チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「英語で読む啄木」 (後)

2016-03-16 20:47:26 | 独学

  110. 英語で読む啄木 (後) 〔自己の幻想〕  (ロジャー・パルバース著 2015年4月)


 私も啄木の歌集「一握の砂」を40年ほど前に、読んでいるはずですが、今回のように日本語と英語で啄木の歌を読んでみますと、百年の時を超えて、訳者を介して詩の感動が伝わってきました。

 最初の目的は、英語を学ぶために効果があればと考えましたが、私たち日本人が啄木短歌の感動を知らないのは、もったいないと思い、もう20首ほど紹介します。


 『  THREE-STORY  BUILDING 

 A  spring  snow                   春の雪

 Is  falling  gently  against  bricks        銀座の裏の三階の煉瓦造に

 On  a  Ginza  backstreet.             やわらかに降る


 啄木の短歌の一部は明治末期をリアルに描いています。この短歌も写生画のひとつです。当時、銀座の裏通りにあった「高層ビル」の描写は、その時代を生き生きとよみがえらせ、柔らかくて白い雪と硬い赤い煉瓦の対照はとても啄木的です。


  ON  A  TRAIN

 I  glimpsed  out  the  window  on  a  rainy  night       ふと見れば

 To  catch  the  clock  at  a  station                 とある林の停車場の時計とまれり

 Stopped  in  the  woods.                       雨の夜の汽車 

 

 まるで「銀河鉄道の夜」に出てくる小さな場面のようなこの短歌を賢治は知っていたのでしょう。汽車が森の中の駅を通り過ぎようとしているのに、時計が止まっているイメージは、賢治の創作のひらめきになったものだと感じました。


  MY  HOME  TOWN

 I  face  the  mountains              ふるさとの山に向いて

 speechless.                     言うことなし 

 I  owe  those  mountains  everything.    ふるさとの山はありがたきかな


 「言うことなし」は彼が故郷に感じている気持ちをとても生き生きと描写しています。「ありがたき」は grateful または thankful と訳してもいいかもしれませんが、ここでは適切ではありません。啄木の故郷への反応はもっと絶対的です。ふるさとの山が存在しなければ、創造力のある人間になることはできなかった……少なくとも彼はそう信じていたでしょう。 owe : のおかげをこうむる


  WITHOUT  A  THOUGHT

 I  hopped  onto  a  train              何となく汽車に乗りたく思いしのみ

 But  jumped  off  at  a  station          汽車を下りしに

 Unable  to  move  backward  or  forward.  ゆくところなし


 hopped onto (乗りこんだ)と jumped off (飛び下りた)といった言葉は、何も考えずに取った行動が衝動的だったことを強調しています。


  NEVER  FAR

 I  miss  the  mountains  of  Shibutami.       かにかくに渋民村は恋しかり

 I  miss  the  rivers  of   Shibutami.          おもいでの山

 They  ara  never  far  from  my  mind.        おもいでの川


 渋民にかんするもう一編の有名な短歌。「恋しかり」を never far from my mind (こころから決して離れてない)と訳し、詩を NEVER FAR (決して遠くない)と名づけました。これらの言葉は、彼の心は渋民を離れたことがなかったことを暗示してます。


  RAIN

 The  rain  in  the  capital  conjures            馬鈴薯のうす紫の花に降る

 The  rain  that  falls  equally                 雨を思えり

 On  the  pale  purple  potato  flowers  of  home.   都の雨に


 雨は、彼のいる東京と、自分の心のよりどころである渋民を物理的につなぐものです。 』


 『 BELIEF

 I  believe  in  the   new  age.       新しき明日の来るを信ずという

 My  belief  and  my  word        自分の言葉に

 Are  one …  yet.              嘘はなけれど―――


 この短歌のニュアンスは「なけれど」(英語の場合は yet )から来ています。ですが、この yet には二つの意味があります。ひとつは「けれど」に近く、もうひとつは「今までのところ」に似ています。それはタイトルの単語 belief によって補強されています。


  LABOR

 However  long  I  work         はたらけど

 Life  remains  a  trial.          はたらけど猶わが生活楽にならざり

 I  just  stare  into  my  palms.     じっと手を見る


 この有名な短歌は、労働者の生活に関する啄木の代表的な発言のひとつです。彼にとって生きることは trial (苦難)です。生きることを単に hard または not easy というのではなく、慎重にこの英語を選びました。人生は、「どうするのですか」と問われる trial (裁判、試練)でもあるのです。啄木の答えはただ自分の手を見つめて状況を省みるだけのようです。


  A  FAIND

 I  slipped  my  hand  into  a  sand  dune.     いたく錆びしピストル出でぬ

 As  I  dug  in  my  fungers  touched        砂山の

 A  pistol  crusted  in  rust.               砂を指もて掘りてありしに


 ここでは、ドラマが読者の心に残ります――この次、彼は何をするのでしょうか? dune : 砂の小山 crust : 堅い外皮で覆う


  FUMES

 It  gaves   me  no  joy  to  turn  my  gaze             新しきインクの匂い

 To  my  garden  turning  green                   目に沁むもかなしや

 While  my  eyes  sting  from  the  fumes  of  fresh  ink.   いつか庭の青めり


 「かなしや」を it gives me no joy と訳すことにしました。もっとも良い訳はときおり文法的には反対になります。賢治の「雨ニモマケズ」でも同じことをして strong in the rain と訳しました。これは興味深い短歌です。啄木が新しいインクで書くことに意欲満々なのは明らかです。「突然」咲き出した庭、あるいは原稿用紙のどちらを見るべきなのでしょうか。 fume : 刺激臭


  MY  PULSE

 The  nurse's  fingers  on  my  pulse      脈をとる看護婦の手の

 Feel  warm  some  days             あたたかき日あり

 And  some  days  cold  and  stiff.       つめたく堅き日もあり


 療養中は、過ぎていく時間の感覚が鈍くなります。何か聞こえてもその意味はわかりません。一方、看護婦のような人にさわられると、そのさわり方と「意味」に敏感になります。


  COMING  TO

 Affection  for  my  wife  and  daughter       病院に来て

 Visiting  the  hospital                  妻や子をいつくしむ

 Has  brought  me  back  to  myself.         まことの我にかえりけるかな

 「我にかえり」と完全に一致するのは bring back to oneself、あるいは come back to oneself です。啄木が深く落ち込むときに、自分は自分でないとはっきりと意識していることをあらわしています。

 

  MY  THOUGHTS  AGAIN

 The  pain  in  my  chest  today  is  intense.     今日もまた胸に痛みあり

 If  I  am  to  die  let  me  go  and  die         死ぬならば

 In  my  old  home  town.                 ふるさとに行きて死なんと思う


 岩手にある啄木の故郷に関連した有名な短歌。啄木はそこで死にたいのですが、結局、彼が死んだのは東京でした。実行できないかもしれないアイデアについて、啄木はふたたび書いています。 』


 『 THE  RAIN

 When  did  summer  come  upon  us     いつしかに夏となれりけり

 With  the  comfort  for  faint  eyes       やみあがりの目にこころよき

 Of  radiant  rain?                  雨の明るさ!


 ふつう、夏雨は目にまぶしいものです。長い間、病院の暗い部屋になれている目にはとくにそうです。時に東京の雨季に暗い空はつきものです。まぶしさは啄木に安らぎを与えます。だって、もうひと夏、生き延びることができたのですから。


  IN  BED

 The  weight  alone  of  this  book       寝つつ読む本の重さに

 Exhausts  me,  sending  my  mind      つかれたる

 In  all  directions.                 手を休めては物を思えリ


  SAND

 How  easily  this  pathetic  lifeless  sand     いのちなき砂のかなしさよ

 Slips  between  the  fingers              さらさらと

 Of  a  fist!                         握れば指のあいだより落つ

  

 pathetic は「苦痛」を意味するギリシャ語の pathos に由来します。悲しみと哀れみの両方を連想させる性質が pathos にはあります。「握る」ときの手の力を強調するために fist (拳骨、握りこぶし)を選びました。


  ONE  MORNING

 The  smell  of  simmering  miso            ある朝のかなしき夢のさめぎわに

 Entered  my  nostrils  just  before  awakening   鼻に入り来し

 From  a  sad  dream.                    味噌を煮る香よ


 翻訳の最初の一行には smell (匂い)、simmering (とろ火でグツグツ煮えること)といった頭韻があり、m と s を含む miso という言葉の音は、その効果を上げています。この行とその音は空気中にただよう匂いのイメージをかもし出します。みそは今、多くの国で食べられているので、その言葉はそのままにしました。


  THE  JAPANESE  ISLE

 Tears  stream  down  my  cheeks        東海の小島の磯の白砂に

 Into  the  coarse  white  sand           われ泣きぬれて

 And  I  amuse  myself  with  a  crab.      蟹とたわむる


 啄木の孤独感と孤立感を表現する、やはり有名な短歌です。coarse white sand に coarse を選んだ理由は、それが磯を意味するだけではなく「きめの粗い」という意味があるからです。「たわむる」の場合、彼の孤独と自分に固執することを強調する amuse myself (おもしろがる、楽しむ、自らを慰める・惑わす)のほうが play with (遊ぶ)よりもいいと思いました。


  FOR  NEARLY  HALF  A  DAY

 I  picked  at  the  hard  bark  on  the  tall  tree     大木の幹に耳あて

 With  my  fingertips                      小半日

 My  ear  flush  against  the  trunk.            堅き皮をばむしりてありき


 かたい樹皮と柔らかい皮膚の対照、そして高い木と小さな耳の対照的なスケールにはっとさせられます。これは生きることのつらさのメタファーでしょうか。賢治には自然からのあらゆる種類の音、音楽さえも聞こえていました。啄木はここで自然からメッセージを受け取ろうとしているのでしょうか。しかし自然は何のメッセージを発することもありません。啄木のことを「二十世紀最初の実存主義詩人」と呼ぶことができるでしょう。


  DRIFTWOOD

 I  look  around  before  addressing       砂山の裾によこたわる流木に

 The  driftwood  left  at  the  edge        あたり見まわし

 Of  a  sand  dune.                  物言いてみる


 to address という動詞はここで展開されている二つの意味があります。ひとつは「話しかける」、もうひとつは「(物・事)に焦点をあてる」です。啄木は、「流れる(drift)」木のように、状況によってあちこち運ばれるモノとして自分を見ているのです。 』 


 啄木は、結核と戦い、貧しさと戦い、有り余る才能(情熱)と戦って、二十六歳の若さで亡くなりましたが、そのおかげで、百年の歳月を経ても、英語に翻訳しても、世界の人々に感動を与えることができます。

 啄木にもう少し楽な人生を歩んで欲しかったと思いますが、そうであったらこのような詩の輝きは、生まれていないのでは……。今回は自分の英語力不足は無論ですが、自分の日本語力不足までも痛感しました。(第109回)



コメントを投稿