52. 最後の版元 (2013年6月発行 高木凛著) (浮世絵再興を夢見た男・渡辺庄三郎)
『 先頃他界した米国アップル社のスティーブ・ジョブズは、親日家で密かな新版画のコレクターであった。
彼は1980年代に、毎年のように日本を訪れていたが、日本で新版画を購入し始めたのは1983年〈昭和58年)からである。彼には新版画についての知識があり、好みもはっきりしていた。
1983年3月11日、ジーンズにシッツ姿の若いアメリカ人が、サンフランシスコに支店を持っていた兜屋画廊の銀座店を訪れ、慌ただしく新版画を購入していった。
この時ジョブズはまだ28歳、「世界のジョブズ」になる少し前のことである。ジョブズが購入していったのは、富士の稜線が美しい川瀬巴水の「西伊豆木負の富士」、鳥居言人の美人画「朝寝髪」、そして橋口五葉の「髪梳ける女」などであった。
その二年後の1985年〈昭和60)にも、密かに来日し、橋口五葉、伊東深水らの美人画と巴水の風景画を何十点か購入していった。
彼がアップル社を去り、新会社ネクストを立ち上げた頃である。この頃からジョブズはすっかり時の人となり、それまでのように日本で自由に行動できなくなっていた。
ジョブズの担当であった松岡春夫は、その翌年、86年の来日の時には電話で直接注文を受け、ジョブズの常宿であったホテル・オークラへ届けに行ったと話す。
ジョブズはとくに川瀬巴水の風景画を愛し、「全部ほしい」と電話で注文してきたこともあった。
しみじみとした味わいの巴水の風景画とコンピュータの世界はまったく相容れないように見えるが、アップル社のマッキントッシュと版画には共通する特質があるように思う。
マックはコンピューターグラフィックスの描画性能にこだわった設計で、画像や文字の精細度が抜群に高く、実用的な工業デザインのなかに芸術性を求めたと言われる。
そのモットーはアップル社の初期のパンフレットの表紙を飾った言葉、「洗練をつきつめれば簡素になる」であった。
版画も肉筆で描かれた下絵に、職人の高度な技術によって版画独特の簡素化が行われ、余計なものは削ぎ落とされて洗練された一本の線となる。
ジョブズが版画の制作過程にどこまで通じていたかはもはや知ることはできないが、1984年1月24日、新製品発表のスクリーンに、豊かな黒髪の表現にこだわった五葉の「髪梳ける女」を登場させ、描画性能の高さを誇示したことに、ジョブスが版画の美に強い親近感を抱いていたことが表れていたのではないだろうか。
ジョブズ亡きあと、ジョブズの膨大なコレクションはいまどうなっているだろう。やがて「ジョブズ・コレクション」が公開されて日本で大きな話題を集める日がくるかもしれない。またしても版画の美しさと面白さについて、外国人に教えて貰うという皮肉が繰り返される。明治以来そうだったように。 』
『 叔父の口利きで小僧として働くことになった佐柄木町の「呉服商、大崎屋」だが、庄三郎はなんと、半日で帰されてしまった。
理由は、小さくて、とても小僧は勤まりそうにないというものだった。五霞村から東京に出てきて、初日にその志を挫かれてしまった。
翌春、庄三郎は再び東京を目指す。今度は叔父も慎重だった。11歳となった庄三郎は、叔父が下話をつけておいた、評判の良い淡路町の質店「淡路屋」に無事、小僧として採用された。
もう村に戻ることはできない。店の主人や家族からは「庄どん」と呼ばれ、預かり品の出し入れなどの決まりの仕事ばかりでなく、ランプの掃除や主人夫婦のカナリヤの世話まで雑用は自ら進んで一手に引き受けた。
庄三郎にとって、「淡路屋」はやっと巡り合えた東京の奉公先であった。しかし、この平穏も長くは続かない。勤め始めて三年目、主人の稲垣の遊興の不始末で、「淡路屋」の店が傾きだしたのである。
使用人も一人、二人と去ってゆき、ついに番頭と庄三郎の二人だけになってしまった。商いも細くなり、庄三郎は初めて明日の不安を抱いた。
一人でこの先を生きて行かねばならないかもしれないと思い始めた時、庄三郎の目の前にあったのは一枚の世界地図であった。
小僧部屋に貼って、毎夜、食い入るように見つめ、世界の国々ばかりではなく、小さな港の名前まで暗記した。目的があってのことではなかったのである。
何を成すべきか、お先真っ暗という時で、他にすることがなかったのである。漠とした不安の中で地図を眺める日々。
そんな彼を支えたのが、近所にあった「今文牛肉店」の息子、宮坂平造だった。平造と庄三郎は年齢が近いこともあって、親しかった。
平造は、少し年長の中等学校生であったが、庄三郎とは立場を超えて友人のように話し合う仲だった。平造は庄三郎に、少年らしい夢を語った。
「外国人と貿易をしてみたい。それには英語が必要だ。だから僕は英語を勉強しているんだ」。だが平造の姿は庄三郎にとって、まだ憧れの世界にすぎなかった。 』
『 主人の引っ越しを手伝って、初めて団子坂に足を踏み入れた時、英語塾と言うものがあることを知った。
淡路町の奉公暮らしでは無縁と思われた英語が、主人夫婦の団子坂への転居を機に、庄三郎の視野に入ってきたのだった。
庄三郎は英語を学びたいと強く願うようになる。そして、「今文」の平造のように英語を学べば、貿易の仕事ができるようになるのではないか、と考えた。
だが差し当たって、月謝がどれほどのものか分からない。庄三郎に、当時の英語塾の月謝が賄えるはずがない。
主人夫婦は、店を閉じたあとも付いてきた庄三郎を可愛い奴と思っていた。いずれそれなりの奉公先をみつけて、託すつもりであった。
庄三郎は主人夫婦に、英語塾へ通わせてほしいと申し出た。英語を学び、貿易商になりたいという思いも寄らぬ夢が語られた。
大人からみれば、少年らしい途方もない夢と一笑に付すこともできたが、主人・稲垣常三郎は、庄三郎を面白いことを言い出す奴だと受け入れた。
どこまでのものか分からぬが、学んでみたいというならばやらせてみようと、承知した。庄三郎にとって、話に聞き置くだけの遠い世界にあった外国人や貿易や英語がふいに目の前におりてきた瞬間であった。
庄三郎が四年間学んだ五霞村尋常小学校の履修科目は、修身、国語(漢文)、算術、唱歌、体操、図画、理科、地理などだった。
当時、五霞村で、高等小学校や旧制中学に進学するものは稀で、庄三郎も尋常小学校を終えたら奉公に出るのを当然のこととして受け止めていた。
その庄三郎が、いま英語を学び、それを武器として人生を切り開こうというのである。庄三郎の向学心に火を付けたのは、平造との出会いであり、日々進化する東京だった。
庄三郎は、主家の雑事をこれまで以上に気配りしながら済ませて、英語塾へ通いだした。塾生との学力の差は、努力で乗り越える他はない。
性に合わなかったといって、後戻りすることはできなかった。前へ進むしかない。不安を信念で包み込んで夢に向かって歩み始めた。 』
『 庄三郎が塾に通ったのは、14歳から17歳まで(明治32~35年)、の約三年間であった。後の庄三郎を語る人々は、その英語力について、浮世絵、新版画を買いにくる外国人客との会話に困ることはないレベルだったという。
英語とまったく無縁であった少年が、三年間で習得した明治の英語力とはどれほどのものだったのか。そしてどのような学習法をとったのだろう。
英文学教授の斉藤兆史はその著書で、「幕末から明治になると、日本は欧化政策を採るようになり、明治初期にはとにかく何でも英語という第一次英語ブームが訪れる。この時代に教育を受けたのが、新渡戸稲造、岡倉天心、斉藤秀三郎といった英語の達人である。
新渡戸稲造が達人になったのは、英語の授業を受けたからではない。北海道大学に残る新渡戸の講義ノートには、彼が受けた外国人教師の講義が正確に写し取られている。
じつを言うと、札幌農学校には夜の復習の時間があり、生徒たちはそこで文法事項を確認しながらノートを清書して、先生に提出した。
ただ英語の授業を聴くだけで英語ができるようになるものではない」 と読みかつ正確に書き写すことの重要さについて述べている。 』
『 庄三郎の英語塾通いも三年目を迎えた。主人・稲垣常三郎は、深夜まで英文の書写に打ち込む庄三郎をなかなかの奴だと評価していた。
稲垣の碁の友人に横浜正金銀行の副頭取を勤め、顧問となっていた高橋正六がいた。稲垣は高橋と碁を打ちながら、庄三郎の話をした。
「小僧ながら大志を抱き、英語を学んでいる」「ほう、英語を。それはまたなぜ」「貿易商になりたいそうだ。途中で尻尾を巻くかと思ったが、三年も続いている。銀行ならば外国との取引業にも通じておられるでしょう」
高橋は初めは相槌を打つだけで聞き流していたが、親代わりとなって保障しようという稲垣の話に心動かされる。
庄三郎に会って、どのような仕事が希望なのか訊ねることにした。貿易商といっても間口は広く、何を扱うかで紹介先は違ってくる。しかし、庄三郎はまだそこまで考えていなかった。
高橋は、横浜で絹織物の輸出で知られた椎野正兵衛商店を紹介したが、ここは面接を受けたもののなぜか採用されなかった。つくづく布系に縁の薄い庄三郎だ。
次に紹介されたのが、美術品の輸出業、小林文七商店の横浜支店であった。横浜支店は設立されてばかりで英会話のできる店員を必要としており、今度はすんなりと月給五円で採用された。
庄三郎は、この小林文七商店で浮世絵と出会うことになる。彼の生涯はこの時決定されたのだった。
一九〇二(明治35)年、渡辺庄三郎は念願の貿易商人となるべく第一歩を踏み出した。この時はまだ浮世絵の知識など何もない。英語を武器に世界と商売をしようという夢と野心に満ちた十七歳の青年だった。
およそ美術とは無縁の庄三郎は、小林文七商店の横浜支店で初めて浮世絵と出会った。支店は開設されたばかりで、訪れる客はほとんどが外国人であった。店を訪れる外国人の質問に応えるためのいわゆる店員教育を米国帰りの支店長・足立良助が担当した。
新人・庄三郎の仕事には来客への浮世絵の説明と販売、海外からの注文に応えて指示された浮世絵を梱包し発送するという実務の他に、社員の食事作りも含まれていた。
一年の半分を海外で過ごす小林文七にとって、支店長の足立は有能な営業マンであり同時に美術に関する優れた目利きで、留守を託せる優れた片腕であった。
後のことになるが、文七引退時には、この横浜支店は足立良助に譲られている。足立は浮世絵の真贋を見抜く力ばかりでなく、その歴史にも精通する豊富な経験の持主で、新参の庄三郎を存分に鍛えた。
足立は庄三郎に、目の前に浮世絵を並べて比較しながら、「紙魚の昔がたり」(遠藤金太郎著)にあるように、
「錦絵は裏をみると疵がよく判る。本物と再販を見極める時は、表の絵を見ればいいのです。そして裏行と紙の質を見る。
高い絵になると、虫づくろいや疵を修繕してあるのがある。透かしてみればよく判る。本物か複製かを見極めるには、画面の絵の具の感じをみる。
墨色もよく見る。すると彫りも判ります。摺りは今の摺師でも上手に摺れますが、彫りは昔の彫師にはかないません。
昔は字彫りと絵彫師がいて、絵彫の方に名人が多く居て、今より彫がずっといいのです」 このように具体的に教えたのだろう。
本物の教材が目の前に山のようにあったのだ。庄三郎は足立の教えによって浮世絵美術が西洋の国々の芸術に勝るとも劣らない優れたものと知り、誇らしさを感じていったと思われる。
そして、もうひとつの現実。その一枚一枚に描かれていた懐かしい日本の風景や江戸風俗が近代化によって姿を変えてゆくと同時に、海外でかほどに高く評価されている優れた日本美術が、国内では顧みられることなく消えて行こうとしている。
そのことへの素朴な疑問と、青年らしい反発とが生まれたとしても不思議ではなかった。足立の薫陶の成果は、庄三郎の次の記述にみられる。
「浮世絵を賞玩するに当てりては、他派の名画を賞玩すると大いに異なるものであり。即ち作品として尊重すべきは、肉筆の絵にあらずして、版画なり、浮世絵の妙趣は、版画に於いて、初めて完全にこれを味ひ得るものなり」
庄三郎は生前、足立を評して「古版画(浮世絵)の基礎を築いて下さった恩人」と語り、深く感謝していた。
足立によって鍛えられた浮世絵についての見識と美意識は、さらに庄三郎のなかで育まれ、江戸から続くこの伝統木版の火を消してはなるまいという強い思いを抱くに至る。
庄三郎は小林文七商店で少年から青年へ、そして一角の浮世絵商へと成長していった。 』
『 村田金兵衛は、支店長の足立に「広重の江戸名所張交図鑑の古版木ひと揃いを酒井好古堂から買い入れる話がまとまったのでこれを摺ってみたいのだが」と相談に来たのだった。
庄三郎は足立の指示のもと、日を置かず日本橋の金兵衛の店に摺り師二人を伴って出向いた。金兵衛の店の奥二階が仕事場となり、庄三郎も泊り込んで、一週間かけて外国人好みの藍摺絵を100枚、摺り上げた。
庄三郎はこの「村金」の仕事場で、初めて摺師の仕事を間近に見た。バレンを握る摺師の手、指の微妙な動き、力の入れよう、引きよう。
目の前で白い和紙に醸しだされてゆく木版の美。作業場に泊まり込んで、刷り上る過程をつぶさに見つめた。
若き庄三郎にとってこの七日間のことは、まさに得難い経験となった。これが、後の「版元」となって新版画を生み出すときに生かされてくる。 』
『 1906(明治39)年、この年の夏、庄三郎は小林文七商店横浜支店を退職し、独立する決心をした。21歳の旅立ちであった。
この店に在職したのは四年半と短かったが、やがて独り立ちをしたいという明確な目的をもっていた庄三郎にとっては十分な時間であった。
旧主人・稲垣常三郎にも事前に相談し、小林文七商店の紹介者である高橋正六にも挨拶した上で、支店長の足立に退職を申し出た。
この世界で生きてゆくことを庄三郎なりの言葉で伝え、了承を得た。美術の世界に暖簾分けという習慣はないが、足立は庄三郎の独立を好意的に受け入れ、以後もよき相談相手となった。
過去の遺産である浮世絵の売買には当然のことながら限りがあり、幕末から明治にかけて良い浮世絵はみな海外に流失しており、国内に残されたものはほんのわずかであった。
庄三郎はその現実を十二分に承知した上で、この世界に漕ぎ出したのだった。いつか「版元」となって現代の浮世絵を作ってみたい。庄三郎の胸のうちに版元という立場がイメージされたのはこの頃ではなかったろうか。 』
『 竹次郎は、独り立ちしたばかりの庄三郎に何かと目をかけてくれるありがたい先達であった。庄三郎は新作の版画を作り、それを海外に輸出してみるということだった。
庄三郎は竹次郎に企画説明、つまり今風に言うとプレゼンテーションをしたのである。「新作の版画ねぇ、なるほど」
浮世絵商の竹次郎にとって、思ってもみないことだった。流通している古版画の売買世界にどっぷり漬かっていた竹次郎は庄三郎の新鮮な発想に驚いた。
やがて「面白いかもしれないねぇ」と、呟いた。竹次郎はひとつこいつの眼に賭けてみようと、庄三郎の申し出を受け入れ、新たな版画制作に必要な資金を貸し付けてくれた。
庄三郎はさらに、顔の広い竹次郎に、職人の選定も頼んだ。庄三郎はここでも良き縁を得たのである。いよいよ「輸出用新版画」の制作に着手することになった。
庄三郎は竹次郎が紹介してくれた彫師の近松於菟寿、摺師の斧由太郎を訊ねた。若造ながら一人前の浮世絵商人としての心づもりをきちんと伝えたい。
近松於菟寿と斧由太郎は、竹次郎の紹介ということもあって、熱心に語る庄三郎の言葉に耳を傾けてくれた。
庄三郎は二人の協力を得て、絵師・高橋松亭に依頼した風景画を新しいサイズの浮世絵に仕立てた。
新しい版画を作るのだから、これまでの決まりの大きさではないものにしたい。新機軸を打ち出したかった。庄三郎が選んだのは、短冊判と言われるもので、大奉書三つ切り判である。
庄三郎は新作版画が完成すると、軽井沢の松本骨董店を訪ねた。新しい版画制作を考えた時から、輸出する前に軽井沢で外国人の反応を見てみたいと思っていた。新しい版画を店先に置いてほしいと頼みに行ったのである。
明治末年の軽井沢は、すでに日本在住の外国人の避暑地として知られる所であった。当時の浮世絵商で、軽井沢で試売してみるなどと思いつく人がいただろうか。
庄三郎の発想は斬新なものだったが、同時に緻密でもあった。輸出できるかどうか、ここの反応次第で決めるつもりだった。
結果は上々であった。庄三郎は、この軽井沢での売れ行きに自信をえて、約20種類の版画を制作した。さらに新しい版画として輸出すると同時に、二次使用を考えた。それをカレンダーに仕立てたのである。
新しく制作した高橋松亭の風景画を月に一枚、12枚のカレンダーに仕立てることを思いついた。これは日本ではじめて日めくりカレンダーが制作された4年後のことであた。
日本的な情緒を漂わせた木版画カレンダーは初めての試みで、外国人によく売れたのは言うまでもない。竹次郎が用立ててくれた制作費は、倍にして返すことができた。
風景画の高橋松亭、花鳥画の伊藤総山らの輸出用版画の販売がどうやら軌道に乗ったところで、庄三郎は、京橋五郎兵衛町に間口二間の土蔵を借りて、これを改築し、古版画の売買と輸出用版画制作の拠点とした。
土蔵の他、その奥の部屋も借り受けて住まいと作業場にした。店と仕事が定まった庄三郎は、いよいよ妻を娶ることになった。
竹次郎の一言が背中を押した。「そろそろ身を固めちゃどうだい」1908(明治41)年、吉田竹次郎夫妻の仲人で式を挙げた。庄三郎、23歳。
妻は近松於菟寿の長女・チヨ、19歳である。近松は、カレンダー制作や花鳥画の新作版画という新機軸を打ち出して、意欲的に仕事をしている庄三郎の才知に一人娘の将来を託したのだった。
庄三郎にとってチヨは「歌麿の大首絵のような女」と、自慢のに新妻であった。庄三郎はこの結婚によって、名人と言われた彫師を義父に持ったことになる。近松於菟寿と摺師の斧由太郎・銀太郎父子は、生涯にわたり庄三郎の新事業実現のための陰の立役者となってゆく。』
『 京橋五郎兵衛町に「渡邊木版書舗」の看板を掲げて1年目、庄三郎の店を訪れる客は、アメリカから仕入れにくる商人、日本在住の外国人、旅行者など、そのほとんどが外国人だったが、まずまずの商いがあった。
時折訪れる日本人客は、風俗研究家、画家などの専門家で、浮世絵を美術品としてではなく研究資料として買っていった。間口二間の店は決して広いものではなかったが、欧米の日本熱に支えられて上々の船出であったといえる。
庄三郎は古版画を求めて、地方の旧家で「売りたて」(競売)があると聞けば、ある程度の金を用意して自分で出向いた。良いものであれは必ず捌けるという自信もあった。
最初の買い付けの軍資金は、淡路屋質店の旧主人・稲垣常三郎に頼った。稲垣から250円用立ててもらった。その金で、春信を六枚仕入れ、京都の美術商、福田浅次郎に売った。
資本金のない庄三郎にとって、人の縁や信用、知恵を活かしてゆく他はなかった。それゆえ一層の誠実さを自らに課していった。
新版画事業に着手した時も、下絵を描いた画家への画料を、刷り上った絵で払うという知恵を絞った面白い方法で切り抜けている。200枚摺ったら、100枚ずつ分ける。100枚が画料というわけである。 』
『 粗雑な複製版画の横行を苦々しく思っていた庄三郎は、十分にその事業の困難さを承知しつつ、改めて複製版画制作に着手することを決意する。
版元となって、自らの名において版を起こし、「浮世絵版画傑作集」の制作に着手する。その決意のほどを、庄三郎は次のように語っている。
「偽作も再版も同方法で復刻するのであるが、悪意と善意との目的が違う。再版といっても社会を裨益するために作るのであるから其れだけの良心を以って古版画の真価を解し、古今技術の変化を知り、材料を選み技能ある技術者を督して版画の妙味を再現し、地下の名画家をして微笑めせしめねばならない」
庄三郎が渾身の力を注いだ、「浮世絵版画傑作集」の目録を記してみたい。
第一集 鈴木春信筆 風俗 大広中判六枚(冬むつの花、布晒し、雪中美人と少女、更衣の美人、階上の男女、お仙の茶屋)
第二集 一幽斎広重筆 東都名所 大判横十枚揃
第三集 一立斎広重筆 京都名所 大判横十枚揃
第四集 歌麿筆 風俗 大判竪絵十枚揃
第五集 榮之筆 見立て六歌仙 六枚揃
第六集 清長筆 風俗 大判竪絵六枚
第七集 北斎外 風景 大判横絵六枚
第八集 豊国、国政 美人と役者 大判竪六枚
第九集 文調、春草 美人と役者 細判六枚
第十集 各筆 美人 柱絵六枚
第十一集 各筆 風俗 大判竪六枚
第十二集 寫榮 役者 大判竪六枚
この膨大な複製木版の制作はどのように行われたのだろう。庄三郎の言う「地下の名画家をして微笑ませしめねば」という完成度の高い複製版画制作を可能にするには、まず欠点なき原版画を入手しなければならない。
さらに用紙も当時の質に近いものを作らせる。顔料も問題であった。顔料はすでにその原材料もなく、製法すら忘れ去られたものが多く、その再現は困難を極めた。
第二集「一幽斎広重筆 東都名所」発行時に庄三郎が制作経過を記している。「本集の東都名所は、広重が一幽斎と号せし壮時、風景描写に興味を抱き、全精神を発揮して試みたる作であって、又傑作なれども、現存するもの極めて稀である。
三人の所蔵家の供覧品中にて、最も版が鮮明で色彩の完全なるものに則りて、其特徴を出したのである。原版画の真趣を遺憾なく表現し得たるは、全く所蔵家の三人の好意による。」
心血を注ぎ発行した「浮世絵版画傑作集」の反響は、庄三郎の予測を越えたものであった。 』
『 個展にふらりと立ち寄った庄三郎は、フリッツ・カペラリの日本を描いた風俗画に目を止めた。浮世絵とは異なる筆法だが、その構図や色彩が浮世絵商・庄三郎の勘に響くものがあったからだ。
早速カペラリに会った。カペラリを京橋の店に案内し、所蔵の浮世絵や新作として輸出していた高橋松亭らの風景画を見せた。
「あなたの絵なら版画になる、わたしがそう感じたのだから間違いない。一緒に研究してみませんか」と、庄三郎は強く勧めた。庄三郎は、版画下絵制作のために、カペラリに筆を買え与えている。
また、カペラリも初期の試作は画料なしで「新しきこと」に挑んだことが分かる。完成したカペラリの第一作「雨中女学生帰路の図」について、庄三郎は感慨を綴っている。
肉筆では現せぬ天地自然の物体を構成を基として、摺に工夫して見ると在来現し得ざる妙味が理想通り表現されて、カペラリも得心した。
庄三郎はこの試作に続いて、「女に戯れる狆」、「鏡の前の女」、「雪中の女」、猫を抱える女」、「石榴に白鳥」など10図以上を立て続けに制作した。 』
『 1915(大正4)年4月、庄三郎は洋画家・橋口五葉を訪ねた。庄三郎30歳、五葉34歳であった。五葉は東京美術学校の学生時代から浮世絵を研究していたので、研究者の卵として庄三郎の店を何度か訪れてきており、庄三郎も快く原画を見せるなどの便宜を図っていた。
橋口五葉は、薩摩藩藩医の三男として薩摩(鹿児島市)に生まれ、画家を志して18歳の時に上京。橋本雅邦の門に入る。翌年、遠縁の黒田清輝の勧めで、東京美術学校に入学し、1905(明治38)年に首席で卒業した。
兄が漱石の教え子だった縁で、「我輩は猫である」の装丁を依頼され、以後「行人」まで漱石作品の本の装丁を行う。アールヌーボー調のデザインは斬新だったので、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花らの作品を次々と依頼されるようになり、デザイナーとしても知られていた。
庄三郎は五葉に店の工房を見せて、新版画作成の思いを熱く語った。五葉にとっても庄三郎の誘いは時宣を得たものであった。画業の傍ら版画研究にも情熱を傾けてきた五葉が、やがては独自の版画制作をしようという夢を抱いていただろうことは容易に想像できる。
五葉は「芸術的価値ある版画」という庄三郎の意図するところを理解し、制作に入ることを受諾した。庄三郎の胸は高鳴っていた。現代日本の最良の画家(絵師)を得て、いよいよ念願の大正の現代版画制作の版元として、世界に打って出る、その時がきたのだ。
しかし、五葉は慎重であった。成功すれば新たな木版画家として新境地が開けるが、失敗すれば画壇の失笑を買うことになる。
新版画第一作「浴場の女」の下絵ができたのが1915(大正4)年10月。その後4ヵ月かけて「彫り」と「摺り」を研究し、完成したのは翌年の2月であった。
しかし版元庄三郎と画家五葉がたっぷり時間をかけて新版画渾身の第一作にもかかわらず、「浴場の女」には、の署名の下に試作の印が押されたのだった。完成品ではないという画家の主張である。
「浴場の女」は100枚摺って、庄三郎と五葉が50枚ずつ分け合った。50枚は五葉の画料というわけでである。ところが五葉はこの50枚を廃棄してしまった。ともあれ「浴場の女」は、庄三郎の手元に残った50枚のみという稀少な作品となった。
ともに意欲を満々と湛えて走り出したはずの新版画制作であり、版画界の新しい運動としての意味をもつ試みだった。しかし五葉はこの一作を残して、庄三郎のもとを離れた。 』
『 庄三郎は、松井画博堂主人・松井清七に誘われて、日本画の第一人者だった鏑木清方一門の展覧会に出向いた。一門の絵の中で、若い画家の一枚の絵が庄三郎の目に止まった。
伊東深水(本名・一)の肉筆画「対鏡」だった。「この人の絵は版画になる」直感でそう思った。庄三郎の直感とは、単なる感性を言うのではなく、その構図の取り方や筆あしらいの巧みさ、醸しだされる情趣などに、鍛え抜かれた眼が反応することである。
伊東深水は、東京市深川区西森下町に生まれた。九歳の時、家計を助けるために二年通った尋常小学校をやめ、看板屋の住み込み小僧となる。
翌年、紹介されて深川東大工町にあった東京印刷に図案部研究生として勤める。この図案部の顧問に日本画家・結城素明がいた。結城は伊東一の画才を認め、鏑木清方に紹介する。
清方は伊東一少年を気に入り、月謝(一円)を免除し、入門を許した。伊東一、十三歳の時であった。一は師・清方の勧めに従い、深川猿江町の実業補修学校に通う。深水という雅号は、深川の「深」と師、清方の「清」の字の偏の「水」をとって与えられた。深水はすでに清方の掌中の珠であった。
深水の絵に興味をもった庄三郎はさっそく松井を通して鏑木清方に会った。深水の絵を浮世絵の彫り、摺りの技術を駆使して表現したいのでお許しを、と丁重に理解をもとめた。
師匠はしばらく考えておられたが、深水はまだ若いし、どう伸びて行くか目下彼自身研究中だから、僕からは勧められないが、本人が納得して、やってみたいと思うならと鏑木は本人に直接会うことを許してくれたのである。
「あなたのあの作なら肉筆とは一味違う版画独特の味が表現できる」と説得したところ、やっと試みに着手してみようということになった。大正五年七月、この時、庄三郎三一歳、深水十八歳であった。
庄三郎は深水の修業時代、そっと小遣いを握らせることもあったという。版元と画家としての出会いであったが、苦労人としてどこか弟を慈しむような思いがあったのではないかと思われる。
こうして始まった版元と画家としての二人の付き合いは、庄三郎が亡くなるまで続けられ、深水の版画制作は庄三郎の死で終わっている。「対鏡」の製作過程が次のように述べられている。
「渡邊版画店に一緒に来てもらい、古錦絵を見せ、仕事場の摺師の現場を見せた。是非にと懇望したところが「対鏡」の女の図の墨線描きを承諾されたので、早速練達の彫師に彫り上げさせることができた。
その一枚に各色の配分の色画原稿を作ってもらった。これをもとに、色板何枚で足りるかを検討して、色分けをして、再び彫師に色板一式を彫らせた。次に摺師に色板一式を渡して、色画原稿にしたがって、一色ずつ全色を摺り込んでみた。
しかし、荒い色彩でやっと厚みを感じる程度だったので満足出来なかった。庄三郎は深水に摺り場に来てもらい一緒になって、初めの段階から立会い、逐次色を摺り込ませた。
途中で摺師斧銀太郎に”変り摺り”といわれる特別の手摺り技法の試し摺りを披露させた。これを三、四度摺り重ねると、この主色である紅色の色面が分厚くなり、微妙な味わいが出てきた。
深水は益々興がわき、次々と色板を変えて仕上げていった。庄三郎も同席して協力し、ここに版元・絵師・摺師の三位一体の成果として試作が出来た。絵師・版元・彫師・摺師が一同に会してお互いの意見を述べて労を労いつつ、他日本摺りの段取りを決め、深水試筆の「対鏡」が上梓されたのであった」
大正五年9月、「対鏡」は、一五〇枚制作され、これによって新しく深水らしい人間味豊かな若い女性の美しさを表現できた。 』
『 一九一八(大正七)年、鏑木一門の「郷土会第七回展」に、深水は庄三郎の委嘱のもと制作した木版画「近江八景」を出展した。巴水は、深水のこの意欲的な風景版画八図を見て感動し、自分も版画制作に挑んでみたいという衝動にかられた。
巴水にとって深水の「近江八景」は、生涯忘れえぬ作品となり、「風景版画家・巴水」誕生のきっかけとなったのであった。巴水この時、三五歳、深水二十歳であった。二人の間には十五歳という歳の開きがありながらも、巴水は深水に尊崇の念を抱き続けたという。
川瀬巴水は、本名・文治郎といい、糸組物職人の家の長男として一八八三(明治一六)年に、東京市芝区新橋に生まれた。文治郎は十代の頃から画家を目指し、日本画を学んでいたが、二十五歳で家業を継ぐことになる。
だが画家への夢断ちがたく、家業を妹夫婦に譲り、清方の門を叩いた。だが清方は、「絵描きになるには年をとりすぎている」と、文治郎の遅いスタートに先行きを懸念し、洋画を勧めた。
やむなく文治郎は洋画を学ぶが、なぜか馴染めなかった。再び清方の許を訪ねて、再度の入門を申し出た。巴水の名が与えられたのは、清方入門から二年後のことであった。
巴水の名を号するようになり、深水の「近江八景」に触発されて版画家になるまで、七年という歳月が流れていた。この間、巴水は自らの画業に行き詰まりを感じ、悩んでいた。
巴水は師匠・清方や深水が得意とする「美人画」が得意でなかった。自分の画業の方向性に迷いを感じ、何を描くべきなのか手さぐりしていたのである。そんな時に「近江八景」に出会った。巴水は「これだ」と思ったに違いない。
巴水の風景版画家への転向は、新版画界にとっても望ましいことであった。「美人画」の深水、「役者絵」の耕花、春仙、そしてそこに「風景画」の巴水が加わり、大正新版画に一通りの顔ぶれが揃ったことになる。
深水、巴水らは清方一門の友人を次々と庄三郎の店に連れてきた。庄三郎の店は、さながら清方一門の版画研究所のようだと評された。 』
日本の版画は浮世絵、新版画、棟方志功など、欧米に於いて高い評価を獲得し、さらに多くの名画は海外の美術館で所蔵され、版画芸術の研究も海外に於いて盛んである。
私も年賀状に拙い版画を三十数年、刷っていますが、題材を決めるのが難しく、百枚以上になると、摺るのが大変です。
絵師、版元、彫師(字彫りと絵彫師)、摺師の分業によって制作するのは、何か解る気がします。
日本に於いて版画が発展した要因を私なりに分析しますと、日本画の伝統、木工芸(木造建築)の伝統、彫刻刀(日本刀)の伝統、和紙の高度な技術、絵師、彫師、摺師、版元のチームプレイによって、高いレベルに到達した考えられます。ちなみに、女優の朝丘雪路の父親が、この伊東深水です。(第53回)
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