石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 草津市志那中町 惣社神社宝塔

2007-06-03 19:53:22 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 草津市志那中町 惣社神社宝塔

志那中町集落の東よりに惣社神社がある。このあたりにはかつて大般若寺という寺院があり、01_7江戸時代に描かれた大般若寺絵図が神社に伝わり、境内東北隅に伊富岐社という鎮守社が絵図にあってこれが現在の惣社神社にあたり石造宝塔も描かれているという。室町時代(嘉吉元年(1441年))に書かれたとされる「興福寺官務牒疏」によれば天武帝勅願、定恵開基、弘仁五年(814年)願安が中興、保延三年(1137年)再興という。「興福寺官務牒疏」の内容を鵜呑みにはできないが、南都系の中世寺院であったようで保延四年書写の大般若経の一部が神社に残されているという。(※1)宝塔は社殿の南隣、玉垣外に立つ。花崗岩製で現高約220cm。元は9尺塔であろう。基礎は非常に低く、西側正面のみに二区の輪郭を巻き格狭間を入れ、残りは素面とする。向かって右の輪郭は大きく剥落して確認できないが、左の輪郭内の格狭間は、花頭部分の左右カプス03_2が1つづつしかない。塔身は背が高く下がすぼまって重心を肩近くにおく棗形で、饅頭型部は、軸部上部を平らに整形し角を丸めた程度で、そこから太い首部が内傾して立ち上がる。正面にのみ大きく鳥居形の扉型を薄く帯状に陽刻しているほかは素面である。笠との間に平面方形二段の斗拱部を別石で挟みこんでいる。斗拱部の段形は04_1厚く、軒先の厚みと大差がない。笠裏は素面で隅の軒反りはごくわずかであるが、上端の軒反りは力強い。笠は低く屋だるみは緩く伸びやかな印象で、隅降棟を作らない。頂部に低い露盤を削りだす。相輪は4輪までが残存し、風化が激しい。一具のものと見て支障なさそうである。伏鉢は低くその上の請花とのくびれは弱い。請花は単弁反花のようで、九輪部の凹凸がはっきりするタイプのようである。造立年代について川勝博士は鎌倉中期、田岡香逸氏は「これを大吉寺02_12塔と比較するとき、一段と進化していることが明らかであり、最勝寺塔に比較すると、おのずから先行形式であることが理解されよう。つまり二塔の過渡形式であることに疑う余地がない」(※2)として文永5年(1268年)ごろと推定されている。非常に低い基礎、二区に分割した輪郭に異形格狭間を配する点、隅降棟を設けず勾配の緩く低い笠、斗拱部の朴とつとして洗練されない感じ、背の高い塔身の雄大な鳥居形の扉型、いずれも定型化以前の古調を示し、小生もやはり鎌倉中期、概ね13世紀中葉と推定したい。しかし「近江の宝塔中でも異色あるもの」(※1)と川勝博士が指摘するように、鎌倉中期から後期にかけて定型化し普及する大吉寺塔から最勝寺塔へ続く宝塔のデザイン系統とは少し異質なものを感じ、田岡氏がいうように二塔の過渡形式とすることには抵抗感がある。小生は別石斗拱型や扉型があることを理由に、扉型や別石斗拱型のない建長3年(1251年)銘の大吉寺塔より明白に新しいと判断するにはもう少し慎重になった方がよいのではないかと思う。斗拱型部を除いた全体のプロポーションは平安末期の沢津丸塔や鎌倉前期とされる京都東山の安養寺塔を髣髴させる惣社神社塔の方が大吉寺塔よりもむしろ古調を示すし、近江式装飾文様を備えた輪郭付き(一区)格狭間という定型化のアイテムは惣社神社塔にはなく大吉寺塔にあるのだから。

 

参考

※1 川勝政太郎 「石造美術講義(12)」 『史迹と美術』264号 233ページ

※2 田岡香逸 「近江湖西の石造美術」(後) 『民俗文化』142号


滋賀県 東近江市五個荘日吉町 山の脇(廃天王社跡)宝塔

2007-06-03 08:58:58 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市五個荘日吉町 山の脇(廃天王社跡)宝塔

旧五個荘町の北端、下日吉(現在は五個荘日吉町)の西方、民家の横の細い道を裏山の方に30mばかり山林を入っていった場所に立派な石造宝塔がある。01_10 小字は山の脇というらしい。山裾の緩斜面の平坦地に直径10mほどの湿地があり、その中央に自然石の石組を敷いた径2mほどの島状高まりがあり、宝塔はそこに立っている。土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。繖山の山塊の北端近く東側の山裾にあたる。元は現在地より10mほど北側にあったらしく移動に際してかどうかは不詳だが塔下を発掘したが何も検出されなかったという。当時滋賀県教委の文化財担当であった若き日の水野正好奈良大学名誉教授が実測されたとのことなので1960年代のことだろう。付近は天王社という小祠の跡地らしい。花崗岩製で、相輪先端の請花と宝珠を欠いて高さ約2m。元は7尺半ないし8尺塔であろう。基礎は西と南は素面、残る二面は輪郭を巻いて大きめの格狭間を入れ、内側を三茎蓮で飾る。格狭間は花頭曲線・側線の曲線とも概ね破綻のない整いを見せるが、東側面の一番外側の小弧が若干下がり気味で、北側側面の側線に少し硬さがある。三茎蓮は格狭間内に大きく配され、優れた出来映えを示す。二面ともほぼ同じ左右対称式だがよく見ると左右の葉の角度が微妙に異なっている。下端は腐葉土に埋まって確認できないが輪郭の幅には上下左右にさほど差は認められない。塔身は一石よりなり、軸部はやや胴張りぎみの円筒状で上下に2条の平行線刻帯を鉢巻き状に廻らせ、東側のみ左右の方立と中央の定規縁と上下の長押を帯線で表現した扉型を刻みだしている。饅頭型部の曲面は狭く、内傾気味に素面の首部を立ち上げる。笠は低からず高からず屋根の適度な勾配を見せ、底面に一重の垂木型を彫りだす。軒先は厚く隅に行くに従って厚みを増しながら力強く反り、下端より上端の反りが強い。02_11 隅降棟にはわずかに照りむくりが見られ、断面凸状の隅棟の突帯が露盤下をめぐり隣り合う隅棟どうしを連結し、鬼板も見られる。 露盤も高くほぼ垂直に立ち上げてしっかり削りだしてある。露盤は四面素面。相輪は九輪までが残り先端は亡失している。伏鉢、続く単弁の請花はともにスムーズな曲線を示しつつくびれ部分に脆弱さを感じさせない。九輪部は凸部が太いが凹部の彫りは単なる線刻ではなく、深くきっちり彫ってある。4輪目と5輪目の間で折れたのを接いでいる。先端の宝珠と請花の欠損が惜しまれる。銘文は見当たらない。基礎の高さと幅の比、格狭間の形状、笠の軒反、シャープな印象を与える彫りの確かさなど鎌倉後期様式の一典型と見てよい。14世紀前半のものと推定する。薄暗い山林に寂しく立つ姿は印象的で、周囲が湿地になっているためか塔全体が薄っすら苔むして緑色になっている。石造宝塔としては東近江市内でも屈指の優品で市指定文化財建造物。

余談:ちなみに石造美術の宝庫である東近江市で屈指の優品ということは日本でも屈指の優品と換言できます。もっとわかりやすくいうと、「堺市でも屈指の前方後円墳」とか「奈良市で屈指の仏像」というような意味になると思いますが、マイナー路線のつらいところです。

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上)370ページ、411~412ページ

   五個荘町史編纂委員会 『五個荘町史』 860~861ページ