チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「全米最優秀女子高校生を育てた日本人の母」

2019-06-15 04:44:16 | 独学
186. 全米最優秀女子高校生を育てた日本人の母  (ボーク重子著 文芸春秋2019年6月号)  〔数値で表せない「非認知能力」が重要〕

 私が本文を紹介しますのは、単なる母親の自慢話を紹介するためではありません。教育の改革が、米国ではすでに始まっていることを紹介するためです。
 従来の教育は、極端に表現すると、何かを暗記してそのとおり答案用紙に書くことでした。この方式のエリートは、熟に通って、この種の試験の訓練によって、高得点を取ることでした。

 しかし、世界が直面する多くの問題は、答えの用意されてない問題を解決することが要求されます。本文では、本当に未来を拓く能力とは、何かについて書かれています。では読んでいきましょう。

 『 私の娘・スカイはアメリカのコロンビア大学に通っています。彼女は高校時代2017年7月、大学奨学金コンクール「全米最優秀女子高生」( The Distinguished Young Women of America Scholarship ) で優勝しました。

 このコンクールは六〇年以上の伝統を誇り、これまでに参加した高校生は八〇万人近くにのぼります。アメリカの高校生に贈られる賞のなかでも最も名誉があるものの一つとされており、毎年、各州と自治区の予選を勝ち抜いた五十一人の代表がアラバマ州に集まり、二週間にわたる審査が行われます。

 娘は首都ワシントンD.C.代表としてこの大会に出場しました。アジア系が優勝するのは三回目で、さらに六十周年の記念大会だったこともあり、アメリカのテレビ、ラジオ、新聞や雑誌などでも大きく取り上げられました。

 このコンクールでは、学力だけが審査されるわけではありません。審査基準は五つ。知力(25%)、コミュニケーション力(25%)、特技(20%)、体力(15%)、自己表現力(15%)という配分になっており、総合力が問われます。

 各基準のなかでも一貫して問われていたのは、正解のない問題に自分なりの答えを見つけ、解決していく力です。そのために必要なのは「非認知能力」と呼ばれる総合的な人間力なのです。

 こう語るのはボーク重子氏(53)は福島県出身で、現在アメリカに住む「国際コーチ連盟」認定ライフ(アメリカで広く認知されている人生についてのアドバイザー)兼アートコンサルタントだ。

 三十歳のときにロンドンの美術系大学院に留学し、現在の夫と出会い、1998年に渡米。同年、娘のスカイさんを出産する。子育てと並行しながらアジア現代アートギャラリーを経営し、近年はライフコーチとしてアメリカや日本でワークショップや講演活動なども行っている。著書に「世界最高の子育て」、「非認知力の育て方」などがある。

 一般的に「テストの結果」や「IQ(知能指数)」などの数値で表せる能力を「認知能力」と呼びます。一方で、教科書を使った勉強では養われない「くじけない心」や「想像する力」、「コミニュニケーション(協調)力」、「問題を見つけ、解決する力」、「やり抜く力」、「我慢する力」、「自己肯定感」など、数値で測れない能力を「非認知能力」と呼びます。

 アメリカでも、以前は日本のように学力偏重主義がはびこっていました。SAT(大学進学適性試験)という共通テストが生まれたのも、優秀さの基準が「点数」だったからです。ところが一九八〇年代になると、大学で「同じような学生しかいない」ということが問題になり、エリート校を中心に教育が変わってきたのです。
 そこで重視されるようになったのが、非認知能力でした。娘が四歳から通った「ボーヴォワール校」も非認知能力を伸ばすための教育を実践している学校でした。

 スカイを産んで思ったことは「私みたいになって欲しくない」ということでした。当時の私は自分に自身がなく、自己肯定感はほぼゼロ。「何をやってもどうせ駄目だろう」と思っていました。そこで娘が生まれて「私が受けた教育を受けさせたら同じになる。違う方法を試さなくては」と考えたのです。

 私は昭和の日本で典型的な詰め込み教育をうけました。中学一年生のときに福島県で五番になるなど、それなりの成績を取っていましたが、三十代になって自己肯定感もないようでは意味がありません。
 伝手をたどって人に会い、いろんな本を読んだりするうちに「非認知能力( Non congnitive skill )」という言葉を初めて知りました。

 ただ、どういう教育をすればそれが身につくものなのか、よく分からなかった。そこで。ボーヴォワール校を見学に行ってみたのです。
 実際に教室に行ってみると、あんなにイライラしたのは生まれて初めてでした。幼稚園の年齢の子供たちに「1+1=2」を教えていたのですが、まず先生が指を使ってお手本を見せる。そのあと、「さあ、皆さんはどうやって1+1=2を発見しますか? そこにあるビーズやペン、リンゴなど、何でもいいので使ってやってみてください」と言う。

 それを丸々一時間かけてやっていたのです。日本だったら、さっさとやり方を覚えさせて計算の練習をさせるでしょう。ボーヴォワール校ではのんびりリンゴを食べてしまっている子供もいました。OECD(経済協力開発機構)がやっているPISAという学力テストで日本はいろんな分野で一位や二位になったりするのですが、アメリカはだいたい二十位くらい。それももっともだなと思いました。

 授業が終わって先生と話をすると「我が校では覚えさせる教育はしないんです。大事なのはプロセスですから」と言う。「でも、これでは競争に負けるのではないか。私は子供の教育に失敗したくない」と言うと、系列の高校の見学も勧められました。

 ボーヴォワール校は幼稚園から高校までの一貫校なのです。高校に行くと生徒たちが芝生に寝転んで本を読んだりしていました。見学した授業は「最高裁でこういった判決が出ましたが、あなたはこれについて賛成ですか? 反対ですか? 自分の意見を述べてください」という日本ではまったく見かけない内容でした。
 
 幼稚園に戻って、先生に「高校でも同じようなことをやっていますね」と言うと、「そうです。重要なのは思考のプロセスです。正解かどうかは関係ないのです」と言う。そこで進学実績について聞くと、「ほぼ全員が全米トップ二〇の大学に行きます。二割はアイビーリーグ(ハーバード大、コロンビア大、イェール大など東海岸の名門私立八大学)に進学します。」と。

 驚いて「こんな教育でそういうトップ大学に行けるのですか?」と聞くと、「結局、社会が求める人材や優秀さの基準が変わってきているのです」という説明でした。たしかに、たとえば計算が速くできる能力などは、練習すれば誰でも身につけることができますし、コンピューターは人間より速くできます。

 これからは考えて何かを作り出していく能力を育まなければならない、と納得したのです。実際にボーヴォワール校に入学させると、やはり教育方法は独特でした。カリキュラム自体は普通の小学校と同じですが、小学校三年生まで宿題はなし。教科書もありませんでした。日本では小学校二年生で覚える「九九」もやりませんでした。

 心配になって先生に相談すると、「人より早い時期に速く計算できるようになることが、そんなに大事なの?」と逆に質問される始末です。
 宿題についても、「どうしても宿題が欲しいなら」と課せられたのが「毎日二十分空想する」というものでした。

 何の意味があるのかと半信半疑でしたが、クレヨンや画材を置いた「アートルーム」を設けて、ここで小学校六年生まで毎日ニ十分間を過ごさせました。娘は絵を描いたり、何もせずにぼーっと過ごしたりしていました。
 そんなことでコロンビア大に合格できるほどの学力がつくのか疑問に思われるかもしれませんが、非認知能力を高める教育を受けた娘は、自分のやるべきことを理解し、いつも自分から勉強していました。

 私は一度も「勉強しなさい」と言ったことはありません。その結果、SATではほぼ満点を取り、高校四年間の成績も一つを除き全てAでした。「全米最優秀女子高校生」のコンクールも、大学の学費がとても高いことを知った娘が、少しでもその足しにしようと自分自身の判断で出場を決めました。

 一方で、勉強ばかりをしていたわけでもなく、大好きなバレエにも打ち込んでいました。バレエはとても厳しい世界で、傍から見ていても辛いだろうなと思うときもありましたが、勉強と同じく自ら問題に立ち向かい、何かあっても自ら立ち上がっていました。

 娘がこうした精神的な強さや問題解決能力の高さを身につけることができたのは、非認知力を伸ばす教育に負うところが大きいのは間違いありません。 』

 『 非認知能力にフォーカスした教育は、すでにアメリカの私立のエリート校ではかなりの割合で採用されています。一方で、公立校ではなかなか広がりませんでした。それは「先生の教育」にコストがかかるからです。
 カリキュラムは同じなのですが、教え方が違います。「教えない教育」といいますか、子供自らに発見させて、考えを引き出すためには、先生の質問の仕方ひとつから違ってくるのです。

 二〇〇六年に政府が、非認知能力教育に「本当に効果があるんだろうか」と、バージニア大学と共同研究を行ないました。バージニア州にある二十八の公立校に非認知能力を導入し、約二千八百人の子供たちと先生を三年にわたって追跡調査したのです。

 すると、いじめが減り、学校の雰囲気が良くなり、成績が上がったという結果が出ました。それ以降は公立校でも採用するところが増えてきました。
 実は、日本でも政府の鶴の一声で導入することが決まっています。二〇二〇年に教育改革が行われます。文部科学省の発表では「非認知能力」という言葉こそ使われていませんが、やろうとすることは非認知能力を高めるための教育に他なりません。

 新しい教育方針では、自分で考え、表現し、判断するために、「主体的・対話的で深い学び」を取り入れた授業が実施されることになっています。具体的には、「発見学習」や「体験学習」、「ディベート」や「グループディスカッション」などが行われるようです。こうしたことはまさに娘が受けてきた教育です。

 AIなどの発達により、十~二十年後には日本における仕事の四九%が機械に代替されるという研究発表があるような時代です。ただテストで点数を取る能力ではなく、非認知能力に注目が集まるのは喜ばしいことですし、また、必然の流れだと思います。

 しかし注意しなければならないのは、学校教育だけでは十分ではないということです。娘の学校からは「学校でどんなにやっても、家族という最強のコミュニティーでやらなければ、非認知能力は伸びません」とはっきり言われていました。家庭での非認知能力教育には「二つの柱」があります。

 まず一つは、子供が安心して話ができる「安全な環境を作る」ということです。非認知能力を高めるために非常に重要なのが「議論」です。なぜなら議論をするためには自分の意見を作らないといけないからです。自分の意見を作るためには、自ら考えないとならない。ところが、いきなり「考えなさい」と言われても、慣れないと難しいものです。

 そのために必要なのが家庭での対話です。家族で対話するだけで、意見を作る機会を子供に与えることができます。その時に重要なのが、先に述べた子供にとっての「安全な環境」です。家庭では何を言ってもバカにされない、安心して自分の意見を言えると子供が思える環境にしなければならない。

 誰でも「こんなことを言って、バカって思われたら嫌だな」とか「そんなことも知らないのかは思われたくない」という思いはあるとおもいます。特に子供にとって、親を失望させるのは怖いことです。ですから、子供がどんなことを言っても頭ごなしに否定するのではなく、「へぇなるほど」と受け止めてあげなくてはいけません。

 また、子供に「何を言ってもいいよ」とそのまま言葉で伝えても、決してすべては話しません。「どんなことでも話していいんだ」と思わせるには、親が自らの失敗談を積極的に話さなければならないのです。我が家では可能な限り夕食は家族三人一緒に食べて、そこでいろいろな話をしました。

 娘の学校の話や、たまたまネットで見たニュースの話、たまには深刻な話もしました。そのなかで、私のビジネスでの失敗も率直に話していました。そうすることで「何でも話していいんだ」と思うだけでなく、「結局、失敗しても死ぬわけではない」とか「何とかなるもんだ」ということを子供は学べる。

 だから私は、親は格好悪くていいんじゃないかと思っています。それだけ子供が学ぶ機会が増えるわけですから。私が子育ての本を書くことになったとき、一番ビックリしたのが娘でした。「エーッ、ママ、書くことあるの?」って(笑)。

 もう一つの柱は「子供のパッションを見逃さない」ということです。娘が幼稚園から高校にかけて、学校から言われていたのは「勉強をしっかりさせます」ではなく、「子供のパッションを見つけるお手伝いをします」ということでした。

 なぜパッションが大事かというと、情熱を向ける対象は自分が好きなことだからです。好きだと自分からやる。つまり「主体性」が出る。好きだから、少しぐらいダメでも頑張る。「やる気」や「回復力」などにも繋がります。やっぱり一人ではダメだと思って人の力を借りれば、「協慟力」も芽生える。

 いろんな人と共同作業をしているうちに「共感力」も上がり、「社会性」も伸びる。実はパションは様々な非認知能力の入り口なんです。こう言うと、「自分の子供が何にパションを持つかなど、すぐに分かるはずだ」と思う人も多いのではないでしょうか。でも、これが意外と難しいのです。

 パションに関して、親ができることは「観察」、「経験」、「応援」の三つだとされます。「観察」は子供がいろいろなことをしているときに「この子はこういう時に集中している」などしっかりと見て判断することです。すぐに忘れてしまったりするので、書きとめておくことも重要です。
 「経験」は子供が何に興味を持つか分からないので、できるだけ多くのことを経験させるということです。何もお金がかかることではなく、料理を一緒にするでも、親戚との集まりに子供もつれて行くでも、先ほどのように仕事の話を子供にしてあげるでも何でも結構です。

 また、子供が「やりたい」と言ったお稽古ごともいい経験になります。何でもやってすぐやめる子になると困るので、やめたくなっても「最低限ここまでやる」という期限を決めておいて、やらせてみせるといいでしょう。

 最後の「応援」が親にとっては実は困難なのです。というのも、子供がパッションを持つ対象は、親が望むものとは異なることがとても多いからです。たとえば、誰が見ても運動神経がものすごく良くて、サッカーが上手な男子小学生がいるとします。

 親はこの才能を生かしてプロのサッカー選手になってほしいと願っている。しかし、その子が将棋が大好きになって「サッカーより将棋をやりたい」と言い出したとき、果たして子供をサポートしてあげることができるか。「運動神経がいいんだから、サッカーを続けなさい。Jリーガーにだってなれるかもしれない」と言って、サッカーを勧める親も多いのではないでしょうか。

 ただ、実際にJリーガーになれたとしても、親は確実に幸せでしょうが、本人が本当に幸福と感じるかは分かりません。以前、明治大学に講演に行ったときに、ある男子学生が「実は母から「あなたのためを思って言っているのよ」と言われるのがすごくつらい」と言っていました。
 これは自己肯定感に非常に関係してくるのですが、親は子供を「あるがままに認める」ということが何より大事です。子供は親を必死で愛しています。自分の思いとは異なるを言われても、親に嫌われたくないから、親の言われたとおりにしてしまう。

 「あなたには医者になってほしい」などと、「なりなさい」という命令ではなく希望を述べただけでも、「医者になるのが自分の役目」のように思ってしまいます。

 だからこそ、子供のパッションを見抜き、応援するのはむずかしい。大事なことは「子供は親の従属物ではなく、一人の独立した個人」という認識を持って、子供の言うことにしっかりと耳を傾けることです。

 親子関係は「親から子供」への一方通行になりがちです。それを「双方向」に変える。自分がやらせたいことをやらせるのではなく、「この子はどうおもうのか?」、「なにをしたいんだろう」というところから子育てを始めてみることが不可欠なんだと思います。

 私自身、子供を育てるというより、お互いを「育て合う」という感覚がずっとありました。私は自己肯定感が低く、他の非認知能力も全然なかったのですが、娘の頑張る姿を見て、「私も頑張って乗り越えよう」と思う部分がすごくありました。他にも娘から教えられることがたくさんあり、今の私に繋がっています。 』

 『 アメリカには、私の娘同様、非認知能力教育を受けている生徒はたくさんいます。ましてやコンクールに州代表として出た子どもたちはほとんどすべてがそうでしょう。そのなかで、なぜ娘が優勝できたのでしょうか。それは娘の人格が「アメリカと日本の融合」でできているからだと思っています。

 日本を離れて初めて見える部分はありますが、やはり日本人の美徳や倫理観は世界で類を見ないものです。私は東日本大震災のとき、故郷の福島の映像を見て衝撃をうけました。アメリカなら暴動が起きているような状況で、被災した方々が整然と並んで順番待ちをしていました。
 娘は日本語の日常会話には全く不自由しないので、日本の心も分かっていると思っていました。でもあの映像を見たときに、日本に行かなくては伝わらない日本の素晴らしさがあるとあらためて気づきました。それで一年間休学して、日本に留学させることにしたのです、案の定、日本が大好きになり、「もう帰りたくない」といいだしました。

 コンクールは二週間の長丁場です。日本で身につけた、日本人ならではの共感力、人と協力する気持ち、勤勉さ、謙虚さなどがにじみ出て、そこが評価されたのだと思います。そんな素晴らしい日本に、これから非認知能力教育が広まることを心から願っています。 』
(第185回)



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