130. C・Wニコルの生きる力 (C・W ニコル著 2011年12月)
今回は、黒姫にあるアファンの森と共に生きる、作家のC・Wニコルの「ソリストの思考術」(副題)という本ですが、私が紹介しますのは、「明治生まれの日本人に学ぶ」という部分です。私たちは、日本人ですが、武士道、禅、日本人について、1940年ウェールズ生まれの赤鬼ことW・Cニコルを通して、はじめて理解することができる、ことなのではないかと思いましたので。
『 私が初めて出会った日本人は、柔道家の小泉軍治先生。十四歳のころ、私は北極に行くためにあらゆる努力をしており、その一つに柔道があった。
柔道クラブに通って、元コマンドの茶帯の大男に週に数回、柔道を習っていたのである。何のきっかけだったかは忘れたが、柔道クラブの生徒たちが皆でお金を出し合って黒帯の柔道家を招待することになった。
「柔道をする日本人」 「とんでもなく強い黒帯」 というイメージが、皆を夢中にさせたのだろう。黒帯の柔道家に本格的な指導が受けられるということで、われわれの期待は大きく膨らんでいた。
われわれは本当に熱心だったのである。それぐらい本物の柔道家に教えを受けたかった。当時、小泉先生は、ロンドンで柔道を教えており、われわれからの招待に快く応じて、田舎までやって来てくれた。
われわれは駅まで迎えに行き、どのような屈強な男が来るのか、ワクワクしながら待っていたが、やって来たのは背筋の伸びた初老の小柄な紳士であった。もしかすると六十歳を超えていたのかもしれない。
頭には白髪が交じっている。シルクのアスコット・タイをきちんとピンで留めており、髪はやや長めでこざっぱりとしたオールバック。ツイードのジャケットに綾織りのズボンで、足には茶色の靴を履いている。
口ひげをたくわえており、プライドと優しさをたたえたまなざしをしている。英語は達者で、とても丁寧で紳士的な話しぶりだ。私は、これまで映画で見てきた、がに股でいかつい、野蛮な感じの日本人を頭に描いていたので、その紳士ぶりに驚いた。
小泉先生は、道場に着いてから並び方や礼儀を教え、準備体操をするように指示した。それから、受け身を指導する。われわれはじりじりしながら待っていた。先生の本当の強いところを見たかったのだ。
午後になって、待ちに待った組手が始まった。小泉先生は、折り目正しく、われわれの先生である元コマンドに言った。「お相手していただけますか?」
小泉先生が組み手をしたかと思うと、私がこれまで世界で一番強いと思っていた元コマンドを軽々と投げ飛ばしていた。先生が出足払いをかけたら、大男の足が先生の肩より上に飛んでいった。
小泉先生の技に畏れを抱いた。力で投げる柔道ではなく、すさまじく切れのよい投げ技である。投げられた元コマンドも、投げられた理由も分からず、不思議そうに周囲を見る始末だった。まるでマジック。
小泉先生は、投げ飛ばしても相手がきれいに着地するように、手をしなやかに動かす。その物腰は、これまで見たことのない美しいものだった。そうすると相手は手を打ってうまく受け身の姿勢を取ることができ、すぐに立ち上がれる。
そのようにしてわれらが講師は、十分ぐらいの間に何度も投げ飛ばされた。それでもひるまず、元コマンドの彼はファイトをむき出しにして力を尽くしたが、小柄な日本人に投げ飛ばされたのである。
小泉先生は、さまざまな投げ技を見せたあと、技のかけ方や体の動かし方を説明した。一段落したところで、小泉先生は講師にこう言った。 「ためしに私を投げてください」
元コマンドは、持っているすべての技を駆使して小泉先生を投げる。先生は投げられて床に倒されるごとに、手で床を叩いて完璧な受け身をする。笑いながら起き上がり、講師を称えた。
私も小泉先生に投げられたが、やさしく袖をつかまえて頭を打たないようにしてくれた。小泉先生の身の動き、立ち居振る舞い、言葉遣いなど、その体から発散する本格的なものに私は心を奪われてしまっていた。
そして、すぐに決心する。 「日本に行って黒帯を取る」 次の瞬間、疑問が湧いた。 「どうして、このような立派な人がいる国が戦争を起こしたのだろう。小泉先生が生まれた日本とは、いったいどのような国なのか?」
日本への興味がとめどなく湧き、北極と同じように日本の知識を吸収し始めた。図書館には日本関連の本は少なかったが、新渡戸稲造の『武士道』と小泉八雲の本があった。
とにかく日本に関係あるものなら何でも調べて頭に入れたのだ。黒沢明監督の映画『七人の侍』を見たのも、そのころだったと思う。後年、調べてみたところ、小泉先生は柔道の創始者、加納治五郎師範の直弟子の一人だった。
講道館は一九一七年、日英同盟を結んでいたころに小泉先生をロンドンに派遣している。私が小泉先生に習ったのは十四歳のときで一九五四年だから、小泉先生はおそらく四十年近く英国で柔道を教えていたことになる。
英語が流暢であったのも当たり前であり、その紳士ぶりは、日本人の武士道と英国の騎士道が融合したものではないか、と推察する。 』
『 四谷の古い道場で空手の練習に励んだ二年半の間に、私は空手の目的がただ強くなるだけではないこと、空手というものが優しさへの道なのだということを学んだ。武道家たちは本当の優しさを手に入れるために日夜、修行に励んでいる。
思い返せば、四谷の空手道場には、創始者の船越義珍(ぎちん)先生の言葉が書いてあった。 「空手道の究極の目的は勝敗にあらずして。修行者の人格の完成なり」
松濤(しょうとう)館はこのように人格形成に重点を置いた流派である。それは悟りの境地を目指すことと同じ意味だ。実際、普段から悟りの境地についての教えがあった。私が空手の型の実習をしているとき、先生からこのように言われた。
「ニコル君、君の敵はどこにいるのかね。君は型をやりながら、自分のことしか考えていない。自分の動作の方向を見たまえ! 一生懸命に稽古をすれば、動かぬ水のように静かな心境に達することができる。空手は ”動く禅” なのだ。そして君が目指さなければならないのは、禅の境地なのだ」
その後、敵を見ることに努力し続けたところ、私にはそれが分かりかけた。ひたすらに完成を求めて努力することによって、心は解放され、素晴らしい静けさに到達し、体もその静かな心持ちの中で動くようになる。
型を練習することは、禅の静寂の境地を知る最良の道である。そのような体験をもとに、私は日本での空手修行をベースにした本『MOVING ZEN』を執筆した。
これは世界中で発刊されてベストセラーになった。その中には私が稽古着を着て、型を稽古している写真が掲載されている。機会があれば、若かりしころの凛々しい姿をぜひ見てもらいたいものだ。
真面目に修行を積んだおかげで、私は五段まで昇段することができ、現在はありがたいことに名誉七段をいただいている。私は旅行に出かけるときには稽古着を必ず持って行った。
その土地、その土地で道場を探して、空手を通じてコミュニケーションをとることができるからである。おかげで世界中に友達ができた。
例えば、ザイール(現コンゴ)に行ったときには、ゴマという町でニイラコンゴという火山を撮影するために小高い丘に登った。そこは少し町から離れたところだったが、三十人くらいの若者が空手の型を練習していた。
稽古着はなく普段着だ。その型は間違いなく松濤館の平安二段という型。私は撮影が済むと、若者たちのところへ行って平安初段などの型を見せた。彼らはすぐにこう言った。
「教えてください」 「どこで習ったのですか?」 「先生は誰ですか?」 なかなか稽古熱心な生徒たちだ。まるで私がウェールズにいたころ、柔道家の小泉先生を招聘したような熱気があった。
ガイドは心配してこう言った。「危ないよ。治安が悪いから行かないでください」 「この三十人の若者に空手を教えるのが危ないのかい?そんなことはないだろう。ここで一時間ぐらい教えていくよ」 と言って、私は一時間ほど基本と意味を教えたりした。
それから、皆と一緒に町まで歩いて帰ってバーに入って酒を酌み交わした。それは楽しい旅のひとときだった。世界中、どこへ行っても空手道場があって、そのように飛び入りで教えることで友人を創ることができる。なかなか楽しい空手の効用である。 』
『 私が最初に日本にきたときには、明治生まれの日本人にとてもお世話になった。明治生まれの方は、気骨と教養を併せ持つ一種のサムライだった。英国風に言えば紳士である。
その中でも私がいまでも忘れられない人は、仲省吾(なかしょうご)氏だ。私が埼玉県の秋津に住んでいたころで、まだ私は二十四歳だった。私が、散歩の途中にオナガという鳥をカメラで撮影していたときである。
そこに着物姿のおじいさんがやって来て、しばらく私のほうを見ていたので、私は何となく英語で「すいません、英語を話せますか」と話しかけてみた。 ”Excuse me, Do you speak English?” ”Yes, Sir. What are you photographing?”
おじいさんは、すぐに 「はい。どんな写真を撮っているのですか」 と返事をしてくれた。それは完璧なビクトリア時代の英語であった。目を閉じれば、そこに英国紳士が立っていると間違えそうな話しぶりである。
でも、目の前にいるのは小柄な着物姿の日本人だった。路傍での出会いをきっかけにしてわれわれは友人となり、私は仲氏が住む老人ホームの中の一棟をしばしば訪ねるようになった。
仲氏は英国に長く暮らしたことがあり、英国を第二の故郷とするほどに愛していた。その教養は幅広く話題はつきることがない。見識の深さには舌を巻くほかなかった。
私は仲氏と一時期、ともに時間を過ごして、このような感想を抱いた。 「なるほど、このような人が日本という国をささえてきたのだな」 仲氏との出会いによって、日本という国への信頼をさらに深めた。
それは日本に来るきっかけになった柔道家の小泉先生と共通する魅力である。 「サムライ」 「武士道」 という言葉に代表される深い精神性と幅広い教養を身に付けた人が発する魅力だ。
そのような人びとは、礼儀作法を心得ており、薫り高い立ち居振る舞いをする。仲氏は自身のプライベートについて話さなかったし、私は自分が話すことに夢中だったので、仲氏からのプライベートなことを聞き出そうとしなかった。
だから、私は仲氏のプライベートをほとんど知らないまま、たくさんの話をしたことになる。何回も仲氏の部屋に伺い、ミルクティーをいただき、楽しい時間を過ごした。それは私にとっては魅惑のひとときだった。
だが、しばらくすると仲氏の健康状態が悪化したため、仲氏はうわごとを言うようになる。悲しいことに私を見て「デイビット」と呼び、こう言うのだ。 「デイビットよ、バーナードはどうしてここに来てくれないのかい?」
バーナードとは、英国の有名な陶芸家であるバーナード・リーチのこと。世界的な巨匠であり、英国随一の親日家といってもよい人物である。二十四歳の私も、高名なバーナード・リーチのことは知っていた。
仲氏が住む一棟の家の近くには、リーチ氏が作った日時計があった。私はそのとき知らなかったが、それはリーチ氏から仲氏に贈られたものである。
私にはリーチ氏に連絡する術もなく残念に思っていたところ、偶然にも新聞で「バーナード・リーチ氏来日」の記事を発見。手当たり次第に氏の連絡先を探しまくった。一時間後、私はリーチ氏と電話で話した。
「こちらに仲省吾氏という人がいて、あなたに会いたがっています。仲氏はいま、病気で体調がよくありません。できれば会いに来てくれませんか」 「参りましょう。明日伺います。秋津駅からの道案内をお願いできますか」 「もちろんです。お待ちしております」
短い来日期間中、リーチ氏は多忙なはずだが、友人の名前を聞いてすぐにほかの予定をキャンセルすることを決意したのだった。翌日、私は秋津駅でリーチ氏を出迎えた。そのとき氏は七十八歳。
老人ホームまでリーチ氏を案内しながら話をする中で、仲氏がロンドンで画廊を開いていたことが分かった。氏を部屋に案内すると、仲氏は元気を取り戻し、リーチ氏と会えた喜びを体中で表した。
私が廊下のベンチに座っていると、部屋の中から二人に嬉しそうな会話が聞こえてきた。後日、私が仲氏を訪ねると、もう私を「デイビット」と間違うことはなかった。
東京オリンピックや秋の鳥のことなどを話し続けたが、そのときが仲氏と会う最後になるとは思わなかった。しばらくして私は、仕事でカナダに向かうことになり、仲氏と二度と会うことがなかった。 』
『 カナダのトム・ライムヘン教授(以下、トム)が研究した「サーモン・フォレスト」のことを知っているだろうか。クマと森の関係を調べた彼の研究成果には驚くべきものがある。ここで紹介しておこう。
トムが気になったのは、クマがサケを捕えて森の中へ運んでいく様子だ。産卵期になると、生きたサケが波のように群れながら川をさかのぼってくるが、クマはそれらのサケをその場で食べずに、森に運んで食べているようなのだ。
不思議に思ってトムは、クマが運ぶサケの数を調査する。その結果、一年で一頭のクマが森の中に運ぶサケは七百匹。全長二,三キロの小さな川に四十頭くらいのクマが集まることもあるので、単純計算すると、その流域の森にばらまかれるサケは二万八千匹。
それらの一部はクマが食べるが、残った骨などは一年でネズミやシカなどに食べられ、残りは森の中でウジなどの昆虫によって一週間ほどで分解される。分解されたものは草木の栄養となり、森が成長するわけだ。
サケの死骸の栄養で森が成長していることから、学者たちはそのような森のことを「サーモン・フォレスト」と名付けた。それを聞いて私は、イヌイットなどの猟師たちとの経験から想像してみた。
クマも猟師や釣り人と同じように、サケを獲る縄張りを持っている。そこにほかのクマが来るとケンカになるが、クマはサケを手に持ち、口にくわえているのでケンカもできない。
ケンカをする暇がないほど食べるのに忙しいので、落ち着いて食べるためにサケを持って森の中に運ぶ。そのとき、クマは栄養がある頭の後ろとイクラを真っ先に食べる。
それからまた縄張りの川に戻ってサケを捕まえる。このようなことを繰り返し、大量のサケを森の中へ運ぶのだ。今度は森の上から、クマとサケの動きを想像してみよう。
一本の川には小さな支流がたくさんあり、その支流にはもっと小さな支流がある。そこをサケが遡上していき、クマがサケを捕って森の中で食べる。それは、サケという栄養が海から扇状に水源地である山の中に広がっていくことでもある。
サケという海からの栄養が、山に戻っているのだ。トムは、サケの栄養が森にどのような影響を与えたかも調べている。いろいろな調べ方をしたが、一番面白いのは、大木にボーリングして年輪を取ったこと。
カナダにはサケに関するさまざまな統計データが保存せれている。例えば、サケが川を遡上した数、サケを捕った数、サケ漁が禁止された年などさまざまだ。
そこで、トムが調べたのは、海水には含まれているが陸にはほとんどない安定同位体の窒素15。それが木の年輪に含まれているかどうかを調べたら、たくさんあることが分かった。
統計データと照らし合わせると整合性があり、サケの栄養がクマによって森に運ばれ、大木の栄養になっていることが明確になった。
サケがのぼらない地域とサーモン・フォレストを比較すると、同じ木であっても成長に二倍半の差があることが分かった。つまり、サケの死骸の栄養によって森が大きく育ったのだ。
私たちは曼荼羅のような大きな命のサイクルの中にいる。山の栄養は、雨や雪に浸食されたりして引力によって海に流れていく。そして海からの栄養を、サケ、アユ、ウナギ、海鳥などの生物たちは今度は逆に森に運んでいる。
そのことに私は感動した。トムは、イヌイットやアイヌという先住民族が持っていた知恵を、科学で解明したことになる。森や川で暮らしていた人はとっくに知っていたことに、近代科学がやっと追いついたのである。 』 (第129回)
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