を書き出そう、これも制限時間5分少々。
私はこのブログで毎年自分の重大ニュースを書いているので、ここではとりあえず何を書いたかは明らかにしないでおくが、トレーナーさん3人はそれぞれベスト1がこの忘年会参加(登壇してひでこさんと座談)だと仰っていたのが、これまた印象的だった。なぜベストか、なぜワーストかの振り返りが必要とのこと。
そして閉めの4番目のワークは「2025年大晦日にあなたをお連れした。自分自身が1年を振り返って重大ニュースを書き出そう。」。
残念なことではなく、嬉しいことを、そして完了形で書くのがポイントだ。10書き出すのは大変だったが、この「自己達成予言」は潜在意識からくると、殆どの人が残念なコトを書いてしまうのだそう。どうせ、とかやったって無理、とか。けれど、ここで宣言すると予定通り未来に切り込んで行けるので、どなたか発表したい方は?の声掛け。男性1お一人、女性お一人が挙手された。なるほど、瞑想ヨーガでサンカルパ(願い事)を決める時も「、~でありますように」ではなく「~です」と言い切りの形にする。それと同じだ。
ひでこさんは「断捨離本は20か国語に翻訳されているが、いよいよ英語版が出版された、手にしてくださった方が人生をご機嫌にすると思うと、嬉しくてたまらない、ありがとうございます。」とのこと。
最後は断捨離体験談の入賞作7点、大賞作の発表があり、大賞作はひでこさんが全文を読まれた。
3人のトレーナーさんからそれぞれ今日の感想や思いが一言ずつあり、ひでこさんからは幸せに形はなく、探すものではなく、気づくもの。シンプルに綺麗な所にいたら気持ち良いということだ。
昨年の断捨離祭りで、2024年は「朗らかな1年にしたい」と言ったが、2025年は「潔く」の自分でありたい。これが来年のモットーと仰る。ダンシャリアンは潔いもの、との言葉に、私もブログのタイトル通り、潔く生きたいものだと改めて思った。
ということで中身の濃い3時間を過ごしたら、途中でおやつを摘まんだもののさすがに空腹で、ぐったり。リビングに移動して、朝の残りのスープにパスタでもちょっと入れてみようか、とコンロの前に立ったら、夫がちょっとしたスープパスタのおやつどころでなく、1食分のパスタに仕上げてくれた。有難く頂いたが、こんな時間にしっかり頂いたら、もう夕飯は要らない感じ。
リビングで毛布にくるまって、夫が取り込んでくれて乾いた洗濯物を畳む。
その後、2人で旅番組の録画を視ているうちにあっという間に夜。私が夕食不要になったので、夫は一人で力うどんを作って食していた。本当に今週は夕食の支度をろくにしなかった。夕方から夜にかけて、少し喋るとしぶとい咳が出始めて涙が出続けるほど苦しい時間が続く。なんとなくだるいし、味覚異常であるし、を言い訳にしているが。
今日も母とMeet通話をしたものの、母に喋らせて私はろくに声を発しなかった。年末の温泉旅行はキャンセルしてね、とのこと。今日は寒かったので、何もしなかったけれど、歩けなくなると困るので、ショッピングモールまで往復したとのこと。私は籠城蟄居だから、母の方がよほどちゃんと歩いていると思う。
早くも明日からは12月2週目。今日はパールハーバーの日だったことを思い出した。もはや83年も前のことなのだが。