石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 高島市安曇川町下小川 国狭槌神社宝塔

2007-06-21 21:58:34 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町下小川 国狭槌神社宝塔(2基)

中江藤樹書院跡から南東約400m、下小川の集落の西北に国狭槌神社がある。明るく広い境内が印象的である。神社入口の右手、石柱を並べ区画した玉垣内に立派な石造宝塔が東西に並んでいる。17_2 いずれも花崗岩製で、ともに相輪上部を欠損する現状で高さおよそ210cmと大きく、元は8尺半ないし9尺塔と思われる。どちらも直接地上に置かれ基壇は確認できない。東側のものを東塔、西側のものを西塔と便宜上呼ぶ。

西塔:22 基礎は背が高く、東、北側は素面、西側と南側は輪郭付格狭間内に三茎蓮を薄肉彫りする。輪郭の彫りは浅い。格狭間の彫りも浅めで、花頭部分は中央部分の幅が狭い。三茎蓮は格狭間内いっぱいにしっかりと浮き彫りされ、左右対称式である。塔身は軸部と首部の間に縁板(框座)と匂欄部を入れて区別する。軸部はやや下すぼまりの円筒状で、縁板の突帯を周回させ、匂欄部は垂直に立ち上げ、さらに一段細くして首部に続く。軸部には鳥居型を薄肉突帯状に陽刻する。鳥居型は東側を除く3方に見られる。軸部径と框座の縁板部の径はほぼ等しく、くびれを入れて両者を区切っている。匂欄部は軸部上部のくびれの径にほぼ同じ太さで框座から立ち上げるためかなり太めで、しかも厚みというか高さがあって手摺や束が刻まれた痕跡が認められる。首部は素面で匂欄部が厚い分短く感じる。塔身全体に抑揚がなく、いわゆる「ずんどう」の印象がある。しかしこの塔の最大の特徴は笠の軒反にある。笠裏は宝篋印塔の段形を思わせる2段を刻みだし斗拱型とし、軒が非常に厚くしかも隅にむかって上端が極端に厚みを増していくが下端の反りわずかである。軒の四隅が尖って見える。これは五輪塔の火輪であれば江戸時代の形式であるが四柱の隅棟の先が反りあがった軒の上端先端に続いていく点は江戸時代に普遍化する形式と異なる。屋根の勾配は急で、隅降棟は断面凸状の突帯をなし露盤下を経て連結している。露盤は四面素面で高からず低からずほぼ垂直に立ち上げる。相輪は九輪の三輪までが残り先端は折れて亡失する。風化が激しいが伏鉢は低くスムーズな曲線を描き、下請花は単弁と思われる。九輪は凹凸をはっきり刻みだすタイプのものである。銘は確認できない。

東塔:基礎の幅に対する高さの割合は高からず低からずで、西塔に比べるとやや背は低い。20_3 3面に彫の浅い輪郭を巻いて格狭間を入れ、三茎蓮を陽刻する。輪郭は左右が広く、上下が狭い。格狭間は左右の広がりがいまひとつで基礎の側面面積に比較して格狭間の占める面積が小さく、左右の空間を広くとっている。三茎蓮は格狭間内に大きく表現され、茎が平行に立ち上がる。北側は素面で下端中央に径15cmほどの半円形の穴がある。塔下に何らかの埋納施設があったことは疑いない。塔身は軸部、縁板(框座)部、匂欄部、首部に区別される。軸部はやや下すぼまりぎみの円筒状で素面の北側を除いて三方に鳥居型を薄く陽刻帯で刻みだす。軸部上部は曲面をもたせてくびれ框座に続く。この曲面は饅頭型と呼ぶには狭すぎる。このくびれ部分の曲面は西塔よりもスムーズである。框座部の径は軸部よりもやや大きい。匂欄部は框座から垂直に立ち上げ径は軸部のくびれ部に比べ小さい。匂欄部には架木や平桁などが刻みだされ手が込んでいるが、北側は軸部や基礎と同じく素面のままとしている。匂欄部は高さがある。首部は匂欄部に比べかなり細く笠のボリュームを考えると華奢な感は否めない。塔身各部の太さにバリエーションをつけているためか西塔のような「ずんどう」感はない。笠と首部の間に別石で2段の斗拱型を入れている点も西塔との違いである。斗拱型の段形は厚めで細い首部につなげていくためか逓減率が大きい。底面に円形の穴を穿って首部を受ける。笠裏には斗拱型上端のサイズにあうよう方形に窪みを作って斗拱型を受けている。笠の軒は厚く、西塔ほどではないが上端の反りが顕著で隅にいくに従って厚みを増している。四注の隅降棟は露盤下で連結する断面凸状の突帯で幅と厚みがある。露盤は四面素面で、だらだら屋根につながる感じではなくきっぱり立ち上げている。相輪は風化が激しく、九輪の四輪目まで残り先端部は欠損している。伏鉢と下請花のくびれが大きいが曲線はスムーズで硬さは感じられない。伏鉢と下請花のくびれ部分で折れたのを補修してつないである。下請花は単弁のようである。九輪の刻み込みははっきりしているタイプである。露盤上端の広さに比べ伏鉢が小さい。銘文は確認できない。規模、基礎、塔身、笠どの部分を見ても意匠や手法、構造形式が定型化し退化に向かう様子は感じられず、鎌倉後期の特徴を遺憾なく発揮しているといってよく、基礎輪郭の左右を広くとって格狭間の左右を空けている点、厚く力強い軒の反りの調子、垢抜けない別石の斗拱型あたりに古い要素をみる。一方、西塔は笠の軒反が一見江戸時代風であるが、これは定型化以前の自由な個性の発揚と見るべきで、基礎輪郭の彫りが浅く左右の空間を広めにとった格狭間の形状は鎌倉後期でも古い特徴を示す。三茎蓮の表現にも力がこもり、円筒形の塔身や鳥居型も新しい要素ではない。一方框座がある点は定型化の兆しを示し、屋根の勾配が急で基礎がやや高いことは新しい要素である。斗拱型を別石にせず、塔身軸部や軒反など東塔に比べ硬さがみられることから後出とみてよい。これらの特徴を総合的に判断して鎌倉時代後期、14世紀初頭から前半ごろ、東塔、西塔の順に造立されたものと推定したい。田岡香逸氏は東塔を1305年頃、西塔もほぼ同時期で若干新しいとされている。素晴らしい宝塔が並ぶ様子はまさに壮観である。

写真(遮蔽物が多くいい写真が撮れない)

上:東西に並ぶ宝塔(ひとつぶで二度おいしい)、中:西塔、下:東塔

参考:

田岡香逸「続近江湖西の石造美術(前)-安曇川町・志賀町・大津市」『民俗文化』145号