この記事は2012年10月14日のコピーです。
今の私の感覚は、この頃に近いと思い、コピーしました。
東京新聞杯第3支部予選最終日の今日、都大会出場チームの順位が決まりました。
1位 ジュニアファイターズ
2位 三砂ジュニア
3位 辰巳ジャンプVC
4位 ブルーライトニング
5位 渚ジュニア
6位 二砂小VC
7位 鹿骨ジュニア
辰巳ジャンプは1~4位リーグ。この最上位リーグに戻ってくるのに、なんと7年間もかかってしまいました。それでも、もう二度と支部1位決定リーグには行けないだろうと感じていた5年前のチーム解散の危機から立ち直り、ここまで来るのに時間はかかりましたが堂々の支部3位を勝ち取るチームになったことが本当に嬉しいです。この上位リーグはすでに都大会出場が決まっている4チームの試合ですから、妙なプレッシャーもなく、本当の意味でガチンコの実力勝負となりました。どのチームの子どもたちも持てる力をフルに発揮して試合をしますから、ベンチで指導していても、審判台で審判をしていても本当に楽しい6試合でした。「やられた!」と思ったスパイクをレシーバーがファインプレーで拾い上げて攻め返す試合の連続。会場がどよめくようなサーブやスパイク。子どもたちの全力プレーに、応援する大人が酔いしれる1日をすごさせてもらいました。
今日の試合で一番感じたのは、2位になった三砂さんと3位になった辰巳が、ファミマ杯で予選負けした悔しさを忘れずに、この夏、猛練習をしてチーム力アップしたこと。ファミマ杯支部10位の三砂、支部13位の辰巳が、支部2位、3位まで順位をあげたのですから、子どもたちのものすごい努力があったんだと心から讃えたい。
さて、今回の都大会は、初日に全チームが荒川総合スポーツセンターに集まり、開会式の入場行進をすることになっています。これがいいんですよね~! 子どもたちの晴れの姿を保護者の皆さん、目に焼き付けてくださいね!!! 参考までに私が大田区のチームを指導している時に初めて都大会に出た時の感動の日記を紹介します。(なんか今の辰巳ジャンプの状況と似ているかもしれません)
【ここから】
「こんなに嬉しいことがあったんだなぁ!」
平成11年6月。東京体育館。
小学生バレーボールを指導しはじめて6年目。
それまでの4年間連続で、東京都大会の出場切符を「あと1勝」というところで逃してきた。今その原因を振り返れば、ただただ私の指導能力がなかったことである。そのために嫌な思いをさせてしまった子ども達がたくさんいる。
平成11年6月。東京体育館。
私が辰巳小に異動して1年目のことだった。
その年は月・水・土曜日に、私は辰巳小の勤務が終るとすぐに大田区の池上にとんぼ返りして、「徳持JVC」という小学生バレーボールチームを指導していた。
そこには純粋に強くなりたいと練習している子ども達と、それを全力で支えてくれる保護者の方々が待っていてくれた。どんなことがあっても、練習の最後の10分間だけでも指導をしたいという思いだけで江東区から大田区までかけつけた。
実は転勤したばかりで受け持った5年生は41人学級。
初めての1学年1学級という状況に、四苦八苦していた中の挑戦であった。
今では理由をつけて異動を待ってもらうということができるようになったが、その時は「このバレーの子たちだけは徳持で指導しなくてはならないんです。」と何回校長に頼んでもダメだった。
腹を決めた。何が何でも都大会出場だ。
都大会出場を決めた試合が感動的だった。
第19回ライオンカップ。
予選である支部決勝大会に私は行くことができなかった。辰巳小の運動会と決勝大会がバッティングしたからだ。保護者に監督をお願いして、私は運動会の仕事をした。運動会どころではなかったのは言うまでもない。頭の中にあったのは、徳持JVCの子ども達が都大会の出場権を勝ち取ってほしいという気持ちだけだった。運動会の間、心の中でず~~~~っと祈っていた。
夕方、保護者代表さんから電話が入った。
「先生!(声が笑っている) 結果、どうだったと思います?(笑)・・・・・・・・」
なかなか教えてくれない。
「じらさないで教えてくださいよ。」
と私。
「知りたいですかぁ~?」
「どうだったんですかっ?!」
「先生っ!都大会、出られますよっ!」
本当に嬉しかった。
やっぱり苦労しなければ結果は出ないと思った。
私がいない中で、子ども達は本当に頑張ってくれたんだなと感謝した。
そして東京都大会。盛大な開会式。
私は東京体育館の2階の席から徳持っ子の堂々たる入場行進を目にした。一人一人が輝いていて、一生忘れられない一場面であった。
「俺はこの姿を見るために、苦労してきたんだなぁ・・・・・」
言葉にならない数々の思いがこみ上げてきて、涙を抑えられなかった。