今回は、麻花(マーホア)という小麦粉の生地を油で揚げた菓子を取り上げたいと思います。これは、小麦粉を使って作った菓子類では、歴史の最も古いものだと思います。日本に奈良時代に伝わった唐菓子も、同じ種類に属するものでしょう。本文では、このお菓子の歴史から、後半には、天津名物で、中国内では天津土産として必ず買われる、“大麻花”について、ご紹介します。
寒具から麻花まで
長江の北方にも南方にも、“繖子(サンズ)[注1]や“麻花”(マーホア)というお菓子があり、サクサクとした食感の麻花、蜜麻花、芝麻(ゴマ)麻花から、独特の風格のある(“別具一格”)天津十八街の什錦加餡大麻花まで、様式はそれぞれ異なり、味も様々である。“繖子”、麻花は中国の古い食品である。“繖子”は古くは“寒具”と称し、戦国時代の屈原の《楚辞・招魂》の中にも記載があり、後世の劉禹錫、蘇東坡もその美味を賞賛し、詩に詠んでそれを称えた。“寒具”とはどのような食べ物だったのだろうか。明の人、李時珍は、《本草綱目》の中で、こうはっきりと書いている。「寒具とは“繖”を食することなり。モチ米と小麦粉に、塩を少し入れ、紐状に伸ばし、ひねって輪っかのような形にし、口に入れるや雪を踏むようにもろく砕ける。」
[注1] “繖(糸偏でなく食偏)san3子”。《新華字典》には、油で揚げた食品とある。以降、“繖子”と表記する。
民間の伝説によれば、寒具の起源は春秋時代に遡る。2600年余り前、晋の献公の息子の重耳は継母の迫害から逃れる為、国外を何年も流浪した。一度は途中、衛国を通った時、重耳とその随行者は襲われて殺されそうになり、荒れ果てて一軒の人家も無い(荒無人煙)所まで逃げた。重耳が腹一杯食事を食べることのできない(“食不果腹”)時、付き従っていた介子推は主人に忠誠を尽くす(“忠心耿耿”)為、自分の膝の肉を割き、それを煮てスープにし、彼の飢えをしのがせた。重耳はたいへん感動し、将来自分が王に即位したら必ず重臣に取り立て、ほうびを与えようと言った。後に、重耳は本当に即位し、晋の文公になったが、論功行賞でどうしたことか介子推の存在を忘れてしまった。しかし介子推は恨み事も言わず、こっそりと家族と綿山に隠居した。
晋の文公は人々の不満の声の中で、ある日ふと介子推のことを思い出した。そこで自ら人を連れ四方へ彼の足取りを捜した。やがて綿山に到ったが、介子推は避けて会おうとしなかった。晋の文公は気持ちが焦るあまり、山に火を放ち、介子推が無理やり山から出てくるように迫った。しかし、思いもかけないことに、介子推は決して意志を変えることなく(“堅定不移”)、最後には、樹を抱いて山火事の中で焼け死ぬとも、出て晋の文公に会わぬことを選んだ。晋の文公は、感動と悲しみ、憐れみの気持ちが交錯し、大火を責め、国中に命じて介子推の命日の前三日間は火を使うことを禁じた。人はどうして炊事を止めることができるだろうか。しかし人々は良い方法を思い付いた。この日の数日前に、保存のきく、変質しない食べ物を油で揚げて作っておけば、食事をするのに都合がよい。これが、それ以降俗に言われる寒具である。寒食節も、このことに由来する。
宋の人、庄季裕は、《鶏肋編》の中で寒食節の細かい内容について記録している。
飯麺餅餌(飯は米、それ以外の麺、餅、餌は何れも小麦で作った食品)の類は皆、(寒食節の三日間のうちの)二晩の備えである。キビ粉を蒸して甘い団子を作り、切って日干しすると、もっと長く保存できる。松の枝に棗糕(ナツメ入りの小麦菓子)を挿して門の上の横木に付けたものを、“子推”と呼び、何年も置いたものは、口の中のできものを治すことができると云われた。
寒具は、最初は米粉を使っていたが、後に小麦粉が使われるようになり、製作の中で砂糖を加えたり蜜を混ぜたりして甘いお菓子にしたり、塩を加えて塩辛い食べ物にし、味の種類は絶えず豊かになっていった。今日に至り、“繖子”の名は南方でも北方でも昔と変わらず聞くことができるが、人々がもっと好きなのは、“繖子”から発展した各種の麻花で、“繖子”も次第に麻花の品種をざっと挙げた時のその一種と見做されるようになってしまった。
“繖子”の作り方は、先ず、ミョウバン、炭酸ソーダ、赤砂糖(漂泊していない砂糖)、キンモクセイの花などを温水で溶かし、小麦粉を加えてかき混ぜ、小麦粉が練って柔らかくなったら、一個一個小さくちぎり、ゴマを貼り付け、二本の細い紐状にしたものをより合わせ、何回か巻いたら、一本か二本の頭の部分を挟んでいっしょにして、油を熱した鍋で揚げる。揚げる時には火加減と“繖子”の形に注意し、紐と紐がくっつかないよう注意する。黄金色に揚がった“繖子”は甘い香りがして、サクサクとして壊れやすく、たいへん美味しい。この他、内蒙古の羊油(で揚げた)“繖子”、青海省の蜜“繖子”も、少数民族地区の特色あるお菓子である。
脆麻花、芝麻麻花は、昔の北京のお菓子で最も人気のあるものだった。砂糖を混ぜた小麦でできた脆麻花は、三本の麺をより合わせ、長さは12センチ前後、通常の揚げ油の温度の六、七割の、低温の油で揚げて、一本、一本の間が多少緩んで動くぐらいになったら、揚げ上がりである。芝麻麻花は、小麦粉を小さくちぎった時にゴマをつける。更に、芙蓉麻花は、麻花が油で揚がった後、漂白した小麦粉と白砂糖を混ぜたものの上を転がして、砂糖の層を作るので、独特の風味がある。よく見かける麻花の作り方に、“倒三股”、“縄子頭”などがある。縄子頭麻花は、両手で麺を押えながら左右両端をより合わせ、両端を持ち上げて繋げて輪にすると、より合わせた力で、麺は勝手によじれて麻花の形になる。最後につなげて輪にした両端を軽くいっしょに押さえつける。
麻花を揚げるのには要領がわかっていないといけないと言うなら、麻花はほとんど芸術作品を作っているかのようであるが、それなら、それより一頭地を抜いている(“高人一等”)天津大麻花のことを言わないといけない。現在に到るまで、短期間、天津に来たことのある外地の人にとって、天津の何の印象が最も強いかを聞いてみたら、その中の多くの人が、口を開くや、大麻花と言うだろうと思う。
1920年代の初頭、河北省滄州出身の劉八が、天津東楼で麻花店を開いた。店では範桂才、範桂林の兄弟が店員をし、麻花作りの技術を学んでいた。劉八はたいへん細心で頭がきれ、麻花の材料の配合、加工技術、製品の食感、外形などにたいへん気を配り、彼が揚げる麻花は風味豊かで、たいへん人気があった。十数年語、劉八の麻花店は、種々の原因で廃業した。範桂才、範桂林の二人は、1936年前後にそれぞれ麻花を商う小さな店を開き、店の名は桂發成、桂發祥と言った(民間資本を吸収して公私共営を行う時に、二店は一つに合併して桂發祥になった)。兄弟二人は頭の回転が速く、彼らはこれまで学んできた技術と自分の理解や知識を完全に理解(“融会貫通”)していたので、作られた麻花は更に甘く香ばしく、サクッとした口当たりで、お客は絶えることがなかった(“盈門”)。麻花店の住所(旧住所)が東楼十八我街付近であったので、人々は俗に“十八街麻花”と呼んだ。
十八街の麻花には、“花理虎”、“縄子頭”などの種類があり、その製造過程は独特で、厳格である。麻花は一般に酥餡条、麻条、白条が組み合わされている。酥餡条は、熱した油と小麦粉でパイ生地を作り、更に胡桃の実、青梅、キンモクセイ、青紅絲、閩姜、ゴマなどを餡に使ったものである。白条は、砂糖液を小麦粉の生地に揉み込んだものである。同時に一部の白条にゴマを貼り付けたものが麻条である。酥条、麻条、白条をいっしょにねじり合わせて様々な模様にし、これを麻花の白地(油で揚げる前の状態)とする。油で揚げる時は、落花生油を用い、油の温度は二百度前後に調整し、弱火にして充分に火を通す。鍋の中で麻花は三十分以上の時間をかけて揚げられ、出来上がった黄金色の麻花の上には、更に氷砂糖をかけ、青紅絲や南瓜の種の仁などを散らす。
十八街麻花は使う材料の配分が正確で、例えば半斤の重さの麻花を揚げる時は、油四両、白砂糖二両五銭、氷砂糖半両を使う。麻花は小麦粉を発酵させる酵母、パイ生地に練り込む油、炭酸ソーダなどの面でも少しも疎かにせず(一絲不苟)きちんとした要求があり、また状況を見ながら随時変化させた。十八街の麻花は、酵母は大きく膨らむ強いもので、生地は硬すぎず柔らかすぎず、炭酸ソーダは強すぎず弱すぎず、パイ生地に使う油は多すぎず少なすぎず、火力は弱すぎず強すぎず、このようにして初めて品質を同じに保つことができ、香り、甘さ、サクサク感、歯ざわり、色つや、外観が一つ一つすばらしい。製造技術が精緻であるので、十八街桂發祥の麻花は数か月置いても味や香りが抜けることがなく、油が回って柔らかくなってしまうことがなく、変質しないという優位性を持っており、その名声は長きにわたって続いており、国内だけでなく海外でも歓迎されている。
【出典】由国慶編著《追憶甜蜜時光―中国糕点話旧》百花文藝出版社 2005年
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