京都府 京都市伏見区醍醐醍醐山 醍醐寺の町石
醍醐寺は世界文化遺産、真言宗醍醐派の総本山。貞観16年(874年)理源大師聖宝開基の東密中心寺院の一つである。役行者以来の修験の大立物である聖宝を開基に仰ぐ醍醐寺は、古来真言系修験の一大中心で中世には賢俊、満済、義演などの政治的影響力のある高僧を輩出している。江戸時代には中心子院である三宝院の門跡が修験道当山派の総元締として天台系の本山派聖護院門跡と並んで全国の修験道系寺院を統括していた。広大な境内は醍醐山の山頂付近にある上醍醐と西側山麓に広がる下醍醐に大別される。最近落雷で焼失した上醍醐の准胝堂は西国三十三箇所観音霊場第十一番札所としても著名。下醍醐から上醍醐へは登口に当たる成身院(女人堂)で入山料を納め、山道を1時間ほど歩かなければならない。道はよく整備されているものの、四百メートル近い高低差を衝いて登る道程は流石に息が切れる。この登山道に沿って古い町石が立てられている。第一町石は亡失しており、女人堂のすぐ奥にある第二町石から開山堂前の第三十七石まで36基が知られる。これら町石は近世地誌類にも現れるようだが、戦前の斎藤忠博士の論考によりその実態がほぼ明らかにされている。それによれば一部後補のものを除いて鎌倉時代中期の終わり頃、13世紀後半文永年間頃の造立と推定されている。概ね同型同大の花崗岩製で方柱状の塔身に請花宝珠のある笠石を載せた笠塔婆の形態をとる。笠石を残しているものは少なくほとんどは方柱状の塔身だけが残っているが塔身の上端面中央には枘やその痕跡が認められ笠石を載せていたことは明らかである。残りのよい第三十一町石の略測値は、現地表高約167cm、塔身正面幅約31cm、奥行き約23.5cm。笠石は高さ約38cm、正面軒幅約48.5cm、奥行き43cmである。平らに整形した正面上方に大きく梵字を薬研彫し、その下に尊名と町位数を陰刻する。左右側面に願主名ないし紀年銘を刻み背面は素面のままとする。これらは種子と尊名を伴うことから大日如来以下の金剛界曼荼羅三十七尊と考えられる。すなわち大日(37)阿閦(36)宝生(35)阿弥陀(=無量寿)(34)不空成就(33)の五仏、金剛(32)宝(32)法(31)羯磨(29)の四波羅密菩薩、金剛薩埵(5)金剛王(6)金剛愛(7)金剛喜(8)金剛宝(9)金剛光(10)金剛幢(11)金剛咲(12)金剛法(13)金剛利(14)金剛因(15)金剛語(16)金剛業(17)金剛護(18)金剛牙(19)金剛拳(20)の十六大菩薩、金剛嬉(25)金剛髣(26)金剛歌(27)金剛舞(28)金剛香(21)金剛華(22)金剛燈(23)金剛塗(24)の八供養菩薩、金剛鉤(1)金剛索(2)金剛鏁(3)金剛鈴(4)の四摂菩薩である(カッコ内は町位数)。このうち右側面に寛永18年(1641年)10月の同じ年月を刻んだものが半数近くある。これらはいずれも後補で、江戸時代でも初期ということもあるのだろうか、梵字の出来は上々で既存の古い手本に忠実に作ろうとした意図が見て取れるよくできたレプリカである。紀年銘のあるものは全て寛永銘で後補である。塔身下端はどれも土に埋まっており確認できないが、第五町石など下方の一部が露呈するものを見る限り下方は粗く成形したままとしていることから、元々基礎を伴わず直接埋め込み式にしていたと考えられる。さらに紀年銘のあるものとないものをよく観察すると、寛永銘の枘は低く小さいが無紀年銘のものの枘は太く大きいことがわかる。また、笠が残るものでは、寛永銘のものの笠石の屋根の降棟に緩い照りむくりがあって笠裏が平らであるのに対し無紀年銘の笠石にはむくりは認められず伸びやかな軒反を見せる。さらに無紀年銘の笠石は請花宝珠を一石彫成とするが寛永銘の請花宝珠は別石としている。種子も無紀年銘のものの方がやや大きく、筆致や彫りに勢いがあるように思う。寺蔵の「上醍醐西坂表町石之次第」という記録(寛永期の町石も記録され江戸時代以降のものらしい)には亡失した第一町石が記され「文永九年(1272年)三月日勧進僧入信座主権僧正」の銘があったと伝える。斉藤博士は無紀年銘のものに残る「親快」「俊誉」「行誉」等の願主名やそれに伴う僧綱名から彼らが13世紀後半頃の活躍が古文書で確認できる醍醐寺の僧であること、さらには第二十二町石に残る願主「権少僧都覚済」が文永7年銘の和歌山県高野山の第十九町石に残る「権少僧都覚済」と同一人物とみられることから「上醍醐西坂表町石之次第」記事の信憑性が高いことを実証されている。この記録を信じるならばこの町石が勧進の手法により造立されていることがわかる。また、勧進に加わった願主に金堂衆、心経会衆、准胝堂衆といった寺院内のグループが名を連ねていることも興味深い。ともあれ醍醐寺町石は鎌倉中期に遡る古い町石であり、笠塔婆のあり方を考えるうえからも貴重な存在である。さらに高野山の町石と醍醐寺をつなぐ物証となる刻銘を有する点でも注目すべき町石といえる。
参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』1972年
斎藤 忠 「醍醐寺の町石」『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告書第18冊』1938年
写真上左の2枚:川勝博士の『京都の石造美術』に写真が載っている第三十一町石、法波羅密菩薩です。奥に見えるのが上醍醐の寺務所の門です。それと笠の様子。上右:第三十二町石金剛波羅密菩薩、左中:第三十三町不空成就如来、以上は無紀年銘で文永頃と推定されるものです。下左:第三町石、金剛鏁菩薩。下右:第三十七町石大日如来。これらは寛永18年のものです。どうです、違いがおわかりいただけるでしょうか…。
上記にはいくつか例外や解き明かされていない謎があります。大日如来の第三十七町石(寛永銘)だけは基礎を有しています。第三十町石が見当たらず本来30番目にくるはずの法波羅密菩薩は何故か第三十一町石となり、31番目にくるはずの宝波羅密菩薩が第三十二町石となっており、本来32番目の金剛波羅密菩薩とともに三十二町の町位を持つものが二基あります。また、金剛塗菩薩の第二十三町石(無紀年銘)だけは上端面が枘(凸)でなく枘穴(凹)になっています。それから金剛牙菩薩の第一九町石は新旧二基あり、現地には後補が立ちますが寛永18年ではなく同11年銘となっています。もう一つの無紀年銘の古いものは下端を失って清瀧宮入口付近に移されています。さらに薬師堂前には町位銘のない薬師如来の種子と尊名を刻んだ寛永18年銘の同様の笠塔婆があります。こうした例外や謎についてそのいきさつをあれこれ考えるだけでも興味は尽きません。斎藤博士の論考は戦前のもので、若干当時と現地の状況が変わっているものもあります。しかし詳細に調査され慎重に考察された論考は今読んでも新鮮で今日も全く通用する内容です。文体を除くと古さを感じませんね。論考にいわく「遠い古より幾多の人々は清浄の心を抱いてこの道を登り、そして道の辺に整然と立つ町石に暫しの礼拝を捧げ、かつ町位を知って疲れた身体を励ました…」とのこと。斎藤博士のこの言葉はまさに町石のありようを端的に示しています。息を切らせて山道を登り傍らの町石を見る時、この言葉の意味をまさに体感できると思います。かの重源や叡尊も若い頃修業したという醍醐寺にはこのほかにも清瀧宮の石燈籠、三宝院墓地の宝篋印塔といった注目すべき石造美術がありますが、これらのご紹介はまた別の機会に。