チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「旅行者の朝食」

2014-04-08 08:38:48 | 独学

 54. 旅行者の朝食 (米原万里著 2004年10月)

 米原万里は、”18.不実な美女か貞淑な醜女か”でロシアの授業と日本の授業を比較していたが、現在でも日本の授業はまったく旧態以前である。

 私もこのブックハンターで、言語を学ぶ方法について、何度どもとり上げているが、名著をとにかく読んで、それを分析し、自分の頭で考えて、それを書いてみることのように思います。

 米原万里は、作家の佐藤優が、外務省を辞めて作家になる時に、”とにかく自分に正直であれ”と言葉を送られたとありましたが、彼らはロシア語のプロフェッショナルで、とにかく驚くような読書家でもある。

 ここでは、ロシアから見た馬鈴薯についての部分をとりあげる。馬鈴薯については、”51.野菜探検隊世界を歩く”で好いだけ書いてますが、これをロシアの視点と米原万里の視点で、再度、視てみます。

 私が一押しのジャガイモ料理は、ステーキ、ベイクドポテト、赤ワインです。サツマイモ料理は、美味しい魚の干物を焼いて、無水鍋で焼いたサツマイモ、白ワイン(または、芋焼酎のロック)です。ジャガイモとワカメのみそ汁が、一般的ですが、知られているようで知られてないのが、ジャガイモと大根(太い千切り)のみそ汁です。

 私は、北海道に住んでいるため、ジャガイモ圏ですが、日本は、サツマイモ圏です。”野菜探検隊世界を歩く”の中に魚とサツマイモの相性がよく、明治維新の原動力であったとありましたが、私たちも、ジャガイモとサツマイモを食べて、活力あるくらしをしたいものです。

 
 『 旧大陸の人々がトマト、ジャガイモ、トウモロコシなどの食材を知るようになったのは、コロンブスがアメリカ大陸を発見して帰国した1493年以降のことである。

 しかし、今わたしたちにとって馴染みのこれらの食材が実際に普及していくテンポは、実に気の遠くなるほど遅々たるものであった。

 よく知られているように、ヨーロッパの人々は、最初、トマトを観賞用植物にしてしまったようだし、ジャガイモにいたっては、悪魔の食いものとして気味悪がった。

 ヨーロッパ各地で頑強な抵抗にあい、フランスで受け入れられるのは18世紀末、ロシアでは19世紀半ばすぎである。

 ところが、トマトも、ジャガイモも、トウモロコシも、今や欧米料理に欠かせない存在となっている。トマト無しのイタリア料理、ジャガイモ無しのドイツ料理やロシア料理、トウモロコシ無しのアメリカ料理など今では考えられない。

 しかし、いずれも欧米料理の食材として確固たる地位を築くのは、18世紀以降のことなのである。面白いではないか。

 何が面白いって、一般に、味覚という感覚ほど保守的なものはないと言われてきているからだ。日本でも、関西文明圏で育った人々の多くは、なかなか納豆やくさやを受け付けない。

 まあ、だからこそ、トマトもジャガイモもトウモロコシも、旧大陸の人々になかなか食材として受け入れてもらえなかったのだろう。ところが、何らかのきっかけで、味覚上の偏見が取っ払われると、たとえば、飢餓や、生命の危機や、調理法上の工夫や、好奇心などをきっかけに、美味しさに気付くと、怒涛の勢いで普及していく。

 つまり、時間的物差しをもう少し大きくすると、ある民族や民族グループの味覚が劇的に変わってきているのだ。唖然とするほどである。

 たとえば、トウモロコシは、1579年に、ジャガイモは1601年頃に、トマトは1670年頃に、オランダ船やポルトガル商人たちによって長崎にもたらされているが、いずれも日本に定着しなかった。

 再び、明治初期に欧米からトマトの品種が導入され、赤茄子の名で試作されたようだが、独特の臭みが嫌われて普及しなかった。トマトやジャガイモが現代日本の食卓に欠かせぬ存在となるのは、戦後のことである。

植物性食材だけでない。豚や牛の肉を、大多数の日本人が常食するようになったのは、明治以降のことであるし、乳製品だって、つい最近まで、「角が生える」と恐れられていたのである。

 だから、最近、地球人口の急速な増大に絡んで食料危機が叫ばれているが、杞憂に終わるのではという気もする。人間の食域拡大能力は、馬鹿にしたものではないからだ。

 増え続けるゴキブリやカラスやドブネズミ、これを美味しく食べられるようになれば、食料問題の一部は解決する。「あんな気味悪いもの、食えるわけない」と思われるだろう。

 でも、トマトやジャガイモ、豚肉や牛肉についても、つい百年ほど前まで、日本人はそう思っていたのだ、それに、遺伝子組み換え食品の方が、はるかに怖いし気味悪いと思える今日この頃である。 』


 『 「恋はジャガイモたあ違う。窓から。ポイッてな具合にはいかないよ」こんな類のセリフは、ロシアの映画や小説にしばしば登場する。ジャガイモはロシア人にとって、主食の座をパンと張り合う重要な存在。 口にしない日がないほど、日常的で安価な食材だ。「窓からポイッ」なんて、それだけ有り難みも忘れられがちなのかもしれない。

 ヤマイモ、サトイモ、トロロイモ、サツマイモ、イモニイチャンと芋類が豊富な日本と違って、ロシア人にとって、というよりも多くのヨーロッパ人にとって、芋といえば、ジャガイモ。 茹でてつぶして蒸して刻んで焼いて揚げてと料理法も味付けも多彩。あけてもくれてもジャガイモである。

 この多大な需要を満たすためだろう、ロシアは世界最大のジャガイモ生産国になっている。年間8500万トン、アジア全体の年間生産高8200万トンを軽々としのいでいる。 ことほどさようにロシア人とは切っても切れない身近な食材ジャガイモだが、意外にも、そのロシアにおける歴史は浅い。

 周知の通り、旧大陸の人々がジャガイモの存在を知るのは、コロンブスが新大陸を発見して帰国した1493年以降のこと。南米アンデス山脈地帯(現在のペルー、ボリヴィア、チリー)の現地民がほぼ主食としていたジャガイモの種芋が西ヨーロッパに持ち帰られたのは、1570年から80年頃と言われている。

 この偉業をなしとげたのは、海賊船の指揮をとったイギリスの海軍副提督F.ドレイクという説と、スペイン人の神父で植物学者でもあったジェロニム・コルダンが持ち込んだという説があるが、最初にジャガイモについて記述したヨーロッパ人は、スペイン人ペドロ・シエザ・レオンである。

 「ペルー・クロニクル」なる著書に「ジャガイモはナッツの一種である。茹でるとマロンのように柔らかくなる。皮の味はトリュフよりあっさりしている」と記されている。

 このジャガイモが、あっという間にヨーロッパ人の胃袋を虜にしたものと思われるだろうが、実際はその逆だった。コロンブスがアメリカから持ち帰ったもう一つのお土産、梅毒(西インド諸島先住民の風土病だったらしい)の方はまたたくまに全ヨーロッパで大流行し、次の16世紀初めの1512年には、極東の島国ジパングまで到達していた。(最初のポルトガル人が日本にやってきたのは、1543年だから、それよりも早かったことになる)ジャガイモの伝搬は、その70年後のことである。

 たびたびヨーロッパ各地を襲った不作や飢餓の年でさえ、どんな厳しい気候条件にも負けず、どんな貧しい土壌にも根付き、多産で栄養価の高いジャガイモは、土にまみれた不細工な塊、こりゃ、悪魔の食いもんじゃないかと受け入れてもらえなかった。

 当時の絶対君主たちは、この新しい食材こそ長年頭痛のタネだった食料問題の解決につながると見て、大宣伝、大啓蒙作戦を展開するのだが、功を奏さず、普及のために最後は暴力を用いた強制的な手段に訴えた。

 中でもプロシアのフリードリッヒ・ウイルヘルム一世とフリードリッヒ大王は熱心だった。1756年からの七年戦争で、プロシアと戦火を交えたスウェーデンはジャガイモを自国に持ち帰る以外の戦果が無かったので、この戦争を「ジャガイモ戦争」と呼んだくらいだ。

 ルイ十六世治下のフランスでジャガイモの普及に尽くしたオーギュスト・パルマンチエは、この戦争で五回もプロシアの捕虜になったおかげでジャガイモの美味しさに気付かされたのだった。

 パルマンチエのジャガイモ普及のための奇想天外な普及活動については、「世界食物百科」や「辻静雄著作集」その他にわんさか出ている。

 フランス人は、ジャガイモをポム・ド・テール(地中の林檎)と名づけたが、これが林檎にも匹敵する美味しい食べ物であると大方の人々が納得するまでには、かなりの時間を要した。ジャガイモがフランスで市民権を得るのは、18世紀も末のことである。

 わが国には、1601年には、ジャカトラ港(今のジャカルタ)からオランダ船によって長崎にもたらされている。ロシアに入っていくのは、なんとそれよりも遅いのだ。

 17世紀末、兄弟たちとの凄惨な政争を勝ち抜き、玉座を手中にしたピュートル一世は、職工に身をやつしてオランダやイギリスなどヨーロッパの先進国の技術を学びに出る。

 そこで初めて口にしたジャガイモの美味なることに感動し、国に持ち帰り、熱心に普及につとめた。わざわざドイツから大量の種芋を取り寄せ、ロシア全土すべての郡当局に、これを栽培し広めよとの勅令とともに配布したほどだった。

 それでも誰もが気味悪がって食べてくれないのだから、作付などするはずがない。仕方なく、天領でつくらせるのだが、絶対君主のピョートル大帝が命じても、農民たちは怖がって食べてくれない。大帝は、非常手段に訴えることにした。

 農民たちを御前に呼び出し、茹でたてのジャガイモを山と盛った大皿を何枚も並べた。「いま朕の目の前で食って見せなければ、その場で打ち首にいたす」震えおののきながら、それでも、農民たちは迷っていた。

 この気味悪い食べ物の毒に当たって苦しみ悶えながら死ぬよりも、一気に首を刎ね落とされたほうが楽だと思ったのかもしれない。「見るがいい、朕も食しておる。これほど美味しく滋養のある食いものはないのじゃ」ムシャムシャと美味しそうに食べて見せる。

 でも、大帝陛下は悪魔の申し子だという噂も絶えないことだし……農民たちがいつまでももじもじしているのに、業を煮やした大帝は、一番前にいた男の首根っこをひっ捕まえて、首筋に剣をあてがった。「食えっ、食わんかーっ」

 農民たちは、一斉に手をのばしてジャガイモに食らいついた。うーん、こりゃ、まずくない。いや、かなり美味しいぞ。そんな表情を素早く見て取った大帝は、満足そうに髭をなでた。

 しかし、農民たちは次の瞬間、きっと明日の朝は冷たい骸になっているかもしれないという予感に震えおののく。翌日も翌々日も農民たちはピンピンしていた。一週間経っても身体に異常は認められない。それでもジャガイモはなかなか受け入れられなかった。

 作付が始まったものの、天領の農民たちにとどまり。さらに、ジャガイモがロシア全域に広まっていくには、気の遠くなるような長い年月を必要としたのだった。 』


 『 18世紀半ば、エカテリーナ二世もまた啓蒙君主らしくジャガイモの普及に心を砕く。1765年にはドイツから六十五樽のジャガイモを取り寄せた。これは、医療参事会が、シベリアとフィンランドの飢餓に苦しむ農民を救うためには、「イギリスではポテトと呼ばれ、他の地域では地中の梨、あるいはトリュフ、カルトゥフェリとも呼ばれる地中の林檎」を栽培するのが、最も安上がりで効果的だと進言したためである。

 帝国全土に種ジャガイモと栽培方法を記した説明書が配られた。しかし、これも失敗に終わる。農民たちは未知の作物に頑強に抵抗する。ジャガイモが農民たちになかなか普及しなかったもう一つの理由は、味が薄くバターやソースをかけなければ美味しく食べれなかったせいだとも言われている。

 かえって高く付いたというのだ。そのために、先に裕福な貴族たちのあいだでジャガイモの人気は出てきた、と伝えられている。それでも、十九世紀初めの頃でさえ、ロシアの料理人たちにジャガイモはほとんど知られていない。

 かなり教養のある人々さえも怖がって食べようとしなかった。ついに一八四〇年には、ロシア全土に布告が発せられる。
 一、 全ての公有地にて、農民に配るタネジャガイモを栽培するためジャガイモ専用農地を設けること。
 二、 栽培と貯蔵と料理法および食べ方に関する指導書を発行し配ること。
 三、 ジャガイモ栽培に成功した農家を奨励し表彰すること。

 この試みも失敗する。国が事を急ぐあまり、強制的手段をとったために猛反発を招き、北部、ウラル地方、ヴォルガ河畔地域などでは、ジャガイモの強制作付けに反抗する農民運動が頻発する。歴史の教科書では、これを「馬鈴薯一揆」と呼ばれている。

 ところが、中央から遠く離れたシベリアにはすでに一八二〇年代にかなりジャガイモが行き渡り始めている。それをわたしが知ったのは、二十年ほど前、シベリアの奥地を旅した時である。ガイドさんの説明によると、「この辺りは、帝政時代もスターリン時代も流刑地となった、自然の厳しい土地柄で、デカブリストの多くも、ここに流されてきた」ということだった。

 一八二五年十二月、首都ペテルスブルグでロシアで最初の武装蜂起がおこる。この蜂起に馳せ参じた人々のことを、後にデカブリスト、と呼ぶようになる。彼らは、主に貴族出身の青年将校。

 一八一二年の対ナポレオン戦争で、直に農奴出身の兵卒たちに交わり、その人間性に心打たれ、さらにフランス軍を追って行った先のヨーロッパでロシアよりはるかに進んだ社会と人間関係のありようを目の当たりにして、農奴制と専制を廃止し、立憲君主制に基づく近代的国家の建設をめざすようになったのだった。

 しかし、蜂起はただちに鎮圧され、五人の首謀者は絞首刑、百二十一人は、シベリアなどに流刑となった。そんの流刑先で、彼らは初めて農民の暮らしに直に接する。シベリアの大地は冷たく貧弱で穀物の収穫は惨めなほど少ない。

 飢餓は日常茶飯事であった。ジャガイモならば、この不毛な大地でも容易に育つであろう。農民の暮らしも、もう少し楽になろう。だが、もちろん、シベリアの農民は、まだジャガイモを知らなかった。

 やんごとない生まれの流刑者たちは、生まれて初めて鍬をもち、畑を耕し、遠い故郷からジャガイモを取り寄せて栽培する。それを広めようと、周囲の農民たちを集めて、料理し食べて見せる。

 しかし、農民たちは、気味悪がって口にしようとしない。ピュートル大帝のように首を落とすと脅かすことは、もちろん、民主主義の理想に燃えるデカブリストたちにはできない。

 金貨を取りだし、ジャガイモを栽培し、それを食したものに与えようと呼びかけた。これは、絶大な効果をもたらした。そして、その後ジャガモが、それら農民に金貨一枚以上の実益をもたらすようになったのは、いうまでもない。

 こうして、ジャガイモは、以後またたくまにシベリア全土に広まったという。華々しい蜂起よりも、理想主事的ロマンチストであった貴族の青年たちが、その後厳しい現実に直面しながら、ひるむことなく、いやむしろ現実を知ることによって、その志を貫いていった物語の方に、私は惹かれる。ちょうど、地中に実るジャガイモのように、地道で滋養豊かな味をしている。 』(第55回) 





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