私は終戦の日、3歳になったところだった。
当日の記憶はないが、それでも、戦争を実際に体験している。
空襲警報の近くにある変電所のサイレンが鳴って、消防団が「空襲警報発令」と回ってくる。
慌てて防空壕に逃げ込む、外を見ていたら大阪方面が真っ赤になっていた。空襲は8回にわたり行われた。
8回目は8月14日、終戦の前日である。親父は当時軍人で大阪城内にあった第4師団司令部に勤務しており、空襲で防空壕に逃げたが、そこに爆弾が命中、生き埋めになったが、這い出すことができた。隣に坐っていた同僚は亡くなっていたそうである。
この空襲は別名京橋駅空襲と呼ばれる。1トン爆弾700発、多くの死傷者が出た。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
親父は大阪城から門真まで8Kmほど歩いて帰ってきた。夜遅くなって家族はひょっとしてと心配していたが、足音が聞こえて安堵したそうである。
そして、明くる日に終戦、他国支配による日本の苦難が始まる。
苦難と受けるのではなく、甘んじて馴れ合っていく、自虐史観を良しとする、情けない日本人ばかりになってしまった。
安倍元首相の言葉に次のようなのがある。
「戦後レジームがもたらしたもので、絶対に落とせないのが、個人と国家を対立するもの、国家を抑圧装置と捉える考え方ではないでしょうか。地域のコミュニティーは大切にするけれど、そこから国家をバイパスしていきなり地球市民になるという特異な考え方は日本独自のものでしょう。」
国家に対しては、たかるばかりだ。
「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」(ジョン.F.ケネディ)
国に殉じた人を思わぬ人は今の国民も思わない人と断ずる。
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