110. 英語で読む啄木 (後) 〔自己の幻想〕 (ロジャー・パルバース著 2015年4月)
私も啄木の歌集「一握の砂」を40年ほど前に、読んでいるはずですが、今回のように日本語と英語で啄木の歌を読んでみますと、百年の時を超えて、訳者を介して詩の感動が伝わってきました。
最初の目的は、英語を学ぶために効果があればと考えましたが、私たち日本人が啄木短歌の感動を知らないのは、もったいないと思い、もう20首ほど紹介します。
『 THREE-STORY BUILDING
A spring snow 春の雪
Is falling gently against bricks 銀座の裏の三階の煉瓦造に
On a Ginza backstreet. やわらかに降る
啄木の短歌の一部は明治末期をリアルに描いています。この短歌も写生画のひとつです。当時、銀座の裏通りにあった「高層ビル」の描写は、その時代を生き生きとよみがえらせ、柔らかくて白い雪と硬い赤い煉瓦の対照はとても啄木的です。
ON A TRAIN
I glimpsed out the window on a rainy night ふと見れば
To catch the clock at a station とある林の停車場の時計とまれり
Stopped in the woods. 雨の夜の汽車
まるで「銀河鉄道の夜」に出てくる小さな場面のようなこの短歌を賢治は知っていたのでしょう。汽車が森の中の駅を通り過ぎようとしているのに、時計が止まっているイメージは、賢治の創作のひらめきになったものだと感じました。
MY HOME TOWN
I face the mountains ふるさとの山に向いて
speechless. 言うことなし
I owe those mountains everything. ふるさとの山はありがたきかな
「言うことなし」は彼が故郷に感じている気持ちをとても生き生きと描写しています。「ありがたき」は grateful または thankful と訳してもいいかもしれませんが、ここでは適切ではありません。啄木の故郷への反応はもっと絶対的です。ふるさとの山が存在しなければ、創造力のある人間になることはできなかった……少なくとも彼はそう信じていたでしょう。 owe : のおかげをこうむる
WITHOUT A THOUGHT
I hopped onto a train 何となく汽車に乗りたく思いしのみ
But jumped off at a station 汽車を下りしに
Unable to move backward or forward. ゆくところなし
hopped onto (乗りこんだ)と jumped off (飛び下りた)といった言葉は、何も考えずに取った行動が衝動的だったことを強調しています。
NEVER FAR
I miss the mountains of Shibutami. かにかくに渋民村は恋しかり
I miss the rivers of Shibutami. おもいでの山
They ara never far from my mind. おもいでの川
渋民にかんするもう一編の有名な短歌。「恋しかり」を never far from my mind (こころから決して離れてない)と訳し、詩を NEVER FAR (決して遠くない)と名づけました。これらの言葉は、彼の心は渋民を離れたことがなかったことを暗示してます。
RAIN
The rain in the capital conjures 馬鈴薯のうす紫の花に降る
The rain that falls equally 雨を思えり
On the pale purple potato flowers of home. 都の雨に
雨は、彼のいる東京と、自分の心のよりどころである渋民を物理的につなぐものです。 』
『 BELIEF
I believe in the new age. 新しき明日の来るを信ずという
My belief and my word 自分の言葉に
Are one … yet. 嘘はなけれど―――
この短歌のニュアンスは「なけれど」(英語の場合は yet )から来ています。ですが、この yet には二つの意味があります。ひとつは「けれど」に近く、もうひとつは「今までのところ」に似ています。それはタイトルの単語 belief によって補強されています。
LABOR
However long I work はたらけど
Life remains a trial. はたらけど猶わが生活楽にならざり
I just stare into my palms. じっと手を見る
この有名な短歌は、労働者の生活に関する啄木の代表的な発言のひとつです。彼にとって生きることは trial (苦難)です。生きることを単に hard または not easy というのではなく、慎重にこの英語を選びました。人生は、「どうするのですか」と問われる trial (裁判、試練)でもあるのです。啄木の答えはただ自分の手を見つめて状況を省みるだけのようです。
A FAIND
I slipped my hand into a sand dune. いたく錆びしピストル出でぬ
As I dug in my fungers touched 砂山の
A pistol crusted in rust. 砂を指もて掘りてありしに
ここでは、ドラマが読者の心に残ります――この次、彼は何をするのでしょうか? dune : 砂の小山 crust : 堅い外皮で覆う
FUMES
It gaves me no joy to turn my gaze 新しきインクの匂い
To my garden turning green 目に沁むもかなしや
While my eyes sting from the fumes of fresh ink. いつか庭の青めり
「かなしや」を it gives me no joy と訳すことにしました。もっとも良い訳はときおり文法的には反対になります。賢治の「雨ニモマケズ」でも同じことをして strong in the rain と訳しました。これは興味深い短歌です。啄木が新しいインクで書くことに意欲満々なのは明らかです。「突然」咲き出した庭、あるいは原稿用紙のどちらを見るべきなのでしょうか。 fume : 刺激臭
MY PULSE
The nurse's fingers on my pulse 脈をとる看護婦の手の
Feel warm some days あたたかき日あり
And some days cold and stiff. つめたく堅き日もあり
療養中は、過ぎていく時間の感覚が鈍くなります。何か聞こえてもその意味はわかりません。一方、看護婦のような人にさわられると、そのさわり方と「意味」に敏感になります。
COMING TO
Affection for my wife and daughter 病院に来て
Visiting the hospital 妻や子をいつくしむ
Has brought me back to myself. まことの我にかえりけるかな
「我にかえり」と完全に一致するのは bring back to oneself、あるいは come back to oneself です。啄木が深く落ち込むときに、自分は自分でないとはっきりと意識していることをあらわしています。
MY THOUGHTS AGAIN
The pain in my chest today is intense. 今日もまた胸に痛みあり
If I am to die let me go and die 死ぬならば
In my old home town. ふるさとに行きて死なんと思う
岩手にある啄木の故郷に関連した有名な短歌。啄木はそこで死にたいのですが、結局、彼が死んだのは東京でした。実行できないかもしれないアイデアについて、啄木はふたたび書いています。 』
『 THE RAIN
When did summer come upon us いつしかに夏となれりけり
With the comfort for faint eyes やみあがりの目にこころよき
Of radiant rain? 雨の明るさ!
ふつう、夏雨は目にまぶしいものです。長い間、病院の暗い部屋になれている目にはとくにそうです。時に東京の雨季に暗い空はつきものです。まぶしさは啄木に安らぎを与えます。だって、もうひと夏、生き延びることができたのですから。
IN BED
The weight alone of this book 寝つつ読む本の重さに
Exhausts me, sending my mind つかれたる
In all directions. 手を休めては物を思えリ
SAND
How easily this pathetic lifeless sand いのちなき砂のかなしさよ
Slips between the fingers さらさらと
Of a fist! 握れば指のあいだより落つ
pathetic は「苦痛」を意味するギリシャ語の pathos に由来します。悲しみと哀れみの両方を連想させる性質が pathos にはあります。「握る」ときの手の力を強調するために fist (拳骨、握りこぶし)を選びました。
ONE MORNING
The smell of simmering miso ある朝のかなしき夢のさめぎわに
Entered my nostrils just before awakening 鼻に入り来し
From a sad dream. 味噌を煮る香よ
翻訳の最初の一行には smell (匂い)、simmering (とろ火でグツグツ煮えること)といった頭韻があり、m と s を含む miso という言葉の音は、その効果を上げています。この行とその音は空気中にただよう匂いのイメージをかもし出します。みそは今、多くの国で食べられているので、その言葉はそのままにしました。
THE JAPANESE ISLE
Tears stream down my cheeks 東海の小島の磯の白砂に
Into the coarse white sand われ泣きぬれて
And I amuse myself with a crab. 蟹とたわむる
啄木の孤独感と孤立感を表現する、やはり有名な短歌です。coarse white sand に coarse を選んだ理由は、それが磯を意味するだけではなく「きめの粗い」という意味があるからです。「たわむる」の場合、彼の孤独と自分に固執することを強調する amuse myself (おもしろがる、楽しむ、自らを慰める・惑わす)のほうが play with (遊ぶ)よりもいいと思いました。
FOR NEARLY HALF A DAY
I picked at the hard bark on the tall tree 大木の幹に耳あて
With my fingertips 小半日
My ear flush against the trunk. 堅き皮をばむしりてありき
かたい樹皮と柔らかい皮膚の対照、そして高い木と小さな耳の対照的なスケールにはっとさせられます。これは生きることのつらさのメタファーでしょうか。賢治には自然からのあらゆる種類の音、音楽さえも聞こえていました。啄木はここで自然からメッセージを受け取ろうとしているのでしょうか。しかし自然は何のメッセージを発することもありません。啄木のことを「二十世紀最初の実存主義詩人」と呼ぶことができるでしょう。
DRIFTWOOD
I look around before addressing 砂山の裾によこたわる流木に
The driftwood left at the edge あたり見まわし
Of a sand dune. 物言いてみる
to address という動詞はここで展開されている二つの意味があります。ひとつは「話しかける」、もうひとつは「(物・事)に焦点をあてる」です。啄木は、「流れる(drift)」木のように、状況によってあちこち運ばれるモノとして自分を見ているのです。 』
啄木は、結核と戦い、貧しさと戦い、有り余る才能(情熱)と戦って、二十六歳の若さで亡くなりましたが、そのおかげで、百年の歳月を経ても、英語に翻訳しても、世界の人々に感動を与えることができます。
啄木にもう少し楽な人生を歩んで欲しかったと思いますが、そうであったらこのような詩の輝きは、生まれていないのでは……。今回は自分の英語力不足は無論ですが、自分の日本語力不足までも痛感しました。(第109回)
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