奈良県 奈良市川上町 伴墓五輪塔
若草山から北西方向に伸びる尾根の西側斜面に共同墓地公園の三笠霊園がある。山腹の斜面を段々に整形し、棚田状になった平坦面に近現代の墓標がたくさん立ち並んでいる。霊園の一番上から少し下がった場所に一際古そうな石塔が立ち並ぶ一画がある。標高は150mくらいあって、たいへん見晴らし良いロケーションである。この場所は伴墓(トモバカと読む、一説にトンボバカ)と呼ばれている。この地には往昔、永隆寺という寺院があったとされる。奈良時代、八世紀初め頃、大納言大伴安麻呂(大伴旅人の父、家持の祖父)がこの近くに創建し、没後しばらくしてこの地に移されたと伝えられる。大伴氏の氏寺で伴寺と呼ばれたという。それがやがて東大寺の末寺となり、いつの頃か廃絶して東大寺の墓所となった。さらに郷墓に発展したようで、あるいは先に郷墓があってその一画に東大寺の墓所が出来たのかもしれないが、その辺りの事情は不詳。今回紹介する五輪塔が江戸時代に東大寺の境内から移されてきた頃には既に東大寺の墓所になっていたと思われる。五輪塔はこの墓所の東寄りにあり、傍らに槙の木があるのですぐ目に付く。元禄16年(1703年)、東大寺俊乗堂付近にあったものをここに移建したと伝えられている。直接地面に据えられており基壇や台座は見当たらない。地輪下端は地面下にあって確認できない。キメの粗い花崗岩製で表面の風化が進み、細かい欠損が多い。総高約173cm、地輪は上半に比べ下半に細かい欠損が目立つ。地輪幅は約76cm、高さは約46.5cm。地輪上端面はほぼ水平で各側面中央に梵字「ア」を大きく薬研彫りする。水輪は幅約62cm、高さ約45.5cm、横張が少なく上下のカット面、つまり地輪や火輪との接合面が大きい。四方には地輪と同様の手法で「バン」を刻む。火輪は通常の五輪塔では平面(垂直投影の形)が方形になるが、これは平面三角形を呈する。この特異な形状こそ三角五輪塔と呼ばれる所以である。火輪の軒の隅付近は少し欠損しているが、平面三角の各辺長は約78cmに復元できるという。高さは約38cm。軒先線のアウトラインは直線にならず中央で外に膨らませている。軒端は垂直に切らず、屋根の勾配がそのまま火輪下端面に交わり軒厚がない。軒反も認められず火輪下端面は平坦で、隅降棟はむくり気味になっている。また、現状では火輪上端面に欠損による凹凸が目立つことなどから、狭川真一氏は上端面の側辺が下方に弧を描き、降棟の稜線上端が三角錐状になって風輪を抱くように上に伸びていたと推定されている。火輪上端が風輪下方にくい込むように見えるこうした形状は、噛合式と呼ばれ、古い五輪塔の特長とされる。火輪の各屋根面三方には、やはり同様に「ラン」を刻んでいる。四角形であれば各部四隅を合わせるが火輪だけが三角形なので本来火輪の隅がどこにあったのかが問題になるが、重源上人創建とされる三重県伊賀市新大仏寺に伝わる小型の水晶製三角五輪塔では火輪以下が一石彫成され、火輪の三角の隅のひとつを地輪の隅に合わせるようになっていることから、それが本来の位置だった可能性が高いことが指摘されている。この五輪塔でも現状ではそのようになっている。空風輪は高さ約43cm、風輪はやや腰高で高さのある深鉢状を呈し、空輪は重心が低く押しつぶしたような蕾形でいずれも古い形状を示す。四方に梵字が認められるが風化摩滅がきつい。火輪以下に鑑み「カン」、「ケン」と思われ、各部に刻まれた梵字は大日如来法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」である。三角五輪塔は俊乗房重源上人(1121年~1206年)に縁のある東大寺別所や寺院等に金属製や水晶製の舎利容器などさまざまな形で残されている。その後は何故かほとんど普及しなかったために重源上人の代名詞、専売特許のように語られることが多い。本例も重源上人自身、ないし上人にごく近しい関係者が関与して造立された何らかの供養塔、あるいは上人没後さほど間をおかずに作られた上人の墓塔と考えられている。紀年銘こそないが、重源上人との関係を考慮すれば、造立時期は自ずと鎌倉時代前期と推定され、古風な各部の形状はそれを裏付けている。重源上人の事跡、そして五輪塔を考える上で見逃せない貴重な資料である。重要文化財指定。なお、近くにある寄集め塔に積まれた段形状の部分は各部別石の宝篋印塔の部材のように見える。複数あったと思われ、どれも元はかなり巨大なものだったと推定される。その外にも伴墓には中世前期に遡るような石塔残欠が多数みられる。これらの中にも鐘楼丘付近から運ばれてきた可能性が高いものが含まれるだろう。
文中法量値は狭川氏の報告によります。勝手ながら便宜上数値は5mm単位で2捨3入,7捨8入としました。氏はこの五輪塔をミリ単位で実測され詳細に観察並びに検討しておられますので、詳しく知りたい方はぜひ氏の報告をご覧ください。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術
藤澤典彦 「重源と三角五輪塔の周辺」『重源のみた中世-中世前半期の特質-』
シンポジウム「重源のみた中世」実行委員会
狭川真一 「伴墓三角五輪塔実測記」『元興寺文化財研究所 研究報告2004』
〃 「噛合式五輪塔考」『日引』第6号 石造物研究会
三角五輪塔は、重源上人以降、何故かほとんど普及しなかったようです。ほとんどは近世以降の古制追従例で伴墓にも模倣品がいくつか残されています。教義上、五輪塔の火輪は本来三角形で、この形こそが五輪塔の本格だということもできるわけです。若い頃、醍醐寺で真言密教を学んだ上人の信仰、思いがこの形に表れていると考えられています。醍醐寺には上人以前から三角五輪塔の伝統があったようです。通常のように平面四角で宝形造にした火輪に比べ、見る角度によって落着きがないように思います。石の節理も考慮すると作りにくいということもあったかもしれません。この辺に三角五輪塔があまり普及しなかった原因があるような気がしますが、どうなんでしょうか。
現在の大仏殿が再興される以前の東大寺の古い境内を描いた絵図を見ると、大仏殿東方、鐘楼のある高台にいくつか石塔が描かれています。このエリアは鐘楼丘と呼ばれ、重源上人を祀る俊乗堂もここにあります。俊乗堂の傍らには今も古い凝灰岩製の層塔の残欠が残されています。現在、鐘楼丘にこの三角五輪塔があったことを示す痕跡は何も残されていません。また、源頼朝の供養塔なるものもこの辺りにあったと伝えられるそうですが、あるいは伴墓にバラバラに残された宝篋印塔がそうなのかもしれません。重源上人が建てた浄土堂は戦国期の兵火で焼失し、その故地に公慶上人によって建てられたのが今の俊乗堂ですので、その際にでも付近の石塔をまとめて伴墓に移したのかもしれませんね。その辺りの経緯には実に興味深いものがありますが、あいにく不勉強で詳しくは承知しておりません。ちなみにすぐ近くには「嶋左近尉」の名を刻んだ背光五輪板碑があり有名な戦国武将の墓塔といわれていますが、よくわかりません。
17世紀中葉頃に描かれた東大寺「寺中寺外惣絵図」を見ると、「俊乗石廟」という五輪塔らしき石塔が、浄土堂跡の西側、天狗社の南、高台の斜面かと思われる場所に描かれ、その東側、浄土堂跡との間に「源義朝公」、「源朝臣頼朝公」と注記のある宝篋印塔らしいものが2基描かれています。さらに浄土堂跡の東には層塔が2基描かれています。浄土堂跡にその後建てられたのが今の俊乗堂なので、これらが伴墓にある石塔であるならば、そのおおまかな当時の場所は見当がつくと思われます。「寺中寺外惣絵図」は大仏が露座に描かれ、当時の境内の様子がかなり忠実に描かれています。こうした古い絵図に描かれた石塔などをあれこれと考えるのも実におもしろいですね。
嶋左近は大和の人といわれています。石田三成の重臣として関が原の戦いで戦死したようです(行方不明説も)。背光五輪板碑に紀年銘はありませんが、刻まれた干支は関が原の戦いのあった慶長5年と一致し、9月15日というのもばっちりです。背光五輪板碑としての形状も概ねこの頃にものとして問題ないように思います。ただ、五輪塔の正面に、このように大きく俗名を刻むというのはあまり例がないように思いますが、どうなんでしょうか…、わかりません。興味深いですが真偽も含め後考を俟つほかありません。