滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その2)
本堂跡の北西に頼朝供養塔との伝承を持つ石造宝塔がある。塔の回りは自然石を方形に並べて区画され、周囲より少し高くなっている。全体に破損が目立ち、総花崗岩製で笠頂までの現在高約157cm、基礎は幅約92cm、高さ約44cmと非常に低く安定感がある。側面は輪郭格狭間式で、南面に三茎蓮花、西面に一茎未開敷蓮花のレリーフを配している。北面は格狭間内素面、東面は剥落破損が激しく明らかでないが、うっすら輪郭の痕跡のようなものが見えることからやはり輪郭格狭間があったとみて間違いない。下端は埋まって地覆部はっきりしないが、束が広く葛部の幅が狭い。格狭間は輪郭内いっぱいに大きく表現され、花頭中央が広く伸びやかで整った形状を呈する。輪郭、格狭間の彫りは浅い。塔身は首部と軸部を一石彫成し、下がすぼまった円筒状の軸部は素面。軸部南側に「建長三年(1251年)辛亥/七月日」の刻銘が浅く大きい文字で彫られている。文字の存在は確認できるが、風化摩滅が進行し肉眼では判読が難しい。首部は太く短い。首部から亀腹部にかけて大きく破損したものを継ぎ合わせて修復してある。この部分は内部を丸く刳りぬいて奉籠孔を設けてあったものが、砕けて散乱していたものを拾い集め復元したものである。笠は軒幅約82cm、高さ約45cm、屋根の勾配が緩く伸びやかな印象で、屋だるみも顕著でない。また、軒口はさほど厚みを感じさせず軒反も緩く、軒口の厚みの隅増しもほとんどない。笠裏には低い垂木型の一段を削りだし、中央を円形に彫りくぼめて浅い首部受けを設けている。四注に隅降棟を持たないのも特長である。笠の4隅の内、2箇所が破損し、その内1ヶ所は上手く接がれて修復されている。頂部には低い露盤がある。ぼろぼろに風化した相輪の九輪部の残欠が載せられている。これは当初のものと思われる。全体に破損が目立つ上に、表面の摩滅も激しく、田岡氏が指摘されるように、堂宇の火災で熱を受けた影響があるものと考えられる。建長三年という紀年銘は、近江の石造宝塔としては在銘最古である。石造宝塔の鎌倉中期のメルクマルとして極めて重要な存在であり、輪郭、格狭間式の基礎側面の手法や近江式装飾文様を考える上でも欠くことのできない貴重な史料である。四注隅降棟を持たない伸びやかな軒先、緩やかな屋根の勾配、低くどっしりとした基礎、花頭中央が広く、輪郭内いっぱいに広がった大きい格狭間など、この塔の特長を把握しておくことが、石造宝塔はもちろん、宝篋印塔や層塔など他の形式の石塔や残欠にも通有する石造物の構造形式や意匠表現を理解するうえでいかに大切かは論を俟たない。このほか、本堂西側には六角形石燈籠の基礎がある。各側面に輪郭と整った格狭間を配し、上端は小花付単弁の蓮弁で飾り、中央に竿受の丸い孔が見られる。格狭間の形状から鎌倉後期頃のものとされている。さらに中心伽藍跡から一段下がった山道脇に今も清水をたたえる苔むした長方形の石造水船がある。恐らくこれも中世のものだろう。石階段に南西にある鐘楼跡とされる土壇上には石造層塔の最上層ないし宝塔のものと思われる笠石が転がっている。軒幅は60cmほどはあろうか、小さいものではない。軒の様子から概ね鎌倉末期頃のものだろう。さらに覚道上人像のある石室の脇に石塔残欠や板碑、一石五輪塔などが集積されており、この中に文明19年(1487年)銘の宝篋印塔基礎が、そして元池といわれる涌水地点には明徳三年(1392年)銘の水船があるとされるがいずれも見つけられなかった。五輪塔の残欠や石仏などはいたるところに散見される。宝塔の修復は昭和44年5月のことで、地元の全面的な協力のもと、田岡香逸氏や福沢邦夫氏らが尽力されたとのこと。
参考:田岡香逸「滋賀県東浅井郡浅井町野瀬・大吉寺跡の石造美術」『近江の石造美術』(1)
〃 「近江湖北・湖東の石造美術」(2)『民俗文化』70号
川勝政太郎『近江歴史と文化』202~203ページ
〃 新装版『日本石造美術辞典』181~182ページ
平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 971~972ページ
当時既に60歳を越える高齢で、しかも眼が不自由だったにもかかわらずこのような急峻な山に登り精力的に調査と復元に携わられた田岡香逸氏の熱意には今更ながら頭が下がります。ちなみに当時の田岡氏からみれば子どものような(実際には孫かひ孫の世代ですが)年齢の小生は、情けないことに道に迷ったせいもあり、息も切れ切れで、寺跡に着いても汗だくのまま暫く倒れ込んでしまいました。その田岡氏も平成4年に亡くなられ、その後の池内先生、瀬川氏の業績、最近では兼康氏ら研究がありますが、田岡氏のように求心力のあるピニオンリーダーが率先して未開の分野に切り込んでいった当時の勢いに比べると近江の石造研究の今日は寂しい限りです。田岡氏らの活動が盛んであった昭和40年代後半で近江の石造物の研究はストップしているといって過言ではない気がします。若い近江の石造研究者の奮起を期待せずにおれません。なお、現地は渓流沿いから右に折れる場所がわかりにくいので、道に迷うおそれがあり、軽装では本当に遭難する危険性があります。冬季は積雪と凍結で本格的な登山を覚悟しないと難しく、夏季は雑木下草の繁茂が激しく道を見失いやすいうえに、見通しが利かず遺構の見学に適しません。したがって春季ゴールデンウイーク頃が寺跡を探訪できる唯一のシーズンとされています。山道も寺跡も手入れされておらず、できれば存知おられる方の案内をお願いするか、少なくとも単独行動は避けるのが賢明かと思われます。ちなみに覚道上人というと、ほぼ同時代か一世代くらい前に、後嵯峨院の信任厚かった嵯峨浄金剛院第二代長老に同名の人物がいます。この人は大炊御門流の鷹司伊頼の子息で禅空といったらしく、浄土宗の碩学であるので、弥勒信仰の厚い大吉寺の覚道さんとは別人でしょうね…たぶん。寺跡は県指定史跡です、ハイ。
ところで、ブログコメントでは詳しい話もできないのでD府市のT橋さんは存じ上げております。メールの連絡先をお尋ねしてよろしいですか?
今回は、連休明けの13日(月)から17日(金)5日間の計画です。まずは、体力と相談しながら考えてみます。ご親切なご提案本当にありがとうございます。
私の守備範囲は、地理的な環境もあり、ほとんどが九州内です。今回も佐賀県太良町竹崎観音寺三重石塔2基、基礎4方の孔雀文様塔、4方宝瓶仏花文様塔(1面のみ二茎蓮(蕾・半開蓮)を含む)を理解するため近江文様の簡単な調査(見学・写真)を計画して14基程回りましたが、あまり利用できないものでしたので、理解を深めるために実測調査を思い立ちました。今回せいぜい5~6基程度の調査でどれだけ進展するかわかりませんが、一応、取り組んでみることにしています。なお、1基でも2基分でも出来上がるようでしたら、実測図を公表・提供(コピーですが)したいと思います。もし、図が出来ましたらその時はこのブログに連絡いたします。必要な図でもありましたら、提供いたしますので、その折にはご研究に活用していただければと思いおります。
去年おととしとGWに2年連続して登りました。登山道は案内板が設置され、ブログ投稿時に比べてよくなっていましたが、急峻で転落のおそれがあり、寺跡は依然手つかずですので単独行はどうかと思います。
何でしたらGW日程があえばご案内いたしますが。
追伸;奈良市神宮寺宝篋印塔、為因寺宝篋印塔(刻字は実測できていません)の実測図を作成しています。必要であれば、コピーですが提供できます。お知らせください。