中国語学習者のブログ

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北京史(十) 第四章 遼宋金時代の北京(2)

2023年05月04日 | 中国史

薊県独楽寺観音閣

第一節 遼代の南京と北宋の燕山府

 

遼代の南京(続き)

寺院の建築 遼の南京の建築物は、有名で考証できるものとして、南城に于越王廨(かい)、また永平館、旧称碣石館(けっせきかん)があり、何れも官僚や使者が宴会や集会をした場所であった。西城の上には、涼殿(りょうでん)が建てられていた。仏教が盛んであったので、城の内外には廟宇が方々に望めた。金初の洪皓は、城内で規模の比較的大きな廟宇が三十六ヶ所あった、と言った。憫忠寺(びんちゅうじ。今の法源寺)の高閣は、天に届き空に入るほど高く、俗に「憫忠の高閣、天を去ること一握(の距離)」と称した。開泰寺は魏王耶律韓寧が建立し、銀で鋳造した仏像で著名であった。「殿宇楼観は雄壮、全燕に冠する。」この他、更に延寿寺、延洪寺、三学寺、仙露寺、昊天寺などがあった。当時、の域内では律宗が盛んで、これらの大きな寺院は皆律宗寺院であった。後に南方の仏僧が禅宗を伝え、別に大覚、招提、竹林、瑞像の四つの禅宗寺院が創建され、これより禅宗が隆盛した。これらの寺院の建築状況について、私たちは既に窺い知ることはできないが、今日まで保存されている薊県独楽寺観音閣から見て、それらが勇壮で重厚、華麗でりっぱであったことが分かる。今の城西区阜成門内の白塔寺白塔は、代々、道宗の寿昌二年(1096年)の創建と伝えられ、釈迦の仏舎利を蔵するため建立され、形は幢(はた)の如く色は白く、ゆえに白塔と称した。(白塔寺は元代に大聖寿万安寺と称し、明代に妙応寺と改称した。)

北京妙応寺、即ち白塔寺

塔の高さは50.9メートル、塔内にはもともと舎利二十粒、青泥の小塔が二千、『無垢淨光陀羅尼経』五部が蓄えられていた。元の世祖の時、また白塔に対して装飾を加え、銅網と石の欄干を付け加え、より荘厳で華麗に見えるようになった。劉侗の『帝京景物略』の記載によれば、遼主は燕京の五方をそれぞれ塔で鎮め、塔は五色に分かつと伝えらたが、白塔のみ保存された。「今四色中、黒塔、青塔は廃されるも、その寺は在り、人は黒塔寺、青塔寺と呼ぶ云々。」(すなわち大天源延聖寺と永福寺)専門家の考証によれば、現在北京城内広安門付近の天寧寺磚塔は、遼代に旧塔の遺跡の上に建てられた。この塔は北京の現存の古建築中の最古のもののひとつで、また中国に現存する式磚塔(みつえんしきせんとう。中国でよく見られる、軒と軒の間を狭くして何層にも連ねた磚塔。例えば、西安の小雁塔がその例の典型的なものだ。

天寧寺磚塔

この古塔の平面は八角形で、全部で十三層の庇があり、全高57.8メートルである。ここは、元々は北魏の光林寺で、隋では弘業寺、唐の開元年間に天王寺に改められた。明朝に到り、朱棣(しゅてい。第3代永楽帝)がまだ皇帝になる前、「特に高さを高くされ」、宣徳年間に天寧寺と改名されたが、清朝ではそのまま改名されなかった。この古塔は明清時代に再建された。

 

 房山石経山雲居寺に所蔵の石経は貴重な仏教文化の宝物である。隋代の幽州僧、静琬(じょうおん)が石を削って碑としたものに経典を刻み始めた。唐初にその弟子が継承し、引き続いて刊刻した。石経は石室の中に収蔵され、石に鉄を溶かしたものを注ぎ込んで門とし、資料を保存した。遼の聖宗の時、韓延徽の孫の紹芳が石室を開けて、中を確認し、聖宗に上奏し、僧人の可玄に命じて引き続き刊刻し、欠損したものを補い新しいものを継続して刻ませた。この仕事は遼の滅亡までずっと継続され、大小の石経板を五千個近く完成させた。これは仏教経典の保存に有利であるだけでなく、同時に仏教経典に対する比較的大規模の校勘(こうかん。古典の刊本、写本を比較し、できるだけ原本を再現しようとすること)整理となった。遼代に印刷された『大蔵経』は、通称を『丹蔵』(『契丹蔵経』)と言った。興宗は燕京の僧人、覚苑に命じて仏教経典を収集、校正、刊行させた。道宗の時、覚苑と玉河県の人、鄧従貴は『大蔵経』五百七十九(ちつ。書画を保護するため包む覆いで、「帙」に入れた書物の数)を印刷し、陽台山清水院(今の大覚寺)に収蔵した。その後、易州水県金山演教寺がまた五百 帙余り印刷し、収蔵した。『丹蔵』は「帙簡部軽」、「紙薄字密」と褒め称えられ、印刷や装丁などの技術は、たいへん高いレベルを備えていた。

 民族矛盾と反抗闘争 遼は南北分割統治を実行し、燕雲地区の社会経済の保護に積極的な役割を果たしたが、同時に民族差別と民族圧迫のひとつの現れであった。遼代の漢人は、納税、刑法、仕官などの面の待遇にも、契丹人と比べて不利であった。当然、民族圧迫政策の下で迫害を受けたのは、主に下層の人々で、北宋の蘇轍はこう言っている。「北朝の政は、契丹に寛大で、漢人を虐げるは、蓋し已に旧きか。然るに臣ら山前の諸州の祇候、公人を訪ねて聞くに、小民争斗し殺傷する獄に限れば、この弊あり。燕人の強家富族に至れば、此の如く至らずに似たり。」ここに明確に民族矛盾の階級の実質を見ることができる。

 

 石敬瑭によって売られた燕雲の人々は、深く故国を懐かしむ思いを抱き、国の恢復を望んだ。周の世宗の北伐勝利は、漢人の将軍の投降に関わっていた。宋の太宗は燕京を包囲し、「脅しを招くこと甚だ急にして、人は二心を抱き」、「謀りて劫守を欲する将、城を出て降る」。宋師敗退の知らせを伝え聞き、城中の父老はその子を撫で、嘆息して言った。「爾は漢民に為るを得ず、命なり。」辺境の民の中で捕虜となる者は逃亡して燕に至り、人々は彼らのために旅費を集め、ガイドを提供し、彼らを宋との境に送った。北宋が派遣した使節の契丹人は、燕京の驛舎の中に、壁にカラスの絵を描き、その横にこう書いた。「星が稀で月が明るい夜、皆南に飛ばんと欲す。」正に人心が漢を思う気持ちの現れである。

 

 遼代の中期以降、過酷な搾取と天災の襲来を受けた燕京の人々は、立て続けに蜂起し反抗した。聖宗の太平七年(西暦1027年)、「幽薊の民は飢え、強盗がおびただしく増加した。」興宗の重熙十三年(1044年)、「香河県民の李宜児は左道を以て人々を惑わし、死刑に処せられた。」遼の末年に至り、女真族が東北で決起した。女真に対し兵を用いるため、天祚帝は燕京地区の人々に対する搾取を一層強化した。当時の南京の正額課税は五百四十九万貫の巨額に達し、その他の過酷な取り立てはこの中に含まれていない。多くの民丁は東北の辺境防備に徴兵された。水県の農民、董才、あだ名を董龐児は、徴発されて兵隊となり、その後、彼はこっそり逃げ帰り、1107年(乾統七年)千人以上の農夫を集め、むしろ旗を掲げて蜂起した。 董才は「扶宋破虜大将軍」と自称し、反民族圧迫の旗印を掲げ、幅広い漢人を動員して闘争した。遼は大軍を派遣して鎮圧し、董才は倒れる度に立ち上がり、双方の人数の差が極めて大きい困難な状況下、粘り強い闘争を行った。最後に圧迫されて南に走り、北宋に投降した。

北宋統治下の燕山府

 宋金両軍の連携と北遼の滅亡 女真の遼に対する厳しい威嚇により、腐敗した北宋の統治者は乗じるべきチャンスと考えた。徽宗1120年(宣和二年)趙良嗣(元の名を馬植)を派遣し、山東から海に浮かび女真と連携し、「海上の盟」を締結し、両国軍を連携させて遼を攻め、金人は中京大定府を攻撃し、宋は燕京析津府を取り、長城を界とし、互いに軍隊が関を越えないようにした。成功すれば、燕雲十六州の地は宋朝に還し、宋は引き続き毎年遼に送っていた歳幣の絹五十万匹を金に与えることとした。金人は兵を挙げて遼を攻め、破竹の勢いで、1122年(宣和四年)春に中京を陥落させ、天祚帝(てんそてい)は西に雲中に走った。宋朝はその知らせを聞くと、急いで宦官の童貫に命じて軍を率いて北辺を巡回させ、金の軍隊に応じた。

 

 遼の天祚帝が西に逃亡して後、南京の大臣の耶律大石、肖干、李処温らが耶律淳(やりつじゅん)を擁立して帝とし、天錫皇帝を号し、建福(1122年)と改元し、歴史上、北遼と称した。耶律淳は間もなく病死し、香山の永安陵に葬られた。遺命で秦王定を擁立して帝とし、徳妃肖氏を以て聴政を制すると称し、徳興と改元した。五月に宋軍は白溝に進出したが、一戦して潰れ、保雄州に退いた。7月、再び童貫、蔡に命じて兵を進め、郭薬師の「常勝軍」が涿、易の二州を降伏させたことにより、宋軍はようやく良郷に迫った。郭薬師は渤海鉄州(今の営口の東南)の人であった。耶律淳は遼東の飢えた民を募って兵とし、これをして女真に恨みを晴らそうとさせ、ゆえに「怨軍」と称し、後に「常勝軍」と改称した。宋、遼の両軍は盧溝河(今の永定河)を隔てて対峙し、郭薬師は奇兵を出し、軽騎を率いて虚をついて固安、安次を迂回し、早朝に入城する草車の行列の中に紛れ、春門を奪って南京城に攻め入り、陣を憫忠寺の前に並べた。郭薬師は命令して燕人を投降させ、契丹、雑虜を尽く殺し、使節を遣わして肖妃に投降を促した。この軍隊は大酒をむさぼり略奪をはたらき、少しも規律が無く、加えて連日の戦闘で、疲労困憊していた。然るに劉延慶率いる大軍が盧溝河の南に駐屯しており、援軍を送る予定は無かった。午後、肖干の「四軍」が城に戻り支援に入り、三市で戦闘となると、郭薬師はただ少数の人と馬を捨て城壁から降りて脱出した。気の弱い宋軍は、郭薬師敗戦の知らせを聞くと、大いに恐れ、軍営を放火して焼き、次々と退却した。熙寧以来、長期に備蓄した軍需器械は、これにより尽く失われた。童貫は軍事が一たび負けると、燕京を回復できなかったことで罪に問われるのを恐れ、秘密裏に使者を派遣し、金人に助けを求めた。12月、金人は居庸関、得勝口から2ルートで南下し、肖后、耶律大石らが古北から西に天徳へ向かった。金兵は南門から南京城に入った。遼の宰相の左企弓、枢密使の劉彦宗らが出陣した。

 

 北宋の燕山府 宋は金に元々の約束の通り、燕雲十六州の地を返還するよう要求し、元々石敬瑭の割譲の列に入っていない営、平、溧(りつ)の三州の回復を提案した。金は宋人の出兵が時期を逸したことを責め、元々の約束はもはや失効したと見做し、ただ燕京と山前(太行山脈東南の7州)の薊、景、檀、順、涿(たく)、易の六州だけ宋に与えるのを認めるとした。そして威嚇して言った。もし宋が平、 溧などの州をどうしても要ると言うなら、燕京も与えないと。同時にまた燕京を金兵が取ったことを理由に、毎年燕京の租税六百万のうちの百万貫(穴明き銭を緡(さし)という紐に通し、銭1000枚を1貫と言った )を借款料に代えて金人に贈り、報酬とするよう要求した。交渉を経て、宋人は金人の条件を全て受け入れるしかなかった。金人が遼の投降者、郭薬師率いる常勝軍を追及しないで済むよう、宋人は自発的に、およそ幽燕域内の家財百五十万貫以上の富裕層は、ことごとく金が捕虜にして関外(山海関より東)に連れ去ることを認めると提案した。1123年(宣和五年)、金人は燕京の城壁や櫓(やぐら)、要塞を徹底的に破壊して後、あらゆる財貨を席巻し、富裕者三万戸余りを北に連れ去った。このため「庶民や寺院は、きれいさっぱり無くなり」、「都市は廃墟となり、狐や狸の住まいとなった」という景観が生まれた。宋人が得たのは、空の城に過ぎなかった。

 

 宋朝は南京を燕山府と改称し、郡は広陽であり、王安中により燕山府が知られる。当時、燕山府地区は、金人による略奪の余り、「桑を植える農具すら、何一つ残っていなかった。」宋朝がここを回復して後、政府は少しばかりの食糧や絹織物の収入さえも得られなかっただけでなく、常勝軍と戌軍の軍糧だけでも毎月十万石あまり必要で、その他の各軍と諸州の官吏の食糧はそれには含まれなかった。これらの食糧は河朔、山東、河東からの運搬に頼っており、しばしば一石運ぶのに十石から二十石の費用がかかった。それゆえ一年もしないうちに、内外の倉庫は空っぽになり、斉、趙、晋、代の民力も同時に尽きてしまった。宰相の王黼(おうふ)はそれで免夫之令(徭役に代えて銭を納める命令)を出し、燕山での賦役は、全国で賦役を起こさないといけないことから、その発動を停止し、「賦役の日数の多寡を計算し、できるだけ免夫の銭を出し、期限を守らない者は斬首する。」全国で全部で徴収した免夫の銭は六千二百万貫余りに達したが、そのうち三千万は燕山に払わないといけない費用で、残り三千万は予備の備蓄としたが、実際は朝廷により他に流用され、浪費され、湯水のように使われた。このようにして、1124年年末に王黼が職を辞す時には、燕山の費用は「日夜欠乏を告げ」、山東、河北でも人々の不満が沸騰し、あちこちで反抗勢力の蜂起が起き、少ないものでも数千人、多いものは数万人にもなり、政府はもはや正規の租税徴収の割り当てさえできなくなっていた。

 

 燕山府の陥落 1123年(宣和五年)、金人が燕山府の富裕層の北方への移転を強制し、平州(今の蘆龍)を通過した時、これらの捕虜となった人々と当時平州留守の任にあった張覚が連合し、金人に反抗した。張覚は元々平州地方の土豪であったが、乱に乗じ平州に拠って金に降伏し、金人は平州を昇格させて南京とし、張覚を同中書門下平章事とした。張覚らは金に背いて後、宋朝に帰順しようと決意した。金人はその知らせを聞き、直ちに兵を派遣し攻撃させたので、張覚らは燕山府に逃げ込んだ。しかし、これら捕虜にされて北に移され、金に背いて南に帰ってきた富裕層の人々は、ふるさとに戻って来てみると、元の家屋や田地が既に尽く常勝軍の将校たちが占拠しているのを見て、失望し、恨みに思った。この時、金人はまた使節を送り王安中を脅して張覚を引き渡すよう迫った。弱腰の宋朝は金人を怒らすのを恐れ、王安中を責めて張覚を縊り殺し、その首と彼の二人の子供を金人に送り届けるよう命じた。このことは燕の地の人々を一層恨みに思わすこととなり、宋からの離反の気持ちを生じさせた。1125年(宣和七年)、金は山後(太行山脈西北の9州)の天祚帝(てんそてい)の残存勢力を消滅させて後、盟約に背いた反乱分子を収容することを口実に、二路に分かれて大挙して北宋を南伐した。西路は粘罕が率いて、雲中に出た。東路は斡離不が率いて燕山府を攻撃した。宋朝は郭薬師に命じて兵七万で (今の通県)で敵を止めさせたが、大敗し、燕山に逃げ帰った。郭薬師はそれでまた宋朝に背き、燕山府が蔡靖を捕らえたことを知るに及び、斡離不に投降した。幽燕地区はこれにより、金人の手の中に落ちた。