yamanba's blog

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五ケ山ダム竣工から1年~五ヶ山をふりかえる

2019-03-10 14:07:44 | 五ケ山ダム

五ケ山ダムの竣工(事業終了)からまもなく1年。試験湛水がはじまってから2年5ヵ月が経つが、いまだに試験湛水は終わっていない。運用開始が遅れる中、先月14日から福岡市へ水を供給するための放流がはじまった。福岡市関連のダム貯水率が30%を切る直前の緊急対応だったが、放流は今も続いている。

五ケ山ダムは、経年貯留ダム(集水面積に比べ、貯水容量を大きく採れる地点にダムをつくり、異常渇水時に水を補給するダム)として、1983年に計画、1988年に事業が採択され、24年の時間を置いて2012年に着工。その後、RCD工法の採用によって予定より1年早い2016年に堤体が完成、同年10月から試験湛水がはじまり、事業計画からおよそ30年もの歳月をかけて今の姿になった。

少し話を戻してみる。五ケ山ダム事業計画から遡ること十数年、1970年代の福岡市の水事情は急増する人口で需要量に供給量が追いつかず、水資源開発が緊急の課題だった。そこで、背振ダムと五ケ山ダムを比較検討することになった。五ケ山ダム(計画地)をボーリングした結果、五ケ山ダムは背振ダムよりダムとしては優位だったが、東背振村立小川内小学校や佐賀県天然記念物「小川内の杉」を移転させることは、歴史的な背景からして、福岡市で解決することは出来ないと判断され、背振ダムが建設された。その後、1978年、福岡市は大渇水(福岡大渇水)に見舞われた。これを契機に五ヶ山ダム事業計画案が復活し、今に至っている。

五ヶ山には1997年頃から通っているが、当時、ダムがつくられるなど露知らず、地元の人からもそのような話を聞くことはなかった。(おそらく空白の24年間の時期だったからかもしれない)そのため、その頃の写真は殆どない。もう少し写真を撮っておけばよかったと、今さらながら後悔している。当時、東背振村小川内(現在の吉野ヶ里町)と那珂川町東小河内(現在の那珂川市)には25世帯48人が暮らしていたが、ダム建設により移転を余儀なくされた。ご存じでない方もおられるかもしれないので説明をすると、五ヶ山湛水区域には、那珂川を挟んで佐賀県東背振村と福岡県那珂川町(現在の那珂川市)が存在していた。今では川も消え、県境を示す国境石(くにざかいいし)も水の底に沈んでしまった。歴史はダム湖の中に眠っている。

那珂川市はアウトドア拠点として、五ヶ山を「五ケ山クロス」と名付け、「大自然と遊ぶ」というキャッチコピーで一大宣伝をしている。しかし、五ヶ山では多くのものが失われた。ダムによって川は消失あるいは分断され、多くの山が削り取られた。その結果、巨大なダム湖が出来た。果たして、これが大自然といえるのだろうか。何はともあれ、那珂川市には、五ヶ山をふりかえる作業をしてほしい。はじめてこの地を訪れる人達に、かつては手つかずの自然があったこと、その自然と共に暮らす人々がいたことを知ってもらうため、五ヶ山の歴史を後世に繋げていく作業をしてほしい。失われたものがあって、今があるのだから。

 

※正式には、五ケ山ダムは大きい「ケ」、地名の五ヶ山は小さい「ヶ」です。

 

 

2012年、五ケ山ダム建設着工(この年から本格的に撮影をはじめました)

五ヶ山の山々が削り取られているところ この道(写真右)の先に東背振村立小川内小学校があった(2012年11月撮影)

 

 

 

 

この時、胸が張り裂けるような思いで作業を見ていた(2012年11月撮影) 

 

 

 

 

多くの木が伐り出された(2012年11月撮影)  

 

 

 

 

湖面に名残が、、 (2019年1月12日撮影)

 

 

 

当時の村の様子を映した貴重な写真(那珂川市図書館所蔵・旧那珂川町文化財資料より)

東背振村小川内集落(現在の吉野ヶ里町) 

田んぼの下に那珂川が流れていた 後に見えるのは背振山系(現在、ここはダム湖)

 

 

 

那珂川町東小河内集落(現在の那珂川市)

山の斜面を利用して耕作が行われていた (写真右端あたりに、現在、ダムサイト公園ができている) 

 

 

 

《関連資料》

福岡県HP。五ケ山ダム竣工式について(2018.3.7) 

 



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