チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「良寛 行に生き行に死す」

2013-03-03 12:45:15 | 独学

37. 良寛 行に生き行に死す (立松和平 2010年発行)

 『 文政十(一八二七)年、良寛は七〇歳である。福島村(現・長岡市福島町)の閻魔堂に草庵を結んでいた二九歳の貞心尼が、尊敬する良寛に和歌を見てほしいと、かねて懇意にしていた木村家に申し入れていた。

 貞心は長岡藩士の二女で、俗名マスといい、寛政十(一七九八)年生まれである。十七歳で小出(現・魚沼市)の医師・関長温に嫁し、夫との死別を機縁とし、出家した。

 良寛はあちらこちら泊まり歩いて留守がちであった。その不在の時に貞心は自作の手まりに和歌を添えて良寛の庵室に残していった。

 これぞこの 仏の道に 遊びつつ つきや尽きせぬ 御法なるらむ

 (これがまあ、仏道に遊びながら、ついてもつきない仏の教えを体現する手まりなのでしょうね。いずれ、お目にかかり、まりつきによる仏法の極意を教えてくださいませ)

 良寛の生き方がまことに仏の道にかない、まりをつくことは「尽きぬ」無量の功徳があると詠んでいる。良寛の生き方の理解者である。和歌に感心した良寛はすぐに返歌を人に託して贈った。

 つきてみよ 一二三四五六七八九の十 十とをさめてまたはじまるを

 (私について、まりをついてみなさい。一二三四五六七八九(ひふみよいむなやここ)十(とお)と、十で終り、また一から始まるくり返しに仏の教えがこめられている)

 「つきてみよ」とは、来訪を歓迎するということである。この返歌に喜んだ貞心尼は、さっそく島崎に良寛を訪ねた。

 良寛の前に坐った貞心尼は、才媛もさることながら、清楚でにおいたつような美貌の人であった。四十歳の年齢の差など越えたほのかな恋愛感情が二人の間に湧き上がるのは、ごく自然のことだ。

 道をひたすら歩いてきた良寛への、仏の布施であるようにも思える。夫の死という人生の苦難をなめてきた貞心尼にも、同じことがいえる。

 良寛を愛する多くの人は、晩年に梅花が咲いたような精神的な恋愛に、憧れにも似た感情を持つのである。貞心尼、「蓮の露」にとられた師と弟子の歌は、ほとんど相聞歌だ。文政十(一八二七)年七月、初対面の夜の歌である。

 君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思う  貞

 (師の君にはじめてこうやってお目にかかり、嬉しくていまだに覚めない夢のような気持です。夢ならばやがて覚めるでしょうか)

 夢の世に かつまどるみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに  師

 (夢のようなはかないこの世の中で、もううとうとと眠って夢を見、またその夢を語ったり夢を見たりするのも、その成り行きにまかせましょう)

 二人は話と歌の交換に夢中になり、夜になってしなった。良寛は貞心尼に木村家に泊まるようにいったが、また話し込み、結局、朝になってしまった。

 良寛と貞心尼の交際は四年間、良寛の死までゆっくりとつづく。 』


 『 島崎に移住して五年目の天保元(一八三〇)年夏頃から、良寛は激しい痢病を患って衰弱していった。木村家の人たちは献身的に世話を焼いた。貞心尼に会いたいという思いをつのらせていた良寛は、こらえ性のない真情を吐露した歌を贈っている。

 あずさ弓 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ 逢ひたきものを

 (暖かい春になったならば、庵を出て早く私の所へ来てください。あなたの顔が見たい)

 「逢ひたきものを」といい切るところに、良寛の飾らない人格と、人間的な叫びがある。木村家の人が急に病気が重くなったと知らせてきたので、貞心尼はあわててとんでいった。

 すると良寛は床の上に坐り、にこにこして貞心尼を迎えた。日がたつにしたがって良寛の病状はどんどん悪くなっていく。避けられない別離を悲しんで貞心尼が詠むと、良寛が返した。

 生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき  貞

 (お師匠さまと私とは、生死の境界を超えて仏につかえる身ですのに、避けられない別離があるのは悲しいことでございます)

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

 (紅葉が裏を見せ表を見せてひらひら散るように、私も喜びと悲しみ、長所と短所など、さまざまな裏と表の人生を世間にさらけ出しながら、死んでいくことだ)

 天保二(一八三一)年正月六日、良寛は由之や貞心尼や木村家の人々が見守る中、坐したまま静かに入寂したという。この世の形見に親しい人へと何枚も書き残したこの歌が辞世である。

 形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

 もちろんこれは道元の釈歌「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」からきている。まさに道元とともに生きた生涯であった。良寛にはもう一つ辞世と呼ばれる歌がある。

 良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と 言ふと答へよ

 この歌の意味は深遠である。峻烈なる禅修行から仏門にはいった良寛が、人や世間や自然と交わっていくうち、その身を仏の家に投げ入れる。「月の兎」のようである。晩年の道元にも同じようなことを感じる。

 甚深なる仏の境地には、自力門も他力門もない。途中の道はともかく、真理としての仏は一つなのである。そのことを良寛の辞世の句は示したいる。

 良寛の葬儀の当日は大雪だったが、二百九十五人もの会葬者があった。戒名は「大愚良寛首座」である。墓地は木村家と隣接した浄土真宗隆泉寺と定められ、現在もそこに建っている。 』


 『 禅宗二祖慧可は幼い日より志気があり、詩書を数多く読んで、奥深い道理に詳しくなった。しかし家の経済活動をせず、好んで山水に遊んだ。

 また禅宗初祖達磨に学んだ後は、都に住んで自由自在に活動し、酒場に出入りしたり、人の召し使いになったりした。

 つまり、俗世の中でよく働いた。慧可は奥深い僧堂や山村に籠もるのでなく、町に出て人々のために勤労雑役を行った。

 良寛は二祖慧可に深く共鳴し、「僧可」と省略して呼んだ。慧可は身を粉にして働いたが、それも人のためであり、自分はいつも清貧であった。

 子供と手毬をついて遊んでいた印象の強い良寛であるが、故郷の越後に帰って間もなく、はじめて庵を結んだ郷本(長岡市寺泊)にいた頃は、よく労働をしていたとされる。良寛は若い時から安隠として時を過ごしていたのではないのである。

 家は荒村に在りて裁かに壁立し   (わずかにへきりつし)
 展転として傭賃して且く時を過ごす (ようちんしてしばらく)
 憶ひ得たり疇昔行脚の日     (おもひえたり、ちゅうせきあんぎゃのひ)
 衝天の志気敢へて自ら持せしを  (しょうてんのしき、あへて)
 
 (家は荒れた村にあり、壁が立っているばかりで家財道具もなく/あっちこっち点々として日雇い仕事で時を過ごしている/思い出すのはその昔に行脚修行をしていた日に/天を衝くほどの激しい求道心を自ら持ちつづけていたことである)

 良寛は労働こそ修行と考え、ことに若い頃にはよく働いていたということである。良寛は玉島円通寺から越後に戻り、郷本の空庵にはいった頃、雇われて製塩の仕事に従事していたとされる。

 ただし良寛は労働を特化するのではない。托鉢も、子供と遊ぶことも、傭賃も、人のやることはすべて修行の一端だと考えていた。

 この思想を積極的に展開したのが道元である。良寛の言動は、ふと立ち止まって凝視すると、その向こうに道元の姿が見えてくる。道元の「典座教訓」(てんぞきょうくん)の言葉である。

 典座云う、「文字を学ぶ者は、文字の故を知らんと為すなり。弁道を務むる者は、弁道の故を肯わんことを要むるなり」と。山僧、他に問う、「如何なるか是れ文字」と。座云う、「一二三四五」と。又問う、「如何なるか是れ弁道」と。座云う、「偏界曾て蔵さず」(へんがいかつてかくさず)と。

 ここに道元禅の出発点となった思想があり、良寛がそれに深い影響を受けて、その後の生き方が決定されたことがわかる。「一二三四五」や「いろはにほへと」は、良寛が書としてよく書いたものである。訳を試みてみよう。

 典坐はいった。「文字を学ぶものは、文字とは何かという真実を知ろうとするものである。仏道修行とは何かという真実を知ろうとするものである」と。私は彼に問うた。「文字の真実とはいったいなんですか」と。

 典坐はいった。「一二三四五」と。また私は問うた。「仏道修行の真実とはいったいなんですか」と。典坐はいった。「すべての世界は何も隠されてない」と。

 「一二三四五」は文字の最小単位である。文字は組み合わせによって無限の意味を持ち、詩歌に使われれば、人間の情感さえも漂わせてくる。

 しかも、その組み合わせの数は限定できるものではない。これが世の中の成り立ちというものである。

 一つ一つは意味を持っていないからこそ「空」であり、空ならばこそ、そこから無限の世界が描き出されるということだ。「空」の中にはすべてがあるのだ。

 「偏界曾て蔵さず」は、真理はどこでもあふれていて、しかも露わだということだ。仏の説く真理は、坐禅をする僧堂の中だけにあるのではない。

 海でも山でも、掃除をする部屋の中にも、草むしりをする庭にも、この手の上にも、あまねく真理は流れている。真理でないものは、あえて身のまわりを探すと、人間のすることぐらいしかないにではないか。

 花鳥風月などの自然の巡りも、朝日の流れも、一片も欠けることのない円かな(まどかな)真実である。だが人はそのことに気づかない。気づかないことが哀れではないか。

 また人のすること、行・住・坐・臥(が)、歩いたり立ったり坐ったり横になったりすることすべての行の中に、真実がある。

 労働をすることにも真実があるのだ。だからこそ、たちまち消え去っていくこの一瞬一瞬が、かけがえもなく大切なのである。
 
 そうであるからこそ、慧可は街をうろつきまわり、肉を食べ、酒場にはいり、労働をして、人の召し使いにもなったのである。そのどの場所にも真実があったからだ。真理はどこにあってどこにはないということはない。

 良寛は天地一枚の真理のまっただ中に生きていたのである。真理に包まれているのにそれに気づかない人もいる。

 もちろん良寛は仏の説く真実とともにこの世に生きていることを喜んでいたのである。もちろん慧可も道元も同じである。

 私たちは真理に囲まれ、そのただ中で生きているのだが、そのことを認識していない。真理はどのようにして偏在しているかを知れば、良寛その人を少しは理解できるような気が私はするのである。良寛は真理とともに遊んで生涯を送ったのだ。 』


 著者の立松和平は、1947年宇都宮生まれ、早稲田大学在学中に「自転車」で早稲田文学新人賞を受賞、インド放浪などをへて、宇都宮市役所に勤務。

 1979年(32歳)から文筆活動に専念。1980年「遠雷」で野間文芸新人賞、1993年「卵洗い」で坪田譲治文学賞、2002年「道元の月」で大谷竹次郎賞、2007年「道元禅師」で泉鏡花文学賞など多数。2010年2月、逝去。

 本書は、2010年6月発行なので、著者の生前に企画され、執筆が進められた。本書の最後の「蛙声、絶えざるを聴く」章が絶筆である。

 以下このブログの筆者の感想を記す。
立松和平は、道元から良寛へと禅僧の歴史をたどりながら、良寛が目指したであろう、道元とその著作をたどった。

 その後、良寛、貞心尼の足跡と著作をたどり、その膨大な著作を本書を最後に絶筆した。著者の良寛への尊敬と愛が、それを読む私たちにも、伝わってくる。

 私(このブログの筆者)に、仏教とは、何かと問われれば、(私に聞く人はいないが(ここでの仏教とは、日本仏教を指す))。

 仏教とは、鑑真和上(688~763年)、広隆寺弥勒菩薩像(7世紀)、良寛と答える。私にも良く解らないが、彼らは、自分の命をも捨てる覚悟で、真理(学問)を追求し、修行した。

 何故人と仏像が混ざるのか、彼らは仏の域に達しているから、と答える。これらの仏は、私たちには、慈悲深い表情で答えるが、命をかけて真理(農業、建築、文字、薬学、芸術、宗教、森羅万象の真理)を探求し、修行し、その足跡を残した。(第38回)