チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

物は置き場所、人には居場所(その7)

2016-10-05 08:31:08 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その7)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 6. 人間の三つの生き方について

  最初に、森本哲郎著の「月は東に ―蕪村の夢 漱石の幻」より引用します。すでに記述しましたが、何回も反芻する価値のある文章です、これを踏まえて話をすすめていきます。


 『 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」のなかで、人間の三つの生き方を説いている。

 第一の道は、「世界の外に通じる俗世放棄の道」である。すなわち、俗世間を捨てて彼岸にその世界を求める宗教的な情熱、神を求める希求が歩ませる道だ。

 すべての文明は、まずこの道を歩んだ。キリスト教もイスラム教も、仏教も、その性格はいかに異なろうと、歩んだ道はおなじだった。

 だが、やがて、第二の道があらわれる。第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」道であり、宗教が夢みる彼岸を、此岸(しがん)にうち建てようとする悲願、すなわち、現実への道である。

 ホイジンガは、こう記す。
 ――ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。(が)この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。――

 けれども、人びとの歩む道は、このふたつに尽きているわけではない。もうひとつ、第三の道がある。それは、夢の道である。

 その第三の道は、第一の道のように現世を否定して彼岸に至ろうとするのではなく、さりとて、第二の道のように、現実の世界を変革したり改良したりして、そこに理想郷を実現させようというのでもない。

 そのまんなかにあって、「せめては、みかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和しよう」という生き方である。

 この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ただ、空想の世界だけに至る道だろうか。ホイジンガはそう問いかけ、こう答える。

 いや、そうではない、それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形につくりかえることであり、「生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちとで満たそうとするのである」と。

 ホイジンガは、”中世の秋”、すなわち、ヨーロッパ中世末期の文化を、この視点からとらえ、そこに中世人の生活の豊かさを発見したのであった。

 ホイジンガがさし示した第三の道、すなわち、夢と遊びの道を、蕪村も漱石も歩もうとした。「草枕」の主人公がいう、「非人情」の世界とは、まさしく、その第三の道、人生という「虹」が最も美しくながめられる、そのような境地である。

 ホイジンガが中世びとの世界に見つけた第三の道と、蕪村が俳諧で描きあげた”夢の園”、そして「草枕」の画家が逍遥しようとした「非人情の立場」とのあいだに、どれほどの隔たりがあろうか。

 とはいえ、ホイジンガがいうように、第三の道を歩むということは、けっして容易ではない。

 生活そのものを美の世界へ昇華させるためには、「個人の生活術が最高度に要求される」からである。

 したがって、「生活を芸術の水準にまで高めようとするこの要求にこたえることができるのは、ひとにぎりの選ばれたるものたちのみであろう」

 この点において、東洋は西洋をはるかに越えている。中国や日本においては、その気になりさえすれば、だれでも容易に「文人」たりうるからである。』


 第一の道については、私が述べる資格も知識もありませんが、一つだけ私に言えることは、「他力本願」と「自力本願」の二つのバランスをとることではないでしょうか。

 まず「自力本願」を前面に出した後に、自力の及ばないところを「他力本願」ということではないかと考えます。


 次に第二の道は、「世界そのものの改良と完成をめざす」とあります。しかし、一八世紀以降今日まで、革命的に世界を変えようという多くの試みがなされてきました。

 しかしその手法に於いて、全世界、地球上の百億のすべての人々を一つの考え方で、変化させることには、無理があり、世界は多様化した形態に向かう方が、自然な気がいたします。

 そこで、全世界やすべての国民を対象とするのではなく、もっと小さな系を対象として、現実に小さな島や小さな村に自分たちの想い描く桃源郷を創ろうという考え方です。


 ここで紹介するのは、1987年、フィリピンのセブ島沖10kmにある周囲2㎞の小島カオハガン島での話でお話です。「何もなくて豊かな島」 (崎山克彦著 1995年6月発行)です。

 『 私はドドンとは船の上にいた。東京から一緒に来た仲間と船でダイビングに出かけ、午前中のダイビングを終え、ヒロトガン島の島陰に船を泊めて昼の休憩をとっているところだった。

 ドドンははるかかなたに浮かぶ小島を指差して「あの島は、今売りに出ているんだよ。私の知っている一番美しい島だ」と言ったのだ。私の胸は急に高まった。

 四十年以上前の終戦直後から、米軍と共にダイビングを始め、フィリピンでのダイビングの草分けであるドドンは、この辺の海域を自分の庭のように知り尽している男だ。「ぜひ行ってみたい」

 そして私はカオハンガ島と運命の出会いをし、そしてこの美しい南海の小島と不思議な縁で結ばれることになったのだ。

 「いくらですか」私は思い切って聞いてみた。「二百万ペソくらいだったら、買えると思う」 一ペソは五円くらいだろうと、すぐに頭の中で計算した。一千万円だ。何だ、それなら貯金をおろせば買える。

 「ぜひ、買いたいのですが、よろしくお願いします」 私はドドンにいってしまたのだ。 』


 『 ニューヨークに駐在していた時、社宅を二軒買ったことがある。しかし、フィリピンの事情はまったくわからない。その上「島」を買うというのはどういうことなのだろう。

 そして、フィリピンは、外国人が複雑な取引をする場合、関係者と自称する人が続々と名乗り出て、少しでも分け前をとろうとするので有名な国らしい。

 仕事でお世話になっていた、東京の国際弁護士の方にお願いし、フィリピンで最も信頼のおける法律事務所のセブ島の代表のダニーさんを紹介してもらった。

 そして、ダニ―とドドンにこの取引をまかせることにした。ドドンの話では「カオハンガ島全体を、近くのオランゴ島のポーに住んでいるイアスという人が所有しており、登記も済んでいる。

 自分はイアスの親友であり、自分にまかせておけば問題ない」ということっだたが、実際はまったくちがっていた。イアスが八割以上の土地を持っていたが、借金のかたとしてすでにある銀行の持ち物になっていた。

 また、半分くらいの土地は登記されていたが、その他は登記されておらず、いわゆるタックスクラレーションといわれている「税金を払っているので、土地所有者とみなされている」という状態だった。

 土地登記制度が全国規模では完全には実施されてないフィリピンでは、地方に行くと、未だにこのような土地所有形態が多い。おまけにほんのわずかな土地だが、島の中に国有地があることも分かった。

 この複雑な土地買取交渉をし、登記までもっていくのは大変な仕事だったが、ダニ―が実のよい仕事をしてくれた。いまでは、二つの小さな区画を除いて全部私たちの所有になっている。

 二つの内一つは、島を運営していく上でまったく必要ない場所なのでほってある。もう一方は長期のリース契約を結んである。土地の所有の実情がわかり、大部分を占める銀行所有の土地が手に入ったのが1988年の夏だった。 』


 『 その時、私は五三歳。三〇年も続けた「ビジネス」を中心とした生活から、抜け出したかったのかもしれない。ほんとうに「縁」としかいいようのない出会いで、カオハガン島が手に入ったことを、運命のように感じた。

 留学、仕事と、アメリカで約十年生活をしたおかげで、外国に住むことに違和感はなかった。「やはり、島に行こう」と心に決めた。

 退職金などで多少の貯えはあった。しかし、いつまでもあるわけではない。仕事を長く続かせるためにも、収支の合う仕事をすることも大切だ。

 しかし、何と言っても一番大切なこと、それは、この美しいカオハンガ島の自然を守ることだ。長い地球の歩みの中で育ってきたこのカオハンガ島の自然、生態系を、開発の波から守らねばならぬ。

 何事にも優先するのがこのことだろう。また、島には約三百人の住民が住んでいる。ほとんどが何世代も前からここに住んでいるひとたちだ。

 「この人たちをどう扱うか?」多くの人、とくにフィリピンの人の意見は「別に土地を与えてそこに移転させろ」ということだった。島民たちは、現在は土地不法占有者として島に権利なく生活しているのだ。

 「将来の島の利用を考えた時、今の時点で移転させれば問題が残らない」というのは、至極正しい意見だ。しかし、ここのところに私はひどくこだわった。

 自然も大事だが、住んでいる人も大切だ。人の住んでいない大自然もすばらしいが、そこに生活している人々との関係は、私にとって大切に思え、興味があった。

 そして、思い切って、まわりの人たちの親切なアドバイスを押し切り、島民たちと一緒に生活する道を選んだのだ。もう一つ。私一人でこの仕事をするのではなく、できるだけ大勢の人に参加してもらいたかった。

 南の島で生活するという憧れは、大勢の人が持っている。そんな想いを持った人たちが、それぞれに憧れを実現できる場をつくりたい。

 少しずつ、将来への夢がまとまってきた。まず、私自身が、美しい南の島で生活できるということ。第二に美しい自然を守る義務があるということ。次に、島民と一緒に生活し、それを楽しみにしたいということ。

 そして、なるべく多くの人に来ていただき南の生活を体験してほしい。とにかく、まず、自分が住み始めることだ。それにはまず家を建てなければ。そして何人かの友人たちの泊まれる施設もつくろう。

 島の自然の景観を変えてはいけない。自然を生かした美しい建築をすることで名高いセブの建築家カニザレスさんに設計を依頼した。一九九〇年の末に家が完成した。

 水、明かりなどの基本設備もできあがった。そしてその翌年、私は会社を辞め、カオハンガ島にわたり「島の生活」を始めたのだ。 』(第7回)



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