滋賀県 東近江市佐野町 善勝寺無縫塔ほか
善勝寺は曹洞宗で山号は「繖山」。東近江市佐野町(旧能登川町)集落の南方、観音寺山(繖山)から北に伸びる山塊尾根の北端に近い猪子山(標高267m)の北側山腹に位置する。かつては70余の子坊を数える天台の大寺院であったとされ戦国末期に焼亡し曹洞宗として復興したといわれるが詳しいことはわかっていない。本堂東側の一段高くなった場所に境内墓地がある。その正面奥の歴代住職の墓塔が並ぶ一画、向かって左手に一際異彩を放つ無縫塔がある。花崗岩製。下からそれぞれ別石で基礎、竿、中台、請花、塔身の5つの部位から構成される。総高約96.5cm、基礎は直接地面に据えられ、平面八角形で各コーナーの下端には小さいながら二段階に持ち送る脚部を備えていることから当初は切石の基壇上に据えられていたのではないかと思われる。各側面は方形輪郭を巻いて内側を彫り沈め格狭間を配する。格狭間内は素面。基礎上端には低い一段の框を設けてから複弁反花を置いて竿受座に続いていく。竿は八角柱状で、ひとつおきに蓮華座上の三弁宝珠のレリーフを配してしている。中台も平面八角形で低い竿受から下半部はやや反りを持たせた小花付単弁請花とし、側面は二区に枠取りして彫り沈めた中に各々割菱紋を陽刻する。中台上端面にも基礎上端と同様の複弁反花を置き、中心には平らな受座を円形に作っている。中台上の請花は中央に稜を設け覆輪のある小花付単弁で上端面外縁には弁先の形に沿って山形の凹凸を設け、丸い棗型の塔身を載せている。無銘ながら中台側面の菱形紋、整った格狭間の形状など手の込んだ意匠表現が随所にみられる。基礎の側面高が割合に高く、基礎上と中台の反花がやや平板で、単弁請花が剣頭状で側面に膨らみが見られない点などから室町時代初め頃、15世紀前半代のものと考えられる。無縫塔は僧侶の墓塔として一般的なものであるが、ほとんどが竿や中台を伴わず塔身が細高い近世以降の単制のもので、重制の無縫塔は珍しく、中世を通じ禅宗系の開山塔等に多く採用される。石造物の宝庫とされる近江においても本格的な重制無縫塔は指折り数える程しか残されていない。本塔は風化摩滅も少なく遺存状態が良好で、各部欠損なく揃っている点も貴重である。また、向かって右手、近世の無縫塔の基台に転用されている石塔の基礎がある。花崗岩製で風化や細かい破損がみられるが、上端面は平らで宝篋印塔に特有の段形が見られないので宝塔ないし層塔の基礎と考えられる。幅約80.5cm、高さ約40.5cmとかなり大型で、幅に対する高さの比が小さく低い。各側面には輪郭を巻いて格狭間を配し、格狭間内に三茎蓮の浮き彫りを表現する。低い基礎に輪郭の幅が狭いのは寛元4年銘の近江八幡市安養寺跡層塔や建長5年銘の米原市大吉寺跡宝塔などの事例に鑑み古い特長と考えてよさそうである。格狭間は左右の束との間をやや広くとって全体によく整い、花頭部分の肩があまり下がらず側辺の曲線がスムーズで概ね古調を示している。三茎蓮の構図は大きく、彫りがしっかりしていて下端に宝瓶口縁部と思しき部分を表現している。茎や葉が伸び伸びとして気宇の大きさを感じさせる。左右と裏面は中央茎上を蕾としているが正面のみ花弁上に座す小さな像容を刻んでいる点は非常に珍しい表現である。造立時期について、田岡香逸氏は上記のごとく低い基礎や格狭間の形状などから鎌倉時代後期の初め、13世紀末頃と推定されている。無銘の基礎だけの残欠であるが、像容を表現した珍しい意匠の三茎蓮を備えた比較的大型の石塔で、細部の手法にも古調を示す注目すべきもので見逃せない。このほかにもこの境内墓地には一石五輪塔や石龕仏などの中世石造物が多数残されている。
参考:田岡香逸「近江能登川町の石造美術(1)」『民俗文化』55号 1968年
嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』№83 1997年
無縫塔の塔身が載る請花上端面のギザギザは応永28年(1421年)銘の竜王町鏡の石燈籠の中台上のギザギザを髣髴とさせる手法でこのあたりも造立時期を考えるヒントになるのではないでしょうかね。最古の無縫塔は京都泉涌寺の俊芿塔で安貞元年(1227年)示寂後間もない頃の造立と推定されています。このように没年の明らかな高僧の墓塔であるため造立時期を比定できるケースが多い無縫塔ですが、鎌倉時代に遡るものは案外、数が少なく嘉津山氏によれば紀年銘のあるものは未確認とのこと。在銘では栃木県宇都宮市の伝法寺塔の南北朝期に入る観応二年(1351年)銘が最古だそうです。意外ですね、ハイ。