キリスト教は「初めに言葉ありき」というが、仏教では「初めにいのちありき」である。
仏教は自己生命が根本である。
一切は自分が生まれてからの話である。自己が生命体験することにあらゆるものは存在することになる。そのあらゆる存在を体験しつつ生きているのである。
仏教は素朴実在論である。正見されたものは実在と看做すのである。
パソコン通信で知り合ったH氏は次の通りまとめている。参考のためにお示しする。
【1】佛教は素朴実在論
【2】認識していない「ものごと」は言及不可能
【3】「ものごと」は認識内容のみ言及可能
【4】認識を離れた「ものごと」は非存在とみなす
【5】この意味で「存在論」と「認識論」は不可分離(認識内容、結果が存在論)
【6】よって、空の言及内容は「ものごと」であると同時に「認識や心」を論じている
【7】縁起やその他の法体系も同じであり、佛教とそれ以外を峻別する基準でもある。
P.S.
前回は文字色が黒色で読みにくい記事になってしまいました。読みにくいまま放置して失礼しました。
今回修正しております。
自灯明。
しかし、その比類なき自己(生命)も無常で泡沫のものだから、その実体化から離れろ。というところが仏教の凄さというか、厳しさでもあるかと思います。
宇宙とか生命に座って落ち着くというのは、梵我一如、もっというとプロティノスの一者(もっというと一神教)とあまり変わらないのではないでしょうか?
比喩で概念を言うのは良いですよ。
道元の明珠とか。
「はっきりと」宇宙力や生命があるとまで言ってしまうと
もはや仏教と呼ぶ必要ないのではないしょうか。
仏教は自己が根本、つまりいのちです。
それは縁起によって成り立っている。
縁の繋がりは無限である。
仏教の世界観は無始無終無限
私の世界観は科学的宇宙観、有限です。膨大過ぎて無限といっていいでしょう。
つまり、仏教から外れているとは思いません。
輪廻なんて信じてません。佐々木閑先生もそうです。
基本特許はお釈迦さんがお持ちだが、応用特許はいろいろ出てくるでしょ。
>輪廻なんて信じてません。佐々木閑先生もそうです。
原始仏教時代であれば、当時、一般に信じられていた輪廻から解脱、
日本仏教となると、輪廻とはあまり言わず、生死の苦しみからの解脱が一大事となっているのではないでしょうか。
一法さま
生死とは何でしょうか?
誰が生死するのでしょうか?
生死の苦を逃れるにはどうしたら良いでしょうか。
朝、目が覚めて、実感することは何でしょう。
「あっ、俺は生きている」ということではないですか。ちゃんと実感するものがある。
寝ている間もちゃんと生きてきた実物がある。
それをどう考えるかの話です。
それについてどう考える。
世俗では当たり前のことですね。
仏教観点として生死の問題はどのようにお考えでしょうか?
訂正させてください。
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生命があるという。生命の実物。
それについて考える。
世俗では当たり前のことですね。
しかし、その状態では、有我な自己のまま有我な自分を考えているだけではないでしょうか。
五蘊なんてないし、切れば死んでしまう!
そうして、有我のままでいい!といえば、
結局のところ、世俗となんら変わりませんよね。
一法さんは有我のままでOKというご認識ですか?
前コメでもお聞きしましたが、仏教観点として生死の問題はどのようにお考えでしょうか?
意味がわかりません。素朴とは何でしょうか?
>【2】認識していない「ものごと」は言及不可能
認識しようがしまいが、言及はできますよね。
例えば、宇宙にはアートマンがある。など
真理として認識不可が正しいのでは?
>【3】「ものごと」は認識内容のみ言及可能
上記同様
>【4】認識を離れた「ものごと」は非存在とみなす
「非存在」という言い方自体、仏教ではありません。
外道です。
>【5】この意味で「存在論」と「認識論」は不可分離(認識内容、結果が存在論)
この意味はよくわかりませんでした。
>【6】よって、空の言及内容は「ものごと」であると同時に「認識や心」を論じている
「空」を主語にしてはダメではないですか?
空を実在とするのがダメだと龍樹様が
>【7】縁起やその他の法体系も同じであり、佛教とそれ以外を峻別する基準でもある。
よくわかりません。
H氏が項目として挙げられたものを記録しただけでその意味を深く問うたわけではなく私がそれとなく理解しただけのものです。したがって解釈は書いておりません。
仏教を哲学的に捉えての見解ですから、用語は仏教用語を用いるわけではありません。
ご自分でお考えいただいて取捨選択されるのがよいかと思います。
素朴実在論とは
素朴実在論とは、実在論の一形態で「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである。 (ウィキペディア)
仏教は認識において、認識主体と認識客体とは分けません。
その心の働きを干栗多心、草木心といいます。
正しく認識したものは存在する。認識しないものは存在しない。
空は存在しないということではありません。その有り様が縁起によってなるものだから無自性といっているのです。
7番は認識論と存在論は不可分だということを言っているのだと思います。