滋賀県 大津市石山寺一丁目 石山寺の石造美術(その3)
国宝の多宝塔のある平坦地の西の隅、位置的には経蔵と宝蔵の中間付近にあたる目立たない場所に「めかくし石」(一説に「めくら石」とも)と呼ばれる石造宝塔がある。詳しくは知らないが目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うということらしい。花崗岩製。直接地面に基礎を据えた堂々たる宝塔で、現状高約312cm。相輪は後補でこの相輪を除く笠上までの高さだけでも2mを越す大型塔で、元は十尺塔であろう。基礎は高さ約48cm、幅は上端で約121cm、下端で約125cm、下端の北西隅は大きく欠損したようになっており20cm前後の石をいくつか込めて安定を図るとともに形を整えている。基礎の下方は全体的にやや不整形で、欠損したように見える部分も当初からこうなっていた可能性もある。各側面とも素面。塔身はやや胴張りの円筒形の軸部の上端に首部を一石彫成し、素面で扉型などの装飾は見られない。塔身全体の高さは約93cm、軸部の高さ約76cm、最大径約82cm、首部は高さ約16cm、下端の径約63.5cm、上端で約60.5cm。笠石は軒幅約106.5cm、高さ約63cm。軒の厚みは中央で約13.5cm、隅で約14cmと笠全体のサイズに比して特に厚いという程ではなく、隅増しがほとんどない。軒反は緩やかで真反りに近い印象である。笠裏には垂木型など作らない素面で、中央に塔身首部を受ける円形の彫り沈めを設けている。笠は全体的に背が高い印象を受ける。屋根の勾配も急で四注は鋭くしのぎ立てているが降棟の突帯は見られない。笠頂部には低い露盤を刻み出す。その幅は約36cm、高さ約5.5cm。相輪は高さ約108cm、風化が少なく、宝珠先端の尖りが大きいのは近世の特長で後補である。無銘。3mを越す規模の大きさ、一切の装飾を廃した無骨な意匠が特長で、全体にどっしりとした安定感があり、大きく背の低い基礎、やや背の高い円筒形の塔身、隅棟の突帯がない屋根の四注、軒の様子などは鎌倉時代中期に遡る古い特長である。一方、笠の背が高く屋根の勾配が急でかつ屋根の反転(軒口の隅付近の反転ではない)が目立つ点はやや新しい要素である。古い要素を評価された川勝博士は鎌倉時代中期とし、逆に新しい要素を積極的に評価した田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半、永仁頃(1295年)の造立と推定されている。四注をしのぎだてることで隅棟を強調してみせるために屋根の側面を強めにそぎ落としてシェイプアップした結果、屋根面の反転が大きく見えるのであって、これはそれほど新しい要素として重視しなくても良いと小生は思う。したがってもう少し造立時期を遡らせて支障ないと考えるがいかがであろうか。重要美術品指定。
石山寺にはもう一基、石造宝塔がある。瀬田川の眺望を抱く月見亭と呼ばれる望楼建築があり、その直下、一段下がった梅林に面した崖下にある淳祐内供の塔とされるのがそれである。玉垣をめぐらせた中に建ち、石山寺第三代座主、淳祐(890~953)の墓塔と伝えられる。淳祐は菅原道真の孫に当たる平安時代中期の真言宗の高僧で、石山寺中興の祖と仰がれる人物。聖宝、観賢とつながる小野流の正統を継ぐべきを自ら辞退して石山寺普賢院に入り、事相研究と後継育成に努め今日の石山寺の基礎を築いたとされる。宝塔は花崗岩製で相輪先端を欠き、現存塔高約171.5cm。地面に延石を方形に並べた基壇は当初から一具のもの
か否かは不明だが、その上に据えられた基礎は、高さ約33.5cm、幅約71cmとかなり低い。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配する。輪郭は左右束部分が広く、格狭間内は素面で格狭間の作りは少々ぎこちなく形状もやや不整形だが彫りが深いのが特長。脚間並びに上部中央花頭が狭いので水平方向への伸びやかさに欠ける。塔身はやや胴の張った円筒形の軸部の上部に首部を一石彫成し、高さ約46.5cm、最大径約40.5cm。軸部の高さ約40.5cm。首部は高さ約5.5cmで、首部の基底部径約30cm、上端部で径約28cm。側面は素面で扉型などの装飾はみられない。笠は軒幅約62.5cm、高さ約41cm。軒口の厚みは中央で約8.5cm、隅で約12cm。笠裏には二段の斗拱型を設け、屋根四注の降棟は断面凸形の突帯で表現する。笠の頂部には露盤を刻み出す。降棟の突帯は屋根の上端まで達せず、屋根の露盤近くに一段素面部分を帯状に周回させるのはあまり類例のない手法である。
露盤は高さ約5.5cm、幅は下端で約23cm上端はそれより約1cm狭い。相輪は先端を欠き、高さ約50cm。九輪部の八輪め以下が残る。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は弁端をしのぎ立てた形の覆輪付単弁八葉。九輪部の凹凸は明瞭である。基礎は背が低く、笠は屋根が低平で軒口は適度な厚みを持ち、軒の張り出しに軽快感がある。基礎の輪郭束の幅を広くしてやや不整形な小さめの格狭間を置くのは、東近江市柏木町の正寿寺宝篋印塔、妙法寺薬師堂宝篋印塔など近江では鎌倉時代中期末から後期初頭頃の石塔基礎側面に共通する手法。塔身は基礎と笠のサイズに比べて小さ過ぎの観が否めない。加えて風化の程度、石の色や質感なども異なるように見えるため別物の可能性も払拭し切れない。無銘であるが田岡香逸氏は鎌倉時代後期前半頃のものと推定されている。
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
田岡香逸「近江石山寺の石造美術(後)」『民俗文化』第144号
これまた法量値は田岡氏の報文に拠りますが、数値は2捨3入、7捨8入で5mm単位に丸めさせていただきました。めかくし石はやはり鎌倉中期の後半頃でよいと思います。一方伝・淳祐内供塔は難しいです。笠と基礎にも年代の不整合があるような気がします。笠は田岡説よりもう少し新しいようにも思えますが…うーんどうなんでしょうか。石山寺の石造美術はひとまずこれで終りですが、伝・悪源太(悪七兵衛)の供養塔とされる宝篋印塔は見学機会があれば改めてご紹介したいと思います。なお、『民俗文化』143号の田岡報文によれば、これらのほかに延元2年(1337年)銘の五輪塔地輪と思われる石造物があるそうです。場所は伝・悪源太(悪七兵衛)塔のさらに奥まった場所らしく、やはり立入禁止区域のようなので実見できません。田岡報文に基づいてざっと述べると、緻密な砂岩質の石材で幅約56㎝、高さ約30㎝。側面三方にわたり「従五位/左近衛/将監兼/石見守/身人部/清鷹/延元二年/三月十日卒/忠臣」との刻銘があるようですが、石の表面の仕上げ方や書体等から田岡氏は近世の後刻と断定されています。実見できないので何ともいえません。身人部清鷹という人物について詳しくありませんが南朝方の忠臣ようです。同報文を読むと延元2年の五輪塔基礎?は、そもそも景山春樹氏の『近江の金石文資料』にあったそうです。きちんと調べもしないで後刻のこんなのを載せている!として厳しく景山氏を非難する田岡氏の舌鋒は例によってたいへん鋭いものがあります。しかし、わざわざ行数を裂いて何もここまで言わなくてもいいと思いますが…。すいません余談でした。
写真の表示が上手くいきませんでした。
ここ数年は多忙で記事更新できておりません。お許しください。
重要美術品指定について、お寺様か文化財担当の行政当局に確認されればハッキリするかもしれません。
新しい駒札。それまでは「六十六部經塚」の文言は書かれていませんでした。
「めかくし岩」と書かれて、観光客や参拝者はご利益あると、目を閉じて抱き付き、願っている石塔でした。賽銭が笠や基段にたくさん載っていました。人が抱き付く為か、宝塔側面が凹んでいました。
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近江輿地史略より
「○六十六部經塚 寶塔の南にあり。いづれのとしにや、日本回國の僧、六十六部の經を書冩して土中におさめ、塚を築、いま兒女子黄泉の父母に逢といひて眼をふさぎ、十四五間ばかりまへより大手をひろげて、この塚をいだく。いだき得るものは、かならず黄泉にて父母にあふといへり。いかなるしれ者が、かゝる妄言をはき出しけん。まゝ兒女子此石を抱き、あやまつては頭を損し、額を疵つけて血を出すにいたるものあり。身體は父母の遺體なり。あへてそこなひやぶらざるを孝といふなるに、かゝるよしなきこととして、身に疵つくる事、黄泉もし父母見ゆることあらは、なにの面目あらんや。」
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つまり、江戸時代の記述には、眼をふさぎ、宝塔を大手で抱くと黄泉の父母に逢えるが、宝塔に頭を打ったり怪我をしてまですることではないと。自らの身体は父母に貰ったものだから、傷をつけたら孝にならないと。
誰が言い始めたことか、悪いことのように書かれてあります。
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現在、いつの頃からか?何でも願いが叶う宝塔へと変化したんです。分かりませんが、石山寺側もそんな駒札で宣伝してきたようですね。
今年初め、(参拝者ブログの駒札には、目隠し岩の説明のみでした)
新しい「めかくし岩」駒札では、
【(六十六部経塚)寺伝には、六十六ヵ所の霊場に一部ずつ法華経を埋納した塚であると記されています】と付け加えられました。
この一年以内に何方かの指摘があったのかも知れませんね。今まで、何年も六十六部經塚が知られていなかった理由が分かりました。
しかし、近江・石の文化財の本を信じてきましたので、重要美術品指定の宝塔が、めかくし石で良いのかのお答えをご教示ください。
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つまり、江戸時代の記述には、眼をふさぎ、宝塔を大手で抱くと黄泉の父母に逢えるが、宝塔に頭を打ったり怪我をしてまですることではないと。自らの身体は父母に貰ったものだから、傷をつけたら孝にならないと。
誰が言い始めたことか、悪いことのように書かれてあります。
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現在、いつの頃からか?何でも願いが叶う宝塔へと変化したんです。分かりませんが、石山寺側もそんな駒札で宣伝してきたようですね。参考-近江輿地志略(寒川辰清)